一章 絵の才能

1.おかしなこと


 私は物心ついた時から、絵を描くのが好きだった。一人でいることが多かった私は、幼稚園に行っても友達が出来ず、いつも一人で絵を描いた。冷たい床に正座して、画用紙に水性ペンを走らせ、次々にページを埋めていく。そこに集中できたのは、お遊戯室や園庭で遊んでいる皆の声を聞きたくなかったからだろう。一度でも聞いてしまえば、自分が一人であることを思い知らされるからだ。幼稚園の先生たちは、皆にかかりきりで、私のところにはちゃんと教室にいるのか確認しに来るだけだった。こうした日々が、皮肉にも私の画力を上達させていった。そんな私の絵を、幼稚園の先生は褒めてくれた。そして私の絵を、その先生がコンクールに出してくれることになった。私の中だけで完成し、完結していた物が、初めて私の手を離れて他人の目にさらされるのは、正直不安だった。皆は私に「○○描いて」とか、「私を描いて」とか、再三リクエストをしてくれたが、〇〇というアニメキャラクターを知らないというと、遅れてると言い、肖像画を描くと似ていないと文句を言われていた。子供の目にも私の絵は遅れていて、似せて描くこともできないと判断されるのだから、大人が見るコンクールで何を言われるのか、心配だったのだ。


 しかし私の絵がコンクールで金賞をとったことで、私の中にあった不安は消え、自信という、初めて手にする感覚に変わった。それは私の手に余る感覚だったが、私もここに来ていて良いのだと思わせてくれた。金賞という字が、文字通り金色のプレートに黒い文字で書いてあった。そんな私の絵は、地元の小学校の体育館に飾られることになり、両親と一緒に見に行った。プレートのせいか、私の絵は私の手を離れる前と今では、まるで違って見えた。堂々としているというか、ちょっと偉そうと言うか。とにかく立派に見えた。両親は私を絵の前に立たせて、写真を撮っていた。そして声をかけられると、私よりも満足そうに笑いながら謙遜していた。「たまたまなんです」と言っては、他の保護者にお辞儀をする両親は、言葉とは裏腹に誇らしげに見えた。


 小学校に入ると、すっかり自分の絵に自信を持った私は、漫画家を目指すようになっていた。自由帳が手に入ると、そこに真っ黒になるまで絵を描き続けた。他の子が私の絵を喜んでくれる時も、私の画力を羨んでくれた時も、私はそれを当然のように思っていたが、建前の謙遜も忘れなかった。私と違う幼稚園出身の子の中にも、同じく漫画家志望の子はいたが、その子より私の方が上手く描けていると思っていた。


 しかし小学校の美術という科目において、より高い評価を得ることができたのは、私ではなく、違う幼稚園出身の「その子」だった。美術の先生は授業中に皆の前で言った。


「漫画と絵は違うものです」


 その時の絵のテーマは、「友達の絵」ということで、席が隣り合ったクラスメイトを描き合った。黒板には、二枚の絵がマグネットで張り出されていた。先生は名前を口に出さなかったが、私と「その子」の絵だということは、私自身がよく知っていたし、クラスメイトも暗黙の了解だったに違いない。先生が言いたかった点は、目の大きさと、顔と体のバランス、そして手足についての三点だった。先生の右に側私の絵があり、先生の左側に「その子」の絵があった。


「まず、口より目が大きいのは、おかしなことです。顔半分を目で占めている人は、実際にはいませんし、黒目の中に光りが入り過ぎです」


 先生は伸縮する指示棒で、私の絵を指しながら言う。教室から見える桜の葉が風でざわざわ言うように、私の心の中もざわざわ言った。


「次に、右は頭が小さすぎています。正しくは、左の絵のようなバランスです。モデルの方の中には、八頭身やそれ以上の方もいるでしょうが、このクラスにはそのような人はいません」


