18.本物の天才


 紙の貼り具合は、文句なしの状態になっていた。俺はイメージが消えないうちに筆を滑らせ、描いていく。セピア色の色調。田沼の言葉と、秘めた想い。機械仕掛けの魚が、涙を流している絵を中央に描く。背景には歯車のモチーフを細かく描いて終了となった。雫に描いたもの同様に、手前の機械仕掛けの魚に焦点が合い、奥の歯車はぼかしている。一見無機質な機械の魚は、自分自身の体を錆びさせるのもいとわずに、涙を流している。それは田沼そのものだ。一見怖そうな印象の老人だが、内側には妻や孫、息子たちへの想いで溢れている。その溢れた物が、涙となって流れ出ているのだ。そして魚の体内にもある歯車は、背景に無数に存在し、噛みあったり嚙み合わなかったりしながら、動いている。これは人間の営みそのものだ。欠けてしまった歯車も、噛み合って世界を動かしている歯車も、同様に価値がある。正義感や思いやりのために、悪夢に負けてしまった自分のことを悔いる田沼に、そのことを感じてほしくて描いたものだ。


 次に廉を思い浮かべながら、もう一方の紙に筆を走らせる。やはり色調はセピアで、洋風の剣の柄の部分を、画面左斜めに描く。その背景は千切れた雲だった。手前の抜き身の剣に焦点が合い、背景の雲はぼやけている。しかし剣の柄の装飾の部分には、背景になっている雲が映りこんでいる。安直かもしれないが、廉には底知れない可能性を感じる。知的であることもそうだが、絵の才能も持っている気がした。そこにあるのは一重に集中力だ。勉強にも絵にも、集中力がないと続かない。そして嫌だ、疲れたと言いながら、勉強に真摯に向き合う態度から、絵にもその姿勢を忘れないで欲しいと思った。だから、家族などの他の意見に惑わされず、自分の道を自分で切り開くための剣を描いた。雲は廉の道を隠してしまうものを表している。その雲をあえて剣の柄にも映し込ませたのは、迷いこそ自分の道を妨げるものになり得るというメッセージだ。自分のやりたいことに真っ直ぐに、進んで行って欲しいと、願わずにはいられなかった。


 後は風通しのいいところに、一晩置けば完成だ。


 俺が翌日、絵をカッターで板から切り離している最中に、電話が鳴った。スマホをどこに置いたのかさえ忘れて、作業に没頭していたようだ。慌てて視界に入ったスマホを手に取り、電話に出る。ディスプレイに表示された番号は、映のものだったのに、最初に聞こえてきたのは映の声ではなかった。


『もしもーし。幸お兄ちゃんですか?』


聞いたことがある声だったが、誰だか分からなかった。だがすぐに言葉遣いで分かった。俺のことを「幸お兄ちゃん」と呼んでくれるのは、俺の周りではあの子しかいない。


「雫ちゃん?」

『そう! あのね、絵を描いてくれて、ありがとうございました。昨日は化け物が出なかったよ!』

「本当? よく眠れた?」


 嬉しそうな雫の声に、俺の声までつられていた。


『うん! あ、映お姉ちゃんと変わります』

『もしもし、幸? あなたやっぱり天才よ! これで二例目だって言って、清川先生は落ち込んでいたみたいだけど』


 俺が清川の手柄を横取りしたみたいで、じゃっかんの後ろめたさを感じた。何より、雫を見つめて、敗北感を漂わせていた清川を思い出し、とどめを刺す形になって申し訳なかった。


『今日から雫ちゃんの経過観察して、異常がなかったら、雫ちゃんも一般病棟に移れるんだって。それでね、幸。幸の絵をカラーコピーして分析してもいいかって、清川先生が言ってたんだけど、どうする?』


 自分の絵が野放しの状態になるのが、俺は好きではなかった。自分の絵に責任を持っていたかったし、自分のあずかり知らぬところで、変な使い方をされるのが嫌だった。しかし俺の絵が医学的な説明を与えられるようになり、より多くの患者が救われるようになるならば、それは協力した方が良いと判断した。


「分かった。映の分だけ、条件付きで許可するよ」

『条件って?』

「俺の絵を拡散させるようなことは、絶対にしてほしくないということだ」


 SNS社会は怖い。もちろん、それはSNSが便利で楽しいことの裏返しではあるが、俺の作品が俺の意志に反する使い方で、使用してほしくなかった。著作権をどうこう言うのではない。今回、俺が描いた四枚の絵は、営利目的で描いてはいないし、四人それぞれを想って描いたものだ。今も映たちのように、悪夢で苦しんでいる人がいる可能性がある。この現況を考えると、拡散した俺の絵の画像データが、あたかも「薬」のように扱われ、普及することは、逆に危険ではないかと思う。


