第25話 夢の終わりと現実のはじまり

「ではテストをお願いします」


 最初にマイクに入るのは井波だ。演じるキャラクターは新聞を撒き散らしながら「号外ごうが~い!」と元気よく街を走り回る。


 いつも以上に大きな声ではじまり、井波も緊張を吹き飛ばそうとしているのがわかる。井波の役が主役にぶつかり、次は主役のセリフ。主役は僕らとそう年齢も変わらない女性だ。


「いっ…痛~い! どこ見て歩いてるのよ!」


 ゾっとした。テレビから聞こえる声だ。たった一言で分かる。僕らと全く違う。声が、井波と全く違う。立体的な音に聞こえる。これが、演技に深みがあるって意味なのか。この人は東京の声優専門学校を去年卒業したばかり。たった1年しか違わない人間の圧倒的な力。何もかもが違う。努力で塗り合わせた自信に早くもヒビが入る。これが、プロとの差なのか?その後は全員精彩を欠いた。酒巻はセリフを噛み、沢村は台本を落とし、前原はタイミングを外し声を出すことができなかった。ただ、柳は踏みとどまり練習と同じ演技を叩きつけた。


「はい。お疲れ様でした。ちょっと待っててくださいね」


 鈴沢さんの声がブースに響き渡る。ブースの外でチェックなどをしている間、中では咳払いをして喉を整える人、立ち上がって軽い柔軟体操を行う人、小さくセリフを繰り返す人。僕らは完全に失敗を引きずってしまい、沢村は顔面蒼白で震え酒巻は半べそになっている。

 今日は無事終わるのか?そんな思いが駆け巡る中、再度鈴沢さんの声。


「先程はお疲れ様でした。もう一度流しますね」


 もう一回同じことをやる。先程よりマシにはなったがまだ引きずっている。役がない僕も胃袋を掴まれるようなプレッシャーに飲み込まれている。力を入れないと足が震えてしまう。これが、プロの現場なのだ。


「4ページ2行目。井波さん、魔王が国を襲うって書いてある新聞を配っているのだからもっとそんな感じでお願いします」

「はい!」

「6ページ8行目。柳さん。演技の方向性は良いです。ただ、もう少し落ち着いた空気をだしてください」

「はい」


 そんな感じでダメ出しやセリフの修正などが進んでいく。ダイナミックなミスをした学生にも淡々と指示が飛ぶ。ミスをしたら怒られるは、素人だからだ。プロは怒られない。怒ったところで何も起きないからだ。ただ、もう使われなくなるだけだ。プロであることの前提は「できること」なのだ。


「じゃあ、10分後にまたはじめましょうか」


 ドアの近くに座っている僕はドアを開き、ブースの外に出ていく人達に頭を下げて見送る。プロが皆ブースから出て学生だけが残った。心が砕けそうになっている人間がほとんどだ。


「ぬううわああああ!」


 柳が奇声をあげて沢村に向かっていく。これはヤバイと感じ手で制する。


「邪魔」


 伸ばした手をパシンと跳ね除け、沢村の前で仁王立ち。


「ちゃんとやってよ」

「え…」

「沢村さあ…ちゃんとできるんでしょ?」

「……」

「私はね、あんたにビビって頑張ったんだから」

「……」

「がっかりさせないで。絶対できるんだから。みんなもやれるんだからやろうよ。選んでもらったんやから…アホみたいに練習したんやから……私もやるから……私が一番上手いって思わせるから」


 こんなことを言う人間じゃない柳が喝を入れた。酒巻、井波、前原が深呼吸をしたり、体を動かしたりして自身を整える。外に出ていた方々が戻ってくる。そして何事もなかったように全員が椅子に座る。


 次はテストだが録音はされる。先程とは集中力が違う。同じ人間がやっているとは思えない。もちろん多少は甘い所はあるが、それを感じさせない思いがある。やってきたことしか出ない。そして、皆はやってきた。だからこそ、踏みとどまってパンチを打つ。沢村もギアを一段上げた芝居をやる。基礎的な部分は足りていないはずだ。だが、目と耳を奪われる芝居をやる。これが才能なのかと悔しくなる。

 テストが終わり、ダメ出しがいくつか。ついに本番がはじまる。芝居はさらに良くなる。プロの芝居を全身で受け止め、出せる限りのパンチで返す。言葉のキャッチボールなんて優しい物じゃない。役が持つエゴや目的、役者が持つプライドや思いをぶつけ合うボクシングだ。受け止めきれないとリングを降りるしかない。この世界は、こんなにも美しく厳しく作り上げられているのか。


 メインの収録が終わり休憩に入った。全員がブースから出て息を抜く。次はガヤの収録。やっと僕の出番だ。皆のように役がある訳ではないが、芝居を、人生を叩きつけるのは同じだ。

