18.不可能

「僕は今、受験生なんです。皆僕を東光とうこう高校に入れたがっています。そして、東光高校から、東大や京大に行くことを望んでいます。でも本当は、勉強をもうしたくないんです。疲れたんです。誰も本当の僕の相手をしてくれません。十年も歳が離れているのに、恥ずかしい話ですが、僕は雫ちゃんの気持ちがよく分かります。僕もできる事なら、治りたくない。まだ化け物に食われた方がましです」


俺と映は顔を見合わせる。映は悲しげに眉をひそめた。映は会社を辞めることができたが、義務教育である中学校は、簡単にやめることができない。東光高校と言えば、県で一番の進学校として知られている。俺の頭では、逆立ちしても入ることはできないだろう。


「じゃあ、絵は描いてほしくない?」


廉は黙り込み、沈黙が流れた。きっと、聡明な廉自身が一番よく分かっている。このままずっと入院生活を送ることが、現実的に無理だということ。この入院はしばしの休養の場であって、いつかは現実と向き合わなければならないこと。シーツを握りしめた廉は、震えた声で言った。


「雫ちゃんは、もう絵を受け取ったんですか?」


俺は頷いて、「うん、受け取ってくれたよ」と答える。


「清川先生から渡してもらったんだけど、喜んでくれていたと思う。何の絵かは分からないって、言われちゃったけど」


俺が肩をすくめると、隣の映が苦笑していた。


「抽象画なんですか?」

「絵に、興味があるの?」


映の意外そうな声に、廉は答える代わりに、顔を真っ赤にして俯いた。


「内緒ですよ。絵、下手だし」

「俺たちみたいに美大っていう手もあるよ。それに、今は専門学校もある。今は中学生でも、未来は無数に枝分かれしているよ」

「お二人とも、美大出身だったんですか? 凄い」


廉の目が一瞬だけ輝いたのを、見た気がした。


「じゃあ、こうするのはどう?」


俺はバッグからクリアファイルと封筒を取り出した。


「いつも絵はクリアファイルに入れて渡してるんだけど、廉君には封筒に入れて渡す。そうすれば、見たい時だけ、封筒を開ければいい」

「はい。そうしていただけると、助かります」

「絵は描くだけ書いてみるから」

「すみません。ありがとうございます」


廉は深く頭を下げた。

 俺と映は廉の病室を出て、椅子を片づけた。一般病棟に映を送る途中、映は気になることを言った。


「この病気って、これで終わりなのかな?」

「どうして急に?」

「前に幸が言っていたことが気になるのよ。この病気は本当は偶然じゃないんじゃないかって。だって、範囲が狭すぎるのよ」

「範囲?」

「この病院に来る前は別々の病院から来てるけど、その前の病院は、皆同じだったの。まあ、最初に治った人がどうだったかは、分からないけど」

「つまり、皆田嶋医院を受診して、この病院に来たってこと?」


映は神妙な表情でうなずき、さらに気になることを言った。


「市内のあの辺りで一番評判がいいのは、田嶋医院だから、市内に住んでいたり、私みたいに通っていたりすれば自然の流れだと思う。でも全員が同じ症状で同じ病院に行って、ってなると、気味が悪い。だから悪夢が納まって、皆が本当にハッピーで終わるのか心配になってしまって。考えすぎかな?」


「映の話から推察すれば、一番怪しいのは田嶋医師ということになるけど、でもやっぱり動機がない。田嶋医師を頼ってくる患者も多いから、経営が苦しいわけじゃないだろうし、たった五人に同じ夢を見せるなんて、不可能だよ」

「そうよね」

「ごめん、俺が変なことを言ったから、不安にさせたね」

「ううん。じゃあ、私は病室に戻るから」


奥の病室に入っていく映に手を振って、俺は帰宅した。

 紙の貼り具合は、文句なしの状態になっていた。俺はイメージが消えないうちに筆を滑らせ、描いていく。セピア色の色調。田沼の言葉と、秘めた想い。機械仕掛けの魚が、涙を流している絵を中央に描く。背景には歯車のモチーフを細かく描いて終了となった。次に廉を思い浮かべながら、もう一方の紙に筆を走らせる。やはり色調はセピアで、洋風の剣の柄の部分を、画面左斜めに描く。その背景は切れ切れの雲だった。後は風通しのいいところに、一晩置けば完成だ。

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