下
図書館に来るのは、何か月ぶりかと、指を折って数えてみる。折ることができたのは、たった二本だけで、それだけで私を疲れさせた。学生の頃は、「もう二か月」なんて言っていたのに、今は「まだ二か月」と思う。思えば、社会人になる前までは、ちゃんと外から名付けられてきた。幼稚園児、小学生、中学生、高校生、そして大学生。この年齢による名付けのおかげで、無意識的に自分が成長していると思い込んでいた。しかし、社会人になると、急にその名付けがなくなる。年齢によって区切られることも、成長しているという実感もなくなる。小学校では六年、中高生では三年ずつ、大学は四年。その年月を消化できれば、つつがなく次のステージに行くことができた。しかし社会人でそれを実感できるのは、企業で昇進できる人だけだと思う。社会人に終わりはなく、死ぬまで働くことを考えると、とても私にはやっていけないと思う。
私は数えるために挙げた手を、だらりとぶら下げ、力を抜いた。そうすると、にわかに自分の手が重く感じられるようだった。疲れているという自覚はあるのに、最近は眠りが浅い。昨日の疲れを、今日に持ち越している状態だ。私は書架の間をふらふらと歩きながら、本の背表紙を目で追っていた。
この時期の日差しは鋭く、紙の劣化を速める。本ならば天井が日焼けしてしまったり、紙の色が飛んでしまったりするのだろう。それを防止するために、昼間なのにロールカーテンが引かれ、照明が天上から光を落としていた。その光はよく手入れされた合板材の床に、柔らかく反射している。以前の県立図書館は古くて暗いイメージだったし、床も劣化したリノリウム材だった。そのため床は端から剥がれ、階段は暗く、トイレも古かった。そのためか、いつも芳香剤のような臭いがして、あまり無理をしてまであの建物に入りたいとは思わなかった。しかし今は新しく移築され、駅にも近くなった。所蔵する本の数も倍増し、様々なジャンルの書籍が揃っている。背表紙を見ているだけでも、満足できるほどだった。カウンターの司書の方の顔ぶれも、新しくなった。以前の図書館では見かけなかった司書の顔も多い。今は何でもペーパーレスの時代で、司書にもきっと相当なパソコンスキルが必要なのだろうと、勝手に推測する。
紙とインクの臭いは、もう飽きたと思っていたのに、図書館の匂いは独特だ。古い本の熟成されたチーズのような匂いと、新しい紙とインクの匂いが入り混じり、そこに来館者のほのかな体臭が混在している。この匂いを嗅いでいると、自分が図書館の一部になった気がして、ほんの少しだけ、心が和らいだ。ここの図書館なら、毎日通ってもいいと思えるほどだった。
私は占いの本が集まったところで足を止め、背表紙を撫でるように読む。それらの本の中に、夢占いの本を見つけて、手に取るが思ったより軽かった。厚い本だと思ったのだが、厚いのは使用されている紙だけで、中身もページ数も少なかった。約一八〇キロの紙に印刷されていると感じるのは、職業病だろうか。私が勤めているのは、この県立図書館から近い文具店だった。だが、仕事を覚えるのに必死で、図書館から足が遠のいていた。消灯した図書館を見ながら家に帰る時、何度も悔しい思いにかられた。学生の頃の自分はここでもっと勉強していたし、物語を楽しんで、充実した日々を過ごしていたのに。そんな過去の自分に嫉妬して、虚しくなるのが常だった。
今は仕事の失敗を悔いるばかりで、自分の娯楽的なことは全て後回しにしてきた。図書館に行くことすら、今の私には贅沢なことだった。
今日はたまたま、平日の昼間にやっと休みが取れて、念願だった図書館に来ることができた。私は次に手にした本を、その場でぱらぱらとめくってみた。そして隣の本も同じように、ぱらぱらとめくる。どちらも大きな文字で、かわいらしいイラストが描いてあったが、書いてあることはどれも似たような、それも誰にでもあてはまるようなもので、私は肩を落とした。結局、朝の情報番組の最後にある星座占いと変わらない。夢の解釈も、誰にでも当てはまりそうなことや、当たり障りのないことが書いてあるだけだ。私は静かに大きなため息を吐いて、夢占いの本を棚に戻した。しかしその時、戻した本の隣りに並んでいた本の題名に、軽い違和感を覚えた。
『面白い! 睡眠法』
「睡眠法」という文字に強く惹かれたのと同時に、何が「面白い」のか気になった。先ほどと同じように、本をぱらぱらとめくってみると、大まかだが決定的に、私の期待を裏切る内容だった。それは「睡眠法」という私が求めていたことにはあまり触れられず、睡眠や夢についての雑学を紹介するという内容だったからだ。本の後ろで筆者のプロフィール欄を確認すると、やはり科学者や医師ではなく、森崎楓という文系の経歴しか持たない人だった。私はすっかり関心を失い、ぱらぱらと再び本をめくった。何故か鼻で嗤っていた。それが自嘲であることは、自分自身が一番よく分かっていた。肩透かしした気分は、所詮期待を持った自分の見る目の無さなのだと思った。既に読もうという気はなく、手持無沙汰にやっていたにすぎなかったが、あるページで手が止まった。題名に「悪夢を見た時は」という文字の羅列を見つけたからだ。睡眠が浅くなってから、よく夢を見るようになっていた。しかも、あまり良くない夢だった気がする。私は思わずそのページを読んでいた。
「悪夢を見たら、その夢を獏に食べてもらうのが一番です。この夢は獏にあげます、と三回唱えましょう。そうすれば、貴方の悪夢を獏に食べてもらえます」
何となく、私でも聞いたことがある迷信だった。しかし獏と言う生き物は、見たこともない姿をしていた。毛むくじゃらで、不格好な姿だった。イラストで紹介されたそれは、私たちが普段、動物園やテレビで見るツートンカラーの動物ではなかった。ただそれだけが意外で、一つ利口になった気がした。話のネタになると思って、私はその本を借りることにした。読む気はなかった。せっかく図書館に来たのだからと、小説や健康のハウツー本を合わせて、貸出上限いっぱいに借りた。返却は時間外でも返却ポストに入れるだけなので、気が楽だった。
結果として、私は獏が載っている本を開くことはなく、返却期限を迎えた。迷信を誰かと共有する気にもならなかった。
しかし、ただ一人私の同居人だけが、真剣な顔でその本を開いていた。そして真剣な顔のまま、「寝具を新しくしてみよう」と提案してきた。私はその提案を聞いて、こう言った類の迷信は、案外こうして現実の役に立つのだと感心してしまった。
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