 軽く体を伸ばしたりして状態を作っていると、青い顔をした間垣先生が携帯を片手に慌ただしく部屋を出た。多分、声優のマネージャーもこんな感じで毎日を忙しく過ごしているのだろう。僕がこの場に来れたのも、間垣先生をはじめ学校の関係者が努力した結果だ。それだけじゃない。絵を描く人、曲を作る人、キャスティングの人、作品を売る人、流通させる人。多くの人の見えない努力がある。僕ら声優は「作品を作る」ことの一欠片なのだ。そしてその一欠片のデキにより、名作が駄作に変わることがある。だからこそ、失敗が許されない。ブース内に入るように指示があり、ガヤ録りがはじまる。やっと出番が来た。


 眼の前には漫才番組で見たことがある高そうなマイク。少し目線を上げると映像を映し出すテレビモニター。手元には汗が染み込んで黄ばんだ台本。金魚鉢とも呼ばれる全面がガラス張りの録音ブース内にはプロの声優とプロを目指す声優の卵。ガラスの向こうにはディレクターや音響スタッフたち。


 存在したい。ただただ存在したい。声優は単体では存在できない。アニメや洋画やイラストや写真があってはじめて存在できる。


 ディレクターがゆっくりと右手を挙げる、部屋中の空気がそれに応える。存在できる喜びが突風のように駆けていく。


「はい、ガヤはすべていただきました。お疲れ様です」


 無事に終わった。なんとか終わることができた。セリフがないのでダメ出しも来ない。それは寂しくはあったが、マイクに一番近い場所でできることをやった。今後、発売されるであろう作品の一欠片として存在することができた。最大限の満足ではないが、自分を許せる充実感は感じていた。


「紀川君、ちょっと声を貰いたいんだけど」


 とりあえず「はい!」と大きく返事はしたが何をするのか理解ができていない。ガヤをもう少し録音するのか?そう考えていると、プロの声優たちが自分の座っていた椅子に戻り、それに合わせるように学生たちも椅子に戻った。取り残されるように3本立っているマイクの真ん中に僕が立ち、ブースの内外、すべての眼球に見られる形になった。全身が緊急事態を告げている。何かやるのか?声優としてここに来たのだからやることは一つだ。今から声を入れる。


「26ページの後ろから2行目、一言なんだけど貰えるかな?」


 そのページを開くと「この街にしかないモノなのです」と書かれている。絵では商人が主人公たちに魔法の道具をアピールする流れの一コマだ。役名はないがセリフはある。


「他の商人も営業してるから、それに負けない感じの芝居でください。キャラは画面外にいるので、口パクに合わせる必要もないです。一応映像を流しますね」


 その言葉をキッカケにブース内が静寂で包まれる。それと同時に僕の肉体が騒ぎだす。あまりの出来事に呼吸すらままならない。このセリフは練習していない。いや、それ以外の練習はしてきた。それをやるだけだ。やったことしか出ないがこんな一言は学校内で嫌という程練習してきた。今までやってきたことを信じてやる。それだけで良い。映像が流れ、そのシーンが近づいて来た。自分の声が、世界に響くのだ。


「この街にしかないモノなのです」


 ただストレートにやった。「ものなのです」言いにくいな。でも言えた。こういうのは言いにくいと認識する前に終わらせるのが一番だ。


「申し訳ない。こちらです。もう一度お願いします」


 レッスンで習った。「こちらです」と言うのは役者側の問題ではない。上手く録音できなかったのか?ということはさっきのはダメだったのか?マジかよ。大丈夫だ。もう一回やれば良いだけだ。再度映像が流れる。


「この街にしかないモノななです」


 完全に噛んでしまった。モノなのですモノなのですモノなのです。大丈夫だ。ブースの外は特に空気が変わることなく、映像を戻している。ガラスに反射するブース内も特に問題ない。全員が僕を見ているだけだ。見ている。全員が。

 大丈夫。やる。台本を見てやる。違うか。映像が流れるテレビモニターを見ないと合わせられない。合わせるとか気にしなくて良かったか?まずい、緊張している。セリフは一言だ。台本もいらない。さっき噛んだのは「なのです」だ。ものなのです。マ行、ナ行は息で誤魔化す安全策をやってはいけない。腹から一気に押し出すように出せばクリアに聞こえる。基本中の基本だ。


「この街にしかないモモなのです」


 またやってしまった。今度はモノだ。なぜ言えない。一回目は大丈夫だった。ということは言えるんだ。さっきは言えた。だからこの訓練はやってきた。絶対に言える。言えないはずがない。やるぞ。やるぞ。この街にしかないモノなのですこの街にしかないモノなのです。


「この街にしかないモノなぬでつ」

「急だったしごめんね。じゃあ前原君、同じ所やってもらえる?」


 マイクを背にして席に戻る。皆、激怒しているだろうか。激怒しているだろう。激怒していてほしい。土下座するつもりで目を上げると「しょうがない」の目で僕を見るプロの声優、「可哀想」の目で見るクラスメイト。この空間の中、アマチュアは僕だけだった。

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