エピローグ

私と幸が同棲するアパートに、一通の手紙が届いた。その手紙は、一時世間を騒がせた「悪夢病」を患った私以外の三人の患者が、退院したことを告げていた。清川先生の字は、いつも殴り書きの様で読みにくい。それでも、三人の回復とわざわざ私に教えてくれる清川先生の心配りが嬉しくて、つい読み返してしまう。雫ちゃんはイジメに今も耐えているのだろうか。廉君は進路を決めただろうか。清吉さんは元気だろうか。そんな心配ばかりしてしまう。手紙を見ていた私に、後ろから声がかかる。


「また読んでるのか? その字、よく読めるよな」


幸が飽きれたように笑っていた。事務的なクラフト封筒に、事務的な無地の便箋。黒いボールペンが無造作に走ったような文字の羅列。忙しい中書いているのは分かるが、じっくり読まなければ解読不可能だ。まるで未知の文字だというのは、幸の言葉だった。私はこの手紙をお守り代わりにして、バッグの中にいつも持ち歩いていて、心の支えにしていた。


「映は今日、ハローワークに行くのか?」


絵具まみれのつなぎを着た幸が立っていた。そのつなぎは、傍から見るとおしゃれな古着に見える。幸は大学院に本格的に復学したのだ。私はまだ、手に職がないままだ。幸のために就職し、自分が幸を支えて、幸の才能を十分に発揮してもらいたかったのに、私が幸の時間を奪うことになってしまった。本当に情けない。


「うん。幸と一緒に出掛けるつもり」


私はハローワークカードを手帳に挟んで、バッグに入れた。ハローワークには、病院と同じくらいの頻度で通っている。しかし、今の私にできそうな仕事はまだ見つかっていない。


「じゃあ、そろそろ行こうか?」

「うん」


私と幸は一緒にアパートを出て、幸は大学へ、私はバス停に向かう。市内のハローワークは、駅の東側だから、文具店に勤めていた時と同じように、バスに乗らなければならない。とても不安で、精神的に負荷がかかる。辛い日々を思い出して、またフラッシュバックしてしまうのではないかと、怖かった。病から立ち直ってから、最初にバスに乗ろうとして、脚がすくんでしまい、バスステップから逃げるように飛び降りたことは記憶に新しい。その日は結局バスが怖くて、泣きながらアパートに引き返してしまった。意をけっして乗り込んだのはいいものの、過呼吸とそれに伴う手足の痺れで苦しくなり、バスを途中下車したこともある。だから数回、幸と一緒にバスに乗る練習をした。バスに乗る練習など、大人になってからする人は私以外にいるのだろうかとおかしくなる。しかも、病を患う前は同じバスで毎日職場に通っていたのだ。それが病に罹ってから、一切できなくなっていたことは、かなり衝撃的だったし、悔しくて泣くこともしばしばだった。

 今は一人でも乗れるようになった。ただバスに乗れるようになっただけだろうと、言う人もいるかもしれない。だが少しずつ、私は日常を取り戻しつつあるのだ。バスに乗れるようになったことは、私にとって、大きな一歩だった。バスを降り、一度駅ビルの中に入って、東口の駐車場を歩く。風はまだ冷たい。駐車場を抜けると、文化施設があり、ハローワークもこの中にある。

 私はアルバイトとパートを中心に閲覧する。パソコンを借り、求人票を見る。社名よりも業務内容を重視し、さらに同じ職場で何人くらいが同時に働くのかを確認する。この際、あまり知られている大きな企業か無名の小さな企業かは関係ない。むしろ、業務内容が出来るかできないかが肝心だ。他人を恐れるようになった私は、もう接客は出来ないし、数字が苦手だから事務作業もできない。あまり大勢の中で働くことも、難しいだろう。年齢の制限にはまだ届かないとはいえ、時が経つのは早い。求人票の一覧をスクロールして、短時間で人が少ない、軽作業を探す。当然、正社員は見込めない。だから、時給も最低賃金ぎりぎりの職ばかりが候補に残っていく。自分に合っていそうな職はなかなか見つからない。私はまだ、清川先生の診察を受けていて、障害者手帳を取るように勧められている。私のPTSDは、完全には治らなかったらしい。いきなり正社員として働くのは、やめた方が良いと清川先生も幸も言っている。私は気になった求人票をクリックして、パソコンの横にあるプリンターで印刷して、受付で番号札を貰う。

 ソファーで待っていると、やがて障害者担当の職員が、私の番号を呼んだ。正直、私はまだ自分が障害者であることに違和感があり、自覚も出来ていなかった。だから、実感もない。しかし私は確実にストレスに弱くなった。元気だった過去にはもう戻れない。私をこんなふうにした則田と言う人は、絶対に許せない。だが、だからと言って恨んだり憎んだりはしないようにしている。ハローワークの職員は、今日も渋い顔で求人票と私の顔を見比べる。きっと今日も何も決まらずに終わるのだろう。


「このパートは事務だけど、時間が遅いし、すごく疲れると思うよ。こっちは終業時間が五時間以上働ける人って募集だから、いきなりは厳しいんじゃない? A型とかB型は興味ないんだっけ?」


担当者はさりげなく、障害者求人を勧めてくる。しかし私の狙いはあくまで一般求人だ。企業や役所などに、障害者の採用を義務付ける制度があることは知っている。だがその会社の業務に、障害者がついて行けるのかという不安はぬぐえない。特に精神障害は目に見えにくいことから、敬遠されるのではないかと思う。


「あれ? そう言えば、ドラッグストアのバイトの件はどうなりました?」


ハローワークの求人に、アルバイトの情報は乗らない。ただ、ハローワークの建物の中のファイルに、アルバイトの募集をまとめた物が置いてあり、コピーしてもらうことができた。


「それが、電話をかけたらダメだって言われて」

「レジができないから? でも、品出しの仕事だったよね?」

「はい。以前、精神障害の方を雇った時に、シフト通りに入れなかったんだそうです。だから、精神障害者は雇わないって、言われました」


私が俯くと、担当の人は顔を歪めた。


「薬を扱ってる割に、ひどいな。その言い方も」


私は力なく頷いたが、アルバイトでは他にも痛い目にあっている。書類と面接を受けたが、合否の連絡を全くしてくれなかった企業に、私から合否の問い合わせをしたところ、「察してよ。取るわけないでしょう?」と怒鳴りつけられたこともある。やっとアルバイトを見つけても、「何もできないなら、周りの迷惑考えろ」と言われたり、「もうあなたに任せられる仕事はないから、来なくていい」と言われたりしていた。そんな私に、清川先生は「頑張っていて、偉い」と言ってくれる。


「事務もチェッカーも、普通の人だって務まらない人はいるよ?」


私はその言葉に俯き、ぽつりと言葉を落とした。


「普通って、何でしょうね? 誰が、決めるんですかね?」

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