三章 絵と薬

13.この夢は獏にあげます。

 映が入院して一週間がたつ。病院に問い合わせたところ、映はまだ鍵付きの個室にいるそうだ。鍵は内側からはかけられず、外側から掛けられる仕組みになっている。回復が見込まれれば、相部屋に移すと言っていたから、映はまだ悪夢と一人で戦っているのだろう。そう思うと、胸が苦しい。自分は映を見放したのではないか。自分一人で安穏と時を過ごしたかったのではないか。そんな想いにかられた。確かに、自分の時間を持てないことは、俺にとっても苦痛だった。毎日映の看病をしていて、疲れていなかったと言えば嘘になるだろう。しかし、病院に映を入院させると不意に罪悪感と寂しさに襲われた。身勝手な感情だと思う一方で、誰にでも起こり得るものだと思った。


 いてもたってもいられず、俺は初夏の狭いベランダで、絵を描いていた。A4判のケント紙を板に乗せて、水にぬらして貼りつける。紙の伸縮を抑えるためのものだ。これが上手くいかないと、紙が水でふやけた状態になり、絵が波打つ。紙は意外に強く、薄いベニヤ板ぐらいなら、簡単に曲げてしまうほどだ。


 俺と映を結び付けてくれたのは、あのポスターだった。互いが互いの才能を認め、尊敬し合っていた。あの頃の明るい映に戻ってほしい。きっと映だって、正常な眠りを戻したいはずだ。


 俺は茶色をベースに、下書きなしで紙に絵具を乗せていった。セピア色はイカ墨の色だ。どこかノスタルジーを感じさせる色だから、俺はよくイカ墨を使う。ポスター展の絵も、元はこのイカ墨を用いた色だった。自然に勝る配色や色の具合はないと思っている。現在市販されている人工の絵の具と違って、自然の色は一度作った色を再現できない。ただの一回きりの偶然の出会いは、人と人の出会いにも似て、奥深い。自然が人を癒すなら、より自然に近い配色と色の調合を目指すに越したことはない。この絵を見た映が、少しでもリラックスできるように祈りながら、俺は筆を滑らせる。


『この夢は獏にあげます。この夢は獏にあげます。この夢は獏にあげます』


 夢にまつわるおまじないの本には、こう唱えると、悪夢を獏と言う空想上の生き物が食べてくれると書いてあった。三回繰り返すというところが、いかにもおまじないらしいと思う。三枚のお札も、魔法のランプも、助けてくれたり願いを叶えてくれたりするのは、三度までだ。俺は筆を置いて、様々な角度から絵を確認した後、絵を乾燥させて完成させ、水張りのためにケント紙の周りを固定していたテープから、カッターで絵を切り出した。これで作品の完成だ。この切り出しの作業は、いつも緊張してしまうが、その分、達成感がある。映はこの切り出しが絶妙に巧くて、いつも羨ましく思っていた。映は気づいていないだけで、実は手先が器用なのだ。出来たばかりの絵を半透明のファイルに入れて、車で自宅を出た。


 映を呼び出してもらおうとしたら、看護師に診察中だからもうしばらく待つようにと言われた。入院中も、カウンセリングの部屋や医師の診察室に呼ばれて、入院している部屋を空けることがあるという。窓が半分以上開かなくなっていたり、ドアの外から鍵がかかるようになっていたりする以外は、他の科の病院の病棟と変わりがない。俺が絵を見ながら映を待っていると、小さな女の子が部屋を覗いていた。黒髪が肩のところで切りそろえられた、大きな黒目が印象的な女の子だった。パジャマのようなピンクの可愛らしいスウェットを着ている。こんな子供でも精神を病むのかと、意外に思うのと同時に、それが偏見だということに気付いて、申し訳なくなった。女の子は面談室に俺が一人でいることを確認すると、部屋の中に入ってきた。


