33.警察

その映の姿に気付いた看護師が、俺から映を引きはがすようにして廊下に連れ出す。震えながら泣く映を、看護師が毛布で包んで、擦って、落ち着かせようとしている。俺はそのまま手術室に運ばれて行った。映はひどく混乱していた。


「どうして、どうしてこんなことに?」


そう、映は繰り返した。俺が清川と連絡すると言っていたこと。自分を優しくベッドに寝せてくれたこと。映はそのまま俺の描いた絵を見ながら眠りについたこと。そして、自分の名前を呼ばれて起き上がると、俺が血を流して隣で倒れていたこと。何故そうなったのか、全く理解できなかった。

 窓には全て鍵がかかっていたはずだ。ドアにもチェーンがかかっていたことは、救急隊員が証言するだろう。つまり、外から部屋の中に侵入するのは不可能だったのだ。外部犯なら、密室トリックでも使わない限り、犯行は無理だ。さらに言うなら、部屋には俺と映しかいなかったし、凶器は台所にあった包丁だった。包丁は壁際の収納扉の包丁立てにあった。初めてアパートに踏み込んだ人間には、探さなければ見つけられない場所に、凶器があったことになる。

 そして、映はまた悪夢を見ていたのだ。ただし「悪夢病」とは違った悪夢だった。映は夢の中で、凶器を持った強盗に対抗するために、包丁を持っていた。映は夢の中で、俺を守ろうとしていたのだ。そんな夢の途中で、俺に起こされ、俺が血の海にいることに気が付いた。そして映の手も血まみれで、今はもう、血が乾ききって剥がれ落ち、カピカピになっていた。返り血を浴びたように映の服も血まみれだった。服に着いた血も、乾いて鮮やかさはもうなかった。一見、ワンピースに元からあった黒い模様のように見えた。状況から言ってしまえば、この殺人未遂事件の犯人は、映だった。しかし映には俺を刺したという記憶がなかった。


「わ、私が、幸を……? そんなこと、嘘よ」


映は自分の真っ赤な両手を見ながら、涙を流していた。


「だって、あれは、夢で……。私が包丁を握ったのは、夢、だったのに」

「しっかりして下さい。今、旦那さんも頑張っているんですよ?」


付き添いの看護師は、いまだに俺と映の関係性を誤解したまま、映を励まし続けた。


「先生に、連絡を。清川先生なら、きっと……」

「きよかわ先生?」

「――病院の、清川先生です」

「――病院? あの精神科の? あなた、そこの患者さんなの?」


ぎこちなく、油の切れた機械のように映はうなずく。看護師の顔色が一変する。何か、異物を見つけたかのような表情だった。


「ちょっと待っていて下さい」


そう言うと、看護師は別の看護師の元に駆け寄って、何か話していた。そして、何か伝言を受け取ったかのような看護師は、目を見開いて、一瞬、映の方を見て、薄暗い病院の廊下を走っていった。戻ってきた看護師の前で、映は繰り返し俺の名を呼んでいた。

 そして映はうずくまって、頭を抱えた。映は俺のことを、本当に大切に想ってくれていた。片時も離れたくない、人生のパートナーとして見てくれていたのだ。映はただ、俺の命が助かることだけを祈っていた。その一方で、映は状況的に自分が俺を殺そうとしたかもしれないと、思っているようだ。先ほど走り去った看護師が、再び慌てふためいた様子で駆けてきた。ここに来て公立病院の看護師たちは、映がいわゆる「悪夢病」の患者だということを知った。看護師は、ことの重大さに気づいて、すぐに清川に連絡を取ってくれたのだ。連絡を受けた清川は、すぐに映を再入院させることを決め、これから映を迎えに行くと告げて、電話を切った。看護師たちが困惑の表情で、映のことを見つめていた。夫を刺された痛々しい妻という認識から、夫を刺した精神病の女という認識に変わったのだ。映に最初から付き添っていた看護師ですら、映から一定の距離を保って近づいてこなかった。まだ映たちが罹った病気は、世間的にはあまり知られていなかった。そのため、理解の無い看護師たちは、映をただの殺人者として見ていたのだ。それでも映は、俺と同じ病院内にいる事で、何とか自分を保っていた。

しかし、誰が連絡をしたのか、それともこうした状況下では連絡網があるのか、公立病院に警察が来てしまった。二人の若い男性警察官だった。警察署で映から話しを聞きたいということだった。二人の男性警察官は、映の脇を抱えて連れて行こうとした。しかしそれを、映は振りほどいた。華奢な映の体のどこにそんな力があったのかと言うほど、暴力的で強引な行動に、二人の警察官は目を見張った。そして映は、恐ろしい目で警察官二人を見据えた。


「警察署には、行きます」


それは映の決意の言葉だった。風に、映のスカートの裾が翻り、髪の毛が流された。


「でも、条件があります。幸の、幸の様態だけ、確認させてください。そうしたら、必ず警察署に行くと約束します」

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