五章 「薬」の拡散

25.睡眠負債

 俺は復学し、映はハローワークに通い始めた。病み上がりの映に、少しは休むように言ったのだが、聞き入れてもらえなかった。元々真面目すぎる性格の上に、今度は自分が俺を支えるのだと、さらに張り切っていた。しかし映は張り切った分だけ空回りする性格なのか、なかなか仕事が見つからずにいた。俺はそれでいいと思った。楽天的な考えで言っているのではなく、こうした時こそ「急がば回れ」だと思っているからだ。今でも定期的に診察を受けに行っている映にとって、休んでも休み足りない負荷がかかっているだろう。

 その日も映と一緒に食事をとりながら、朝の情報番組を見ていた。もちろん、映はハローワークに行くつもりで準備していたし、俺は俺で、大学に行く準備をしていた。やっと訪れた二人の平穏な時間だった。


「今日くらい、休んだら?」


俺はハローワークカードを、手帳に挟もうとしている映に言った。昨日の月曜日が清川の診察日だったため、今日はその翌日。最近は診察時間十分程度に対して、待ち時間が一時間も越える。入院して体力が落ちている映にとって、待ちくたびれるだけでも辛いはずだ。しかし映は首を横に振るだけだ。


「駄目よ。火曜日には求人票が更新されるんだから。最新の求人を見るには、やっぱり火曜日もちゃんと通わないと。もし私にできそうな求人があっても、他の人に先を越されるかもしれないし、定員になるかもしれないじゃない」

「相変わらずだな」


俺は朝食にコーヒーを飲みながら、苦笑いしていた。映はノートやらボールペンやらファイルやら、ハローワークの準備に余念がない。前向きなのはいいことだが、前のめりになるのは良くない。焦って決めたところがブラック企業だったら、どうするのだろう。また入院することにはならないだろうかと、俺は内心穏やかではない。

何となく朝の習慣になった朝食時の情報番組で、「睡眠負債」という言葉を耳にした。その言葉に、俺も映もひきつけられ、二人同時に動きを止めた。睡眠不足の不足分は、翌日に持ち越され、次々と加算されて増加するというものだった。映はまさに悪夢のせいで、睡眠負債を抱えていたのだ。今は生き生きと忙しく家事をこなす映を見ていると、眠れないと悩んでいた時期とはまるで別人だった。ただ、悪夢がよほど怖かったのか、ベッドの上には俺の描いた絵が、まだ飾られていた。

 ニュースでは、まだ睡眠に関する特集が続いていた。そして、最近、悪夢を見て眠れない人が多いことが紹介された。俺と映はテレビに釘付けになり、トーストを皿の上に落とした。悪夢の内容が、ランキング形式で紹介される。三位と二位を大きく引き離して、一位になったのは、「化け物に食べられる」だった。顔を見合わせた俺と映は、新聞受けに走り、その場で新聞をめくった。この地域ではどの家庭でも取っている地方紙だった。その地方紙の地方ニュース欄に、「悪夢病? 県内急増」の文字が躍っていた。俺は言葉を失って震えだした映を強く抱きしめた。映も俺に抱きついてくる。


「終わって……、なかった、のね……」

「一体何が起きてるんだ?」


俺は苛立っていた。その矛先は、自然に清川に向いた。映を支えながらベッドに向かい、今にも泣きだしそうな映を横たえる。


「私、またあの夢を見るの?」


子どもが泣く寸前のような、頼りない声を出す映は、もう目が充血していた。


「大丈夫。ここには僕の絵があるだろ?」


映は壁に建て替えられたコルクボードに張り付けられた絵を見て、何度もうなずいた。


「そうね。そうだったわね」

「今日はハローワークを休みして、ここでゆっくりするといいよ。俺は清川先生と連絡を取ってみるから」


俺は玄関に投げ出した新聞を拾い上げ、読み直す。「悪夢病」は映たちが見て、経験した例の病に付けられた名前だった。そして病についての説明と報告の後に、驚くべきことが載っていた。「悪夢病」の特効薬として、SNS上で「現代の獏」が紹介されていた。その「現代の獏」には、なんの科学的根拠もなく、危険だとされていた。俺は嫌な予感がして、スマホで検索をかけ、さらに驚いた。


「何だよ、これ⁉」


映が眠ろうとしているにもかかわらず、思わず大きな声をあげていた。俺が映のために描いた絵が、ネット上にいくつもアップされていた。中には俺が描いた物の贋作が、高値で売買されていたり、無料掲示板に張り付けられていたりした。この絵を唯一コピーしたのは、清川だ。清川が俺との約束を破って、ネットに流したのだ。そう思い込んだ俺は、怒りで頭がいっぱいになった。


「話が違うじゃないか!」


俺はすぐさま、清川が勤務する病院に電話をかけたが、つながらなかった。病院に電話が殺到しているのか、いつも通話中だった。俺がスマホを切ったタイミングで、映の置きっぱなしのスマホが鳴った。迷うことなく、俺はその電話に出る。


「もしもし?」


相手は黙ったままで、俺は苛立ちを隠せず、怒鳴った。


「もしもし⁈」

「中島幸で、間違いないか?」


相手は小声でヒソヒソしていた。声は清川のものだった。


「あんた、俺との約束破ったな? 今どこにいるんだ?」


怒りを隠すこともなく、清川を責めるように俺は言った。


「それは本当にすまないと思っている。だが、今はそれどころじゃない」


清川は則田と話したことを、出来るだけ簡単かつ正確に俺に伝えた。専門用語は使わずに、丁寧に説明した。則田と言う人物に、病について相談にのってもらったこと。映たちの本の貸し出し履歴を見るために、俺の絵のコピーを則田に渡したこと。清川は俺の絵をネットにはアップしていないこと。洗いざらい話してもらい、怒りで熱くなっていた俺の体は急激に冷えていた。鳥肌が立って、何か黒い煙に巻かれているような感覚があった。


「じゃあ、その森崎楓という人物が、元凶?」

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