 先生の言葉はきっと正しいのだが、あまりに容赦がなかった。その言葉でぴしゃりと、頬を叩かれたようだった。しかし本当に叩かれたのは、私の内部にあった自信や自尊心の方だったに違いない。椅子に座っていた私は、おしとやかに手をそろえる振りをして、一方の手をもう一方の手で、強く握りしめたいた。


「最後に、手足を比べてみて下さい。右は細くて長いので、これでは立つこともできません。左の方は、健康的でしっかり立てる手足をしています。皆さんも、もう一度自分の絵を見て、この三点をよく観察しながら描きましょう」


 屈辱的だ、と私は思って、下唇を噛みしめた。わずかに鉄の味がした。これでは公開処刑ではないか。今まで皆に褒められてきたのに、今は私だけが反面教師にされている。私の他にも、漫画的な絵の人はいたのに、どうして私だけが比べられるのか、納得できなかった。大体、女の子同士で描き合えば、少なからず相手を美化して描くのが常識だ。相手を傷つけるように描くことは、相手を不快にしかさせない。それどころか、クラスの皆に陰口を叩かれて、無視されてしまうかもしれない。先生はそんなクラスのちょっとしたバランスに対して、あまりに無知で無関心だった。

授業終わりに、皆が私を見ていることに気付いた。悪意を孕んだ視線が、痛い。何人かの親しいクラスメイトでさえ、腫れ物に触るように声を掛けられた。


「先生、ひどいね。私は映ちゃんの絵の方が好きだよ」

「そうだよ。映ちゃんの絵の方がかわいいよ」


 そんな救いにもならない言葉を貰っても、私は嬉しくなくて、「うん、ありがとう」という偽善的な笑顔で応じた。納得なんてしていないのに頷いて、有り難いなんてちっとも思っていないのに、礼を言う。これが偽善でなくて何なのだ。そんな時、一人のクラスメイトが近づいてきて、泣きそうな声で私に謝った。私の絵と比較され、先生から手本とされた絵を描いた「その子」だった。


「ごめんね、黒森さん。私も先生のやり方はひどいと思う」

「うん。ありがとう」


 私はまた同じ言葉を返す。


「黒森さんの絵、本物の漫画家さんみたいに上手だね」


 そういってはにかんだように笑う「その子」の顔を、私は直視できなかった。「その子」の言葉は、私にとって最高の褒め言葉だったはずだが、喜べなかった。その上、お門違いも甚だしいことに、「その子」を恨んでいた。私以上に偽善者なのは、目の前にいる「その子」だと思った。分かりやすい判官贔屓。皆がまだ美術室から出ない内に、謝罪する「その子」。


――何であんたが謝るのよ?


そんな攻撃的な言葉が、頭に浮かぶ。それを声に出さないように、さらに歯を食いしばり、泣きそうになるのを我慢した。「その子」は、仲の良いクラスメイトと共に、美術室を退室した。


 教室に戻ると、いつもの空気と明らかに違う空気が充満していた。明らかによそよそしく、冷たくて暗い空気だった。私はこのクラスに歓迎されていないと感じるには十分だった。私の姿を確認したのに、それを無視してクラスが動き出す。