『条件はそれだけ?』

「うん。映もコピーが終わったら、すぐ返してもらって」

『もちろんよ。あの絵がないと、怖くて眠れないわ』


 映のこの言葉を聞いて、本当の完治にはまだまだ時間がかかるのだと、俺は覚悟した。あの絵に頼らなくても、安眠できるようになることが、本当の意味での完治だと言えるだろう。おそらく清川も俺と同じように考えて、映や雫を入院させたままにしているのだろう。


「映。明日には田沼さんと廉君の絵を持っていきたいんだけど、清川先生にまた許可を取ってもらえるかな? 面談室でいいから」

『え? もう描いたの? 早くない?』


 映は俺の手際の良さに驚いていた。同じ美大出身だから、絵には時間がかかることをよく知っているのだ。俺は映に手抜きではないかと疑われる前に、事前に準備していたことを明かした。そして、会ったことのある人の場合、早く絵にしてしまわないと、イメージが薄れていくため、一気に仕上げている事も説明した。


『幸って、本物の天才なのね』


これは映の嫌味ではなく、最大の褒め言葉だった。


「二人から得たイメージが消えないうちに仕上げないと、上手く描けない気がしたから」

『そうなんだ。ありがとう。清川先生にはちゃんと言っておくから。じゃあ、明日ね』

「よろしく」


 そう言って電話を切ると、俺は再びカッターを手にして、慎重に絵を切り離した。


 こうして出来上がった絵を携えて、俺は病院に向かった。待合室で映が一人で俺を待っていた。清川はまた多忙のため、遅れているのだろうか。映に視線を投げかけると、その通りだった。


「今日、清川先生は来ないって。忙しいみたいで。でも、ちゃんと言われた通りに伝えたし、二人への面会も了承してもらったから、大丈夫よ」

「それは、良かった」


 俺は静かに安堵の息を吐く。第一印象が良くなかったせいか、俺はどうも清川が苦手だった。担当の看護師に閉鎖病棟の鍵を開けてもらい、二人で中にはいる。面談室には、もう二人が待っていた。どうやら二人で談笑していたらしい。堅物の田沼と、頭のいい廉は、どこか似ているような気がしていた。知的な会話が弾んでいたのだろう。俺と映の姿を見るなり、会話を中断し、二人とも緊張した面持ちになった。

俺は約束した通り、クリアファイルに入れた魚の絵を、田沼に渡した。田沼は相変わらずのいかつい顔で、絵を目に近づけたり離したりしていた。鑑賞しているというよりは、じっくりと鑑定している様子だった。もちろん、鑑定されるほどの価値がないことぐらい、俺自身が知っていた。しかし、この絵が回復の一助になることを願って描いた物でもある。映や雫のように、巧くいけばいいと思わずにはいられない。

そして廉には、クラフト封筒に入ったままの剣の絵を渡した。廉は大事そうにそれを抱えていた。まだ、絵を見ることに、躊躇している様子だ。この絵と向き合う時は、廉が現実と向き合うと決めた時となる。大人びている印象の少年とはいえ、まだ子供なのだ。その子供に、「疲れた」と言わせる社会にも、問題があると思う。もちろん、病気の子供に差し入れで勉強道具を持ちこむ親もどうかと思う。しかしそれらは廉自身が解決することしかできない。自分やその家族、自分を取り巻く環境、自分の好きな事。それら全てと向き合うには、まだまだ時間が必要なのだろう。

二人とも、お礼を言ってくれたが、廉はぎこちなかった。俺は廉に「無理しなくていいよ」とだけ伝えて、面談室を後にした。


「今晩が楽しみね」


 映はスキップするように軽やかに笑顔を見せた。そんな映に、俺はあえて慎重に答える。


「まだ、分からないだろ」

「でも、二人同時に治ったら、もう病気はなくなるわ」

「もしそうなれば、清川先生に恨まれそうだな」

「皆、早く治るといいね」

「そうだな」


 そんなたわいもない会話をして、俺は映とロビーで別れた。映は一般病棟がある方に歩いて行った。俺は一人で帰宅した。


 数日後、二通の手紙が俺宛に届いた。田沼と廉からだった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る