11.白い影

私が青ざめた顔でつぶやくと、医師は咳払いをして「可能性の問題で、まだ断定はできません」と言いながら机に向きなおり、何かをカルテに書きこんでいた。看護師が絶妙なタイミングでカーテンの陰から現れ、医師が書いたカルテを受け取る。


「検査、脳波だけならすぐ入れるでしょ?」


医師がそう言うと、看護師は「はい」と答えた。その看護師が私と幸に一礼して「ご案内します」と廊下に出るように促した。慇懃すぎるその態度は、どこか機械めいていて、馴染めなかった。看護師に先導されて、私と幸は薄暗い廊下を歩いた。随分と入り組んだ作りをした建物だ。まるで迷路の様で、案内がなければ確実に迷っていただろう。


「付き添いの方は、こちらでお待ちください」


「脳波検査室」のプレートの横椅子に、幸は座り、私は中に入った。看護師は中にいる職員に「お願いします」と声をかけてから戻って行った。私は脳の検査を初めて受ける。その検査器具が妙にフィクションじみていて、言葉を失った。よく漫画や映画で見る物だ。電極を付けるところにジェルをつけて、電極が付いたネットをかぶる。どう見ても間抜けな格好だった。ベッドに仰向けになり、そのまま部屋の中は静まり返った。しばらくして起き上がると、検査はこれで終わりだと伝えられた。ネットと一緒に電極を外すと、髪の毛の間に残ったジェルがべとべととして、気持ち悪かった。早く家に帰ってシャンプーがしたいと思うほど、不快さだ。

 この検査の結果はすぐに出たが、起きている時の脳波に異常は見られなかった。三日後のMRI検査でも問題がなければ、心療内科に回されてしまう。私はそれだけは避けたいと思いながら、眠らずに三日間過ごした。眠らない代償は大きく、肌や口の中は荒れて口内炎や口角炎になった。髪にもコシやハリがなくなり、ぼさぼさでまとまらない。頭が働かなくなって、家事に支障が出た。日中にひどい眠気が急に襲ってくることもあり、ひどい頭痛も続いていた。それでも私は、鎮痛剤を飲まずに必死で耐えた。

 そしてついにMRI検査の日が来た。病院へ行って予約券を見せると、そのままMRI検査室に案内された。MRIも、私にとっては初めての検査だった。金属系の物を付けることは禁止され、台の上にベルトで完全に固定される。耳にはごついヘッドフォンをはめられ、頭も固定される。いざ検査が始まると、ヘッドフォンの意味が分かった。MRIの音が凄まじく大きい雑音なのだ。そして穴の中を、私の頭が行ったり来たりして、脳が今ぶつ切りの画像になっていると想像できた。検査は大げさな割に、すぐに終わった。結果が出るのも早いため、診察室前で待つように言われた。幸と一緒に待っていると、幸はその間、図書館の本を広げていた。リラックスできる呼吸法の本だった。私はMRIで病原が分かるように、祈っていた。もし私が心療内科や精神科に通っても、幸はきっと私の側にいてくれるだろう。しかし幸の家族は、嫌な思いをするかもしれない。まして私の家族は、私のことを見放すのではないだろうか。

私の名前が呼ばれて、幸と一緒に診察室に入る。医師は私にとって絶望的な結果を告げた。


「やはりMRIでも、異常はありませんでした」


医師はMRI画像を貼りつけながら、キャップしたペンで示す。


「これが大脳で、この二つが目。とても健康な状態です」


確かに写真は明瞭だった。俗にいう「白い影」のような物も映っていない。


「心療内科は、階段を上ってすぐです。二階にあります。おそらくそちらの方が、治療に向いていると思いますよ。では、お大事に」

「受け付けは?」


私はひどく動揺していた。「今日はこれで終わりでしょ?」という言葉を、変換して口にしていた。しかし、そんな私の気持ちを裏切るように、幸は言った。


「ごめん、映。俺が受付しておいた。行こう。ありがとうございました」


幸は私に口を挟む余地を与えずに、踵を返した。私は階段の踊り場でやっと幸に追いついて、怒りをぶつけていた。


「どうして、勝手なことするの?」


声は控えめだったが、私は幸をにらんでいた。私のためだということは分かっていて、眠らなくなったせいか苛々して、自制が効かなくなっていた。


「映、最近寝てなかったでしょ?」

「どうして、それを?」


一番触れられたくなかったところを突かれて、私の頭の中は一瞬真っ白になる。苛立ちが消え、動揺していた。


「一緒に住んでいれば分かるよ。コーヒーの減り具合や缶の中にドリンク剤があったし、夜だってわざと寝る前にスマホを見てる。このままだと死んじゃうよ? 今の映は、命を自分で削っているんだよ?」


幸は、どこか悲しげだった。しかしそれを私は理解してあげられなかった。


「死ぬなんて、大袈裟よ」

「今だって、感情のコントロールが出来ていない」

「それは、そうだけど」


私はすねた子供のように口をとげて、俯いた。そんな私に幸はどこまでも優しかった。


「大丈夫。俺はいつも映の味方だから」

「私が皆から白い目で見られても?」

「もちろんだよ」

「わかった」


私と幸は、心療内科の長椅子に腰掛けて、順番を待った。私は恥ずかしかった。幸に比べて、私はどうしてこんなにも稚拙なのだろう。まるで私は親に連れて来られた幼い子供ではないか。

 心療内科には、老若男女、大勢の人がいて驚いた。こんなに多くの人が、心に何らかの病を持っているのだとは、知らなかった。中にはずっと足を揺らしている男の人や、天上を見上げる人、リストカットの痕がある人もいた。待ち時間は一時間以上になった。気の長い幸ですら、時計を気にするようになった頃、やっと名前が呼ばれた。幸は診察室に入れなかったが、笑顔で送り出してくれた。中にいたのは、背が高く老齢な医師だった。医師と向かい合って座る。医師と患者の間には、机一つなかった。春の温かな日差しが、窓から差し込んで来ていた。これならロールカーテンをしなければ紙が焼けてしまう、などと、もはや自分には関係ないことを考えた。

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