11.白い影

「やはりMRIでも、異常はありませんでした」


 医師はMRI画像を貼りつけながら、キャップしたペンで示す。


「これが大脳で、この二つが目。とても健康な状態です」


 確かに写真は明瞭だった。俗にいう「白い影」のような物も映っていない。


「心療内科は、階段を上ってすぐです。二階にあります。おそらくそちらの方が、治療に向いていると思いますよ。では、お大事に」

「受け付けは?」


 私はひどく動揺していた。「今日はこれで終わりでしょ?」という言葉を、変換して口にしていた。しかし、そんな私の気持ちを裏切るように、幸は言った。


「ごめん、映。俺が受付しておいた。行こう。ありがとうございました」


 幸は私に口を挟む余地を与えずに、踵を返した。私は階段の踊り場でやっと幸に追いついて、怒りをぶつけていた。


「どうして、勝手なことするの?」


 声は控えめだったが、私は幸をにらんでいた。私のためだということは分かっていて、眠らなくなったせいか苛々して、自制が効かなくなっていた。


「映、最近寝てなかったでしょ?」

「どうして、それを?」


 一番触れられたくなかったところを突かれて、私の頭の中は一瞬真っ白になる。苛立ちが消え、動揺していた。


「一緒に住んでいれば分かるよ。コーヒーの減り具合や缶の中にドリンク剤があったし、夜だってわざと寝る前にスマホを見てる。このままだと死んじゃうよ? 今の映は、命を自分で削っているんだよ?」


 幸は、どこか悲しげだった。しかしそれを私は理解してあげられなかった。


「死ぬなんて、大袈裟よ」

「今だって、感情のコントロールが出来ていない」

「それは、そうだけど」


 私はすねた子供のように口をとげて、俯いた。そんな私に幸はどこまでも優しかった。


「大丈夫。俺はいつも映の味方だから」

「私が皆から白い目で見られても?」

「もちろんだよ」

「わかった」


 私と幸は、心療内科の長椅子に腰掛けて、順番を待った。私は恥ずかしかった。幸に比べて、私はどうしてこんなにも稚拙なのだろう。まるで私は親に連れて来られた幼い子供ではないか。


 心療内科には、老若男女、大勢の人がいて驚いた。こんなに多くの人が、心に何らかの病を持っているのだとは、知らなかった。中にはずっと足を揺らしている男の人や、天上を見上げる人、リストカットの痕がある人もいた。待ち時間は一時間以上になった。気の長い幸ですら、時計を気にするようになった頃、やっと名前が呼ばれた。幸は診察室に入れなかったが、笑顔で送り出してくれた。中にいたのは、背が高く老齢な医師だった。医師と向かい合って座る。医師と患者の間には、机一つなかった。春の温かな日差しが、窓から差し込んで来ていた。これならロールカーテンをしなければ紙が焼けてしまう、などと、もはや自分には関係ないことを考えた。


「眠るのが怖い、ですか?」


 穏やかに微笑みながら、老齢な医師は語りかけた。私は、消え入りそうな声で返答し、うなずいた。


「はい」

「大きなストレスがありましたか? 嫌なこととか……」


 きっと、私と似た症例を多く見てきたのだろう。どこか確信めいた質問だった。窓の外では、葉桜が風邪になびいて、ざわざわと音を立てていて、それが不思議と心地良かった。私はうなだれながら、ぽつりぽつりと言葉を重ねた。


「仕事が、上手くいきませんでした。何をやってもダメで、退職しました」


 他人のせいにはしたくなかったのに、自分の口から語られたのは、他人から受けたことばかりだった。先輩が厳しかったこと。なかなか就職が決まらなかったから、辞められずにいたこと。社長が新しくアルバイトを雇ったこと。自己管理のなさを、会社に責められたこと。まるで自分には問題がなかったような言い方だったのに、老医師はずっと頷いてくれていた。溜まっていたことを吐き出して、私は胸が軽くなった気がした。


「それは大変でしたね。夢は、どんなものを見ますか?」


 心療内科だからだろうか。私が吐き出したものをすくい上げるように、慈しみにも似た声でそう言われると、何でも話してしまいたくなる。私はどうして今まで、差別的な目でこの科を見ていたのだろう。この科に罹る人は心の弱い人だと、邪見にしてきたのに、どうしてこの医師はこんなに私の話を真摯に聞いてくれるのだろう。


「化け物に食べられます。眠ると、割とすぐに……だと思います」


 私は、絞り出すように悪夢の全容を語っていた。眠ると化け物に食われ、その恐怖と激痛に目が覚めるという繰り返しだった。だから私にとって悪夢はいつ見るか、と言うよりも、常に眠りとワンセットだった。


「幻覚、なんでしょうか?」

「幻覚?」


 老医師は私からその単語が出てきたことに、とても驚いているようだった。だから、思わず告げ口をするように、先ほどの医師との会話の内容を話した。




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