34.俺の患者


「黒森映を警察に引き渡しただと? 正気か、テメェら! 俺の患者をよくもあんなところに連れて行かせたな? それでも医療人か?」


 ナースステーションの前で怒鳴り、喚きたてる清川に、看護師たちは困り顔で眉をひそめる。ただのうるさいクレーマーか酔っ払いだと思われても仕方がない言動だった。普段着にサンダルという格好だから、余計にそう見えるのかもしれない。いつもなら白衣くらい着て来そうなものだが、さすがの清川も映の状態を聞いて冷静さを欠いたらしい。今にもナースステーションのカウンターを乗り越えて来そうな勢いの清川を、男性看護師たちが必死に押さえつけている。


「それで、中島幸は無事だったんだろうな? 担当医はどこだ、担当医! 説明しろ!」

「ですから、もう少しお静かに願います。先生は今診察中ですので……」


 若い看護師がまるで手が付けられない飼い馬をなだめるように、人差し指を鼻のてっぺんにくっつけて、もう一方の手を張り手のように突き出している。しかしこの対応が清川の火に油を注いだ。青筋をうきたたせて、今にも台を飛び越えてナースステーションの中に乱入しようというくらいの勢いだった。


「黙れ! おい、じゃあ、黒森映を警察に引き渡した極悪看護師はどこだ? 説教してやる! 連れてこい!」


 罵詈雑言の嵐の中、ナースステーションから、ひときわ貫禄のある女性看護師が出てきて、清川と対峙する。


「お前が看護師長様かよ?」

「そうです。中島さんは一命を取り留めました。黒森さんを警察に頼んだのは、私です。これで、少しは御納得していただけましたか? これ以上業務妨害をなさるなら、あなたも警察の方に引き渡すことも考えられますが?」

「やっと話が出来る奴が出てきたか。おせぇんだよ! それで、一命を取り留めた中島幸は、もう安定して、大丈夫なんだろうな?」

「ええ。もちろん。うちの先生方もスタッフも優秀ですから」


 看護師長は胸を張る。おそらく映を警察に引き渡したのは、この看護師長ではない。それは清川も分かっていた。しかし、自分の部下の責任は自分だと言いたげな看護師長に、これ以上詰め寄ったところで、何も解決しない。


「その言葉、覚えとけよ! もし急変させて急死でもさせてみろ。こっちが医療ミスで訴えてやるからな!」


 そう言い残して、清川は公立病院のナースステーションを後にした。俺の様態を確認して、一命を取り留めたと聞いて安堵したのは、きっと俺のためではなく、映のためだろう。このことだけを言質にとった清川は、映の元へ急いだ。そして公立病院の時と同じように、警察署に押し入った清川だったが「公務執行妨害」という罪名の前では無力であり、警察に協力せざるを得なかった。清川は「俺の患者だ。丁重に扱え!」という捨て台詞を吐いて、署から出てきたらしい。


 それから清川はある可能性に気が付いて、再びカルテと向き合った。


 俺はその騒動から三日が経過した昼に目が覚めた。しかし、腹部にまだ激痛が走るため、動くことができなかった。しかも、呼吸にも腹筋を使うため、言葉が発せず、呼吸も浅く出来る程度だった。他の人と会話ができるようになったのは、それからさらに三日後だった。そんな俺の病院の個室に、一番初めに姿を現したのが、目の前にいる清川だったので驚いた。俺が目覚めた時には、きっと傍らに映の姿があるとばかり思っていたからだ。しかし、清川から警察の動きを聞いて、さらに驚いた。映は殺人未遂の容疑をかけられ、警察署にいるというのだ。俺はそのことに対して怒りが湧いた。俺は断言できる。あの時のあの状況を鑑みても、俺を刺したのは映ではない。俺と映の間には、殺意など生まれるはずもないのだ。俺は真っ先に、映の状態を思い浮かべた。身に覚えもないことで責められて、衰弱していく映の姿は、想像するだけで痛々しかった。


「それで、映は?」


 腹が痛むが、それどころではない。このままでは映が刑事裁判にかけられてしまう。しかし清川が首を振って「手が出せない」と言った。俺の腕には何本も点滴のチューブが刺さっている。赤黒いのは、輸血だろう。あまりに出血量が多かったため、難しい手術となったようだ。まるで自分の血と輸血分の血を入れ替えたような状態なのだ。


「まあ、君が目覚めてくれて良かったよ。これで黒森さんは殺人罪には問われない」


 あいかわらず、自分の患者である映のことしか考えていないような発言だったが、俺はそれを不快だとは思わなかった。むしろ、清川と同じく安堵していた。俺があのまま死んでいたら、本当に「死人に口なし」だ。俺にできる事がなくなってしまう。俺は自分自身で、映が俺を刺したのではないということを証明するために、生きて帰ったのだと思えた。

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