「映お姉ちゃんの、友達?」


 女の子の口から映の名前が出てきたことに驚いたが、映が幼い子に「お姉ちゃん」と慕われていることには、さらに驚いた。映は元々他人との交流が苦手なタイプだから、人間関係が上手くいっているならば、それに越したことはない。閉鎖病棟と言うから、もう少し暗いイメージがあったが、日当りもいいし、人々が談笑する姿は平穏そのものだった。今は昼食後の御昼休みだった。トランプに興じていたり、喫煙所で煙草を吸っていたり、それぞれが自由に時間を過ごしていた。人々の会話は穏やかで、時折笑い声すら聞こえてくる。病気のことを気にしなければ、精神を病んでいる人々の集まりだとは思えなかった。女の子は、落書き帳を持っていた。昔からあるデザインの落書き帳は、俺にとっても馴染み深い物だった。よくホームセンターや文具店で三冊組でいくらで売っているもので、表紙は三冊とも動物が描かれている。その女の子は、もう一度廊下に誰もいないことを確認してから、俺の隣りにちょこんと座った。落書帳だけではなく、鉛筆も持っていた。その様子を見て、自分の子供の頃を思い出して、懐かしさのあまり声をかけていた。


「絵は好き?」


 女の子は人懐っこい笑顔を浮かべて、大きくうなずいた。


「うん、大好き。映お姉ちゃんは、とっても絵が上手なんだよ」

「うん。俺もそう思う」


 俺も大きくうなずいて答えた。映が他人から評価されるのを聞くのは、俺にとっても嬉しいことだった。

 俺の中学時代の美術担当教師が変わり者だった。美術的な専門知識はもちろん、理系の知識も持っており、よく絵を描きながら宇宙について話した。そんな美術教師に触発される形で俺は美術に関心を持った。美術そのものと言うよりは、その美術教師との会話が楽しくて、美術室に通うようになっていた。高校も美術部で、選択科目も美術だった。美大に推薦で受かり、映の後押しもあって大学院にまで行っている。映は俺と違って、幼いころから漫画家を目指していたと言っていたから、人物描写や静物画を描かせたら、俺よりも大衆受けする絵が描けそうだ。それに比べて俺の絵はきっと、大衆受けはしないからこの女の子から見れば「絵がへたくそ」なのだろう。


「映お姉ちゃん、私と同じ病気なんだって」

「え?」


 俺は思わず、女の子の顔を凝視した。俺の横の椅子に、ちょこんと座っていた女の子は、落書き帳の真っ白な新しいページに、鉛筆で何かを一生懸命描書き出した。色の濃さで、2Bだと分かる。黒の2Bの鉛筆は、芯が柔らかいから、より濃く色が出る。最近の子供は鉛筆を使う機会が少なくなったため、握力の低下が激しい。そのため、小学校の入学時に鉛筆は2Bを用意するようにと、学校から指定されることも多いという。全て文房具店に勤めていた映の受け売りの知識だが、こんなところで出くわすとは思わなかった。女の子はひたすら腕を大きく動かして、ぐるぐると強い筆圧で円を描いていく。手や袖が鉛筆の線の上を滑って、黒く汚れることも、お構いなしだった。何かに取りつかれたように、女の子は一心不乱に真っ白だったページを、黒く塗りつぶしていく。そして落書き帳の一ページが真っ黒に塗りつぶされたころ、女の子はそれを得意げに俺に見せた。


「ほら。こういうのが、追いかけてくるんだよ!」


 女の子が自分の頭の上に掲げて見せた絵に、俺は言葉を失い、身震いした。その黒い塊から、狂気と悪意が見て取れた。女の子の画才はそれほどなくても、人に恐怖を与えるには十分だった。いや、幼い純朴な女の子が描いたからこその、恐ろしさがある。拙い画力で描き出されたそれからは、確実に呪詛のようなものがにじみ出ていた。この黒い塊が、毎晩人を追いかけて喰らう。女の子も映も、同じ夢を見ていることになるのだろうか。確か、映は毛のある化け物をイメージしていたはずだが、女の子の画力と表現力にかかれば、こうした塊りになるのだろうか。これは偶然だろうか。もしも必然なら、何かの原因があり、その原因に触れた人間が、同じ悪夢を見ることになる。つまりその原因さえ取り除けば、悪夢を見ることは無くなる。一体原因は何だろうか。俺が考え込んでいると、女の子は何かに気付いたように顔を上げると、部屋から出て、ぱっと廊下を走り去った。