「本当に絵がうまいよね」

「その子」の友達が、私に聞こえるように言った。

「そんなことないよ」


 その建前上の謙遜は、私にだけ許されてきたはずのモノだった。それなのに、今は


「その子」のモノとなっている。

「それに比べて黒森さんは痛いよね」

「本当に漫画家になりたいんだってさ」

「嘘。ヤバくない?」


 悪意を含んだ笑い声が、言葉に混じっていた。


「駄目だよ、そんなこと言っちゃ」


 私よりも下手な漫画しか描けない「その子」が、密やかに注意する。

私に自分のイラストを描いてほしいと頼んできた子も、どうやったら私のように上手く描けるのかきいてきた子も、私に近づいてこなかった。一人の男子がおどけた様子で「私、オタクなんですぅ」とやけに高い声で言って、体をタコみたいにくねらせながら、私の目の前を通り過ぎた。一斉に男子たちから笑いが起きる。どうやら、私の模倣をしているつもりらしい。ちなみに私は自分をオタクだと言ったことは、一度もない。私は反論しようと口を開きかけたが、何を言えばいいのか分からず、その場にうずくまって泣いてしまった。幼い女の子にとって、涙は特権だった。女の子たちを味方につけて、あわよくば、女の子の同情を買うことができたからだ。単純な女子対男子の、構図が出来る。私はそんな打算よりも、自分を唯一支えていた自信がなくなってしまったことに泣いていたはずなのに、私を慰めてくれたのは、クラスの優等生たちだけだった。学級委員長の女の子や、誰にでも優しい女の子だった。


 その日以来、私は他人に隠れて絵を描くようになった。私の家族は、私の絵をほめてくれたものの、漫画家を目指すことには消極的な態度だった。つまり、将来の夢であってもいいが、将来の目標としては不適切という雰囲気だった。だから私は、家族にも絵を描くことを秘密にした。それに、幼稚園の時の絵と、漫画家の絵は決定的に違うのだと、両親は私より早く気付いていた。漫画家になるには芸能の才能が必要であり、それを開花させるには相当な努力がいる。そして何より、いかに漫画を巧く書いたところで、消費者である読者の人気がなければ、仕事を成り立たせていけないという事実だ。その場合、収入はとても不安定となり、自立して生活できなくなる。子供を育てる親としては、公務員のような堅実な仕事をしてほしかったのだ。私はその両親の無言のプレッシャーを見て見ぬふりをした。


 中学校では美術部。高校では漫画研究会に在籍していた。周りの活発な女子たちからは、いよいよ「オタク」と分類されるようになった。しかし、そこには本当の「オタク女子」が沢山いて、私は彼女たちに守られ、差別化することで、何とか自分を支えていた。つまり、周りから見れば「オタク」だが、「オタク女子」のように遊びで絵は描いていないと、自分のことを位置づけていた。表向きは、単に楽しそうだから入っていたということになっていた。だが私は、まだ漫画家になりたかったのだ。しかし、表と裏、本音と建前を使い分けている内に、自分の限界が見えてくる。漫画には、ストーリーがあり、それを生かすコマ割りが必要だった。絵が巧くても、他の要素が私には決定的に欠けていた。そしていつしか私の夢は、漫画家からイラストレーターに変わっていた。本は子供の頃から好きだったし、挿絵にも興味があった。ストーリーは文章で書いてあるし、コマ割りの必要性もない。漫画家は駄目でも、イラストレーターならいけるのではないか。そんな軽い考えが、頭の中を過るようになっていった。要するに私は、自分の逃げ道を探し始めていたのだ。そろそろ進路の話しになる頃でもあったから、家族や学校の言う「現実的な」将来像を、私は必要としていたのかもしれない。結局、私はイラストレーターを目標として、美大を目指すことになった。推薦入試もあったが、絵の審査があったので、辞退した。成績はそこそこ良かったから、普通に試験だけを受ける一般入試で合格することができた。


 私の妄想は膨らんだ。きっと美大には、私と同じ境遇の子が沢山いる。そんな人たちの中に入ったら、すぐに友達になれるだろう。漫画家やイラストレーターの卵たちの中にいられることが、私にとって理想だった。初めての一人暮らしというのも、魅力的だ。私は妄想で胸が弾んだ。


 同じ県内の実家と美大だったが、距離があり、一番の電車で大学についても、一時限目の授業に間に合わないことが分かった。家族と話し合った結果、大学の近くでアパートを借りて、一人暮らしをすることになった。一人なら家族の目を気にせず絵を描いていられる。何て幸せなのだろう。


 しかし私の妄想は、大学に入学して間もなく崩れ去ることになる。





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