エピローグ

 私と幸が同棲するアパートに、一通の手紙が届いた。その手紙は、一時世間を騒がせた「悪夢病」を患った私以外の三人の患者が、全員退院したことを告げるものだった。清川先生の字は、いつも殴り書きの様で読みにくい。時々、文脈から文字を想像しながら読んでいるという有様だ。それでも、三人の回復とわざわざ私に教えてくれる清川先生の心配りが嬉しくて、つい読み返してしまう。

病棟でよく歌をうたい、絵を描くことも大好きだった雫ちゃん。悪夢より現実が辛いと言わせてしまうのは、大人の至らなさだ。今も幼稚園でイジメに耐えているだろうか。あんなに表情豊かなかわいい子にストレスを与えるまでイジメているのは、雫ちゃんと同じ歳の子たちだと聞いていた。いくら幼い子供に「みんな仲良く」と諭しても、言っている方の大人のイジメがなくならな限り、子供のイジメもなくならないだろう。それでも雫ちゃんらしさを忘れずに、凛としていてほしいと願わずにはいられない。


 病棟の病室から、あまり出てこなかった廉君。あまりに病室に籠っているので、心配になった職員に押しかけられたことがあった。廉君はずっと一人で、勉強をしていた。勉強をすることでしか家族に認められない様子に、心が痛んだ。それでも幸を目の前にした時の、廉君の瞳の輝きが忘れられない。尊敬と羨望という言葉が浮かぶ。退院後は美大も考えて家族と話すと言っていたと、手紙に書いてあった。本当に好きな物が定まっているならば、それほど幸福なことはない。自らの手で、道を切り開いて行ってほしいと思う。


 清吉さんは元気だろうか。奥さんは大丈夫だったのだろうか。生まれてくる子供には会えただろうか。健康な体あっての人生だ。無理はせずに、楽しく平穏な日々を過ごしてほしい。


 手紙を見ていた私に、後ろから声がかかる。


「また読んでるのか? その字、よく読めるよな」


 幸が飽きれたように笑っていた。事務的なクラフト封筒に、事務的な無地の便箋。黒いボールペンが無造作に走ったような文字の羅列。忙しい中書いているのは分かるが、じっくり読まなければ解読不可能だ。まるで未知の文字だというのは、幸の言葉だった。私はこの手紙をお守り代わりにして、バッグの中にいつも持ち歩いていて、心の支えにしていた。


「映は今日、ハローワークに行くのか?」


 絵具まみれのつなぎを着た幸が立っていた。そのつなぎは、傍から見るとおしゃれな古着に見える。幸は大学院に本格的に復学したのだ。私はまだ、手に職がないままだ。幸のために就職し、自分が幸を支えて、幸の才能を十分に発揮してもらいたかったのに、私が幸の時間を奪うことになってしまった。本当に情けない。


「うん。幸と一緒に出掛けるつもり」


 私はハローワークカードを手帳に挟んで、バッグに入れた。ハローワークには、病院と同じくらいの頻度で通っている。しかし、今の私にできそうな仕事はまだ見つかっていない。


「じゃあ、そろそろ行こうか?」

「うん」


 私と幸は一緒にアパートを出て、幸は大学へ、私はバス停に向かう。市内のハローワークは、駅の東側だから、文具店に勤めていた時と同じように、バスに乗らなければならない。とても不安で、精神的に負荷がかかる。辛い日々を思い出して、またフラッシュバックしてしまうのではないかと、怖かった。病から立ち直ってから、最初にバスに乗ろうとして、脚がすくんでしまい、バスステップから逃げるように飛び降りたことは記憶に新しい。その日は結局バスが怖くて、泣きながらアパートに引き返してしまった。意をけっして乗り込んだのはいいものの、過呼吸とそれに伴う手足の痺れで苦しくなり、バスを途中下車したこともある。だから数回、幸と一緒にバスに乗る練習をした。バスに乗る練習など、大人になってからする人は私以外にいるのだろうかとおかしくなる。しかも、病を患う前は同じバスで毎日職場に通っていたのだ。それが病に罹ってから、一切できなくなっていたことは、かなり衝撃的だったし、悔しくて泣くこともしばしばだった。

今は一人でも乗れるようになった。ただバスに乗れるようになっただけだろうと、言う人もいるかもしれない。だが少しずつ、私は日常を取り戻しつつあるのだ。バスに乗れるようになったことは、私にとって、大きな一歩だった。バスを降り、一度駅ビルの中に入って、東口の駐車場を歩く。風邪はまだ冷たい。駐車場を抜けると、文化施設があり、ハローワークもこの中にある。




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