「雫ちゃん。勝手に入っちゃ駄目だって言ってるでしょ?」


 映を連れてきた看護師が、雫と呼ばれる女の子を追いかけて行った。面談室に入ってきた映は、落ち着きを取り戻し、頬もふっくらした印象を受けた。顔色もいいし、肌のつやもよくなっている気がした。


「久しぶりだね、元気だった?」

「うん。映も元気そうで良かった」


 俺がそう言うと、映は吹き出すように笑った。


「私は一応入院患者よ? 元気そうって変じゃない?」

「ああ、そうか。今も夜は大変?」


 映の笑顔が一瞬にして消え、強張るのが分かった。これは言ってはならなかったかと思った俺は、慌てて膝の上に伏せていた絵を見せる。


「今日はこれを渡しに来たんだ。退屈しのぎと言うか、少しでも気休めになったらいいと思って。題名は特にないけど、映のことを考えながら描いたよ」


 その絵はまるで、天使から翼をもぎ取ったかのような絵だった。一対の翼の付け根の部分には、肉片が付いたままになっている。背景は雲が浮かんだ空だ。一見、グロテスクな絵だが、セピア色の色調がそれに反して安心感を与える。


「もし映が気に入らなければ、捨てて」

「素敵! やっぱり幸の絵は凄いわ。私の好きな絵のタッチね」


 俺の言葉をふさいだ映は、俺から受け取った絵をずっと眺めていた。


「でも、飾れないから枕元のベッドの隙間に立てておくわ」

「お好きなように。あ、雫ちゃんに会ったよ。映と親しくしてるみたいだね」

映は恥ずかしそうにうなずいた。

「あの子、明るいのよ。私と同じ病気なのに、本当に偉いと思うわ。私があの子のおかげで救われている部分が大きいと思う」

「そのことなんだけど、その悪夢って、同じ夢を見るって不思議だと思わないか? 不自然と言ってもいい。とにかく誰かの悪意を感じるんだ」

「フィクションの読み過ぎじゃない? 夢を誰が操れるっていうの? 魔法みたいよ、そんなの。もし他人の夢を操れたとして、誰が得をするの?」


俺は自嘲気味に笑って、溜息をついた。


「映がいないから、そんな事を考えるくらい退屈なんだ」


 確かに、他人の悪夢で得をする方法は浮かばなかった。ふと、脳裏にイルカのロゴマークが浮かんだ。人に悪夢を見せて、得をするのは、寝具メーカーかもしれない。しかし、たった二人の患者で、大きな売り上げを出すことはできない。


「邯鄲の枕じゃあるまいしな」

「そうよ。邯鄲の枕でも、こんな少人数じゃ儲けられないわよ」


 「少人数」と言う映の言葉を、俺は聞き逃さなかった。映と雫以外にも、同じ悪夢を見ている人間がまだ存在している。俺がこの点について言及すると、映は不思議そうにうなずいた。


「私の担当医は清川先生っていう、男の人なんだけど、これだけ酷似した夢を同時に何人もの人が見ることは、経験上なかったらしいわ。清川先生はこの症状で五人は多い方だって言ってた。先生にも不思議で、つてのある他の病院の先生たちにも聞いてみたんだけど、どこの病院にもそんな患者はいなかったみたい。だから中には、ローカルテレビの集団催眠じゃないかって、冗談をいう人もいたみたい」


 俺の背筋を、氷が一つ、滑り落ちた。

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