六章 絵の副作用

31.無事でよかった。

 俺は規則的な寝息を立てている映の横に、そっと体を横たえた。映が安心して眠っているようで、安堵する。その無防備な寝顔は、赤ん坊を彷彿とさせる。映の頬を触りたくなったのを押さえて、目を閉じた。


 ふと気づくと、頭の上に投げ出されるように置かれたスマホは、俺がベッドに入ってから一時間が経過していることを教えていた。ちょっと仮眠をとるだけのつもりが、眠り込んでしまったようだ。スマホに触れた手がに、常温の油のようなものが付いていて、タッチ画面が汚れた。何だろうと思ってスマホの裏を見ると、赤い指紋がべったりと付いていた。不意に俺が悪寒を感じて完全に目覚めると、腹部に違和感があった。昔のおねしょの感覚がよみがえる。しかし、おねしょのような嫌なアンモニア臭はせず、錆びた鉄の臭いがした。しかも、ぬるりとした不快な感覚を伴っている。手で探るとシーツだけではなく、服や体も濡れているのが分かり、急に激痛が襲ってきた。腹を探った手を見ると、乾かないままの絵を触ったように、真っ赤に染まっていた。その手からはものすごい鉄の錆びた臭いと、生臭さが漂っていた。まるで、血抜き中の魚のような臭いだ。手についている液体は空気に触れるとすぐに乾き始め、手の平が突っ張ったように感じられて、不快だった。まるでリキテックス絵の具の赤を、手の平に乗せて放置したかのような感覚だ。一体何が起きているのかと、俺は驚いて布団をはねのける。もちろん、リキテックスの赤い絵の具なんて使ってはいない。そもそも、絵の具から鉄錆びの匂いはしない。では、自分の手についた物は、何なのか。答えは一つしか考えられない。はねのけた掛布団の下は、赤く濡れていた。赤いおねしょのようだった。ただ、おねしょにしては、禍々しすぎていた。俺を急に激しい頭痛が襲い、見えている天井や家具が撹拌されたようにぐるぐると混じり合いながら回った。その内、見えていた視界に靄がかかったように白くなっていく。まるで、強い光の中に放り出されたかのようだった。そんな視界の片隅に、血のついた包丁が床に落ちているのが捉えられた。台所にあった文化包丁だった。刃にも柄にも、血がべったりと付いていた。かろうじて血の付いていない刃の部分が、光を反射してギラリと狂暴に光る。その刃や柄に着いた血も、乾いて、黒ずんでいる。シーツは俺の腹部から流れ出た血で、盛大に濡れていた。これでは自分の命が危ないということぐらい、誰にでもわかった。血液でべたつく腹部をかばいながら、枕カバーの上に敷いてあったタオルを手にする。止血のためにタオルを腹部に押し当てるが、意識が遠のき、視界は白一色となる。息が切れ、まるで標高の高い山に登ったかのように呼吸が苦しい。空気はあるのに、上手くそれを取り入れられないという感覚。まるで陸の上に打ち上げられた魚だ。いくら口をパクパク開けたって、空気が流れ込んでくるだけで、酸素が体内に入って来ない。


「ぐっ、くそぉっ……!」


 俺は何とか手放しそうになった意識を、強引に手繰り寄せる。スマホを手にして、やっと一一九を押して、救急車を呼ぶ。相手が「火事ですか? 救急ですか?」ときいてきたのに、舌がもつれて正確には答えられなかった。息も絶え絶えの中で、蚊の鳴くような声で「救急車」という単語をやっとの思いで口にする。それでも相手はそのことを理解してくれたらしく、「すぐに救急車を向かわせます」と言ってくれた。一体どうして、こんなことになったのだろう。あそこに落ちている包丁は、何を意味するのか。状況から言って、寝ている間に刺されたのか。まさか、強盗にでもあったのか。寝ている住民を殺して金品を奪う。以前のニュースの中でそんな非道な強盗犯がいたことを思い出す。ここは閑静な住宅街だが、事件と言うものは得てして、起こるはずがない様な場所で起こるものだ。そう考えている内に、映がピクリとも動かないことに気付く。規則正しい映の寝息を確認する余裕は、今の俺にはなかった。俺は切れ切れになった息の間で、映の名前を呼ぶ。


「えい、映、大丈夫か?」


 自分でも愕然とするほど、小さくて弱々しい声しか出なかった。すると映は目を擦りながら起き上がった。


「どうしたの?」


 映はまだ寝ぼけていて、俺の必死さがあまり伝わっていないようだった。しかし、映が起き上がったことで、上掛けが半分以上めくれて、血の海が姿を現す。薄い緑色のシーツに広がった血の海は、俺が寝ていた場所にしかなかった。映は血まみれの俺を見て口を覆って、目をこぼれんばかりに見開いた。映が手で押さえた顔の部分に、血の跡が付いた。まるで、子供が口紅で悪戯をしたような、滑稽な顔だった。


「えい、無事で……、よか、った」


 俺は映の服にも血がついていたが傷一つない様子だったので安心し、そのままゆっくりと意識を手放した。遠くで救急車のサイレンの音を聞いた気がした。


「幸! 幸! しっかりして、幸!」


 映は叫びながら俺の腹部にタオルを必死に押し当て続けたが、よほど傷が深かったのか、出血は止まらなかった。救急車のサイレンの音が近づいてくる。もう映は半ばパニック状態で、髪を振り乱し、俺の名前を叫び、爪が白くなるまでタオルを押し当てていた。救急車が到着し、にわかに俺たちのアパートの部屋の前があわただしくなる。隊員がいつもかけているドアのチェーンに阻まれていたが、人命救助が第一の隊員たちは迷うことなく工具箱からいかつい大きなペンチを取り出す。ドアチェーンをペンチで挟むと、ゴキン! という金属同士がぶつかったような音がした。続いて、ドアチェーンがじゃらりじゃらり、と蛇の死骸のようにぶら下がって、ドアを打ちつけた。チェーンを切断し、ドアを開けた隊員たちが、部屋の中になだれ込む。映が泣き叫びながら、「こっちっです! 早く」と場所を伝える。訓練された隊員たちでも、一瞬息をのむのが分かる。


「担架!」


 その掛け声と同時に、担架が俺の方のベッドの床に準備される。隊員三人が俺の体の下に腕や手を差し込み、「せーの」と息を合わせ、俺を丁寧だが迅速に担架に乗せる。そして俺の体はすぐに救急車の中に運び込まれ、止血処置を施された。すぐに映を連れた隊員も救急車に乗り込み、発車しようとしたが、映が正常な判断を欠いていた。隊員たちは、現場の状況から、俺と映を夫婦だと勘違いしたらしい。一人の隊員は、映に向かって「奥さん」と呼びかけ、その声に映はびくりと肩を震わせた。




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