第5話

 しばらく自主練をやり、休憩がてら教室の外に出る。教室の熱気から解放され、ひんやりとした無機質な廊下を越えて蒸し暑い非常階段に向かった。非常階段には喫煙所があり、タバコを吸う生徒たちのたまり場になっていた。そこを通り抜けて屋上でぼんやりするのが日課だった。日没も近く生徒の数の減ったのにかすかにタバコの匂いがする。


「あ! 紀川君だ~! タバコいる?」

「吸わないですよ。酒巻さんも声優目指すならタバコ辞めた方が良いんじゃないですか?」

「プロだって皆吸ってるやんか~!」

「あ、関西弁」

「私、それやってないからうまい棒おごりませ~ん!」


 酒巻忍、いつもロリータ服を身に着け、男子生徒と妙にベタベタするのが好きなクラスメイト。たしか22歳。徳島大学を卒業後に声優を目指し入学。今は学校の近くで一人暮らしをしてる珍しいタイプだ。


「島田君辞めたねー。忍、びっくりだ! なんでだろうね」

「そうですね。理由はわからないですが。それでは」

「いやー! もっと喋ろうよ~」

「あ!忍ちゃん! ここに居たんだ!」

「うふふ~見つかってしまった~!」


 酒巻と一発キメたいクラスメイトに後は任せて屋上に上がる。大阪の景色が美しい。新大阪と言えど結構民家も見える。入学後、なにかあるごとに屋上に来るようになった。来ることに意味はないけど、この景色を見るのは二年しか無いと考えたら妙にお気に入りの場所になってしまった。


 教室にいると周りが気になって仕方が無い。もしかしたら周りの人間全員が基礎的な部分を終わらせているのではないか?むくむくと大きくなる不安を「綺麗な景色だな」で埋め尽くすことでまた一つ嘘を重ねていく。毎日大きくなる不安をより大きな嘘で包み込んでいく。このままでは卒業までにとんでもない量の嘘がうず高く積まれる事だろう。それを覚悟してやってきたが、たった3ヶ月で少し折れそうになっている。

 もしかしたら僕は島田だったのかもしれない。辞めた原因はわからないが、僕も声優になるという螺旋から降りてしまえばつまらない嘘は吐かなくてよくなる。人間としてはそれが正しいことなのも分かる。人間として正しい事と声優としての正しい事は選ばないといけない。でも、まだその判断はできない。いつかこの判断をしないといけないのだろう。そしてそれが今後の人生の指針になるのはなんとなく分かる。


「あ! 紀川君! 私の真似してここに来たの!?」

「いや、そんな事無いけど。なんとなくね」

「んふふふふふふふ! 私も同じ!」


 南涼子は身長は150cmあるかないか。ショートカットで首にタオルを巻いている少年のような雰囲気がある。中学校からずっと演劇部に所属していて、舞野とはまた違うスター性というか能力がある。人の好き嫌いは激しいが気に入った相手にはちょっとキメてるんじゃないかってテンションで話しかける。同じ演劇部上がりだからか佐倉とも仲が良い。


「南は…やってきた人だから上手いよね」

「はい!? 私が!? ぜーんぜん! 皆の方が上手だよー!」

「皆、レッスンで南がやるとやりにくそうにしてるよ。上手い人の後で台本読むのキツいしね」

「紀川君、怒るよ?私全然ダメじゃない。今もイヤになってここでヘコもうって思ってたんだよ?」


 南が小さい体をぴょこぴょこさせ、東北名物のこけしみたいな顔を膨らませて抗議する。


「将来とか不安になったりする?」

「考えないようにしてる! わかんない内に考えてもしょーがないじゃない!」

「島田は…わかったのかな」

「…わかんないなあ。でも、島田君が決めたならそれで良いと思うよ。私は頑張んないとなあ~! 私、片親でお金も全然ないのにこんな学校来ちゃったし」


 塗装が取れてサビついた手すりに腕を置いて黙り込む。南は階段に腰掛けて首のタオルを巻き直して黙っている。僕は手すりのサビを少し剥がして教室に戻った。

 南は自分を過小評価する。誰よりも下手だと思っている。誰もが自分なりの不安を抱えている事を感じると少し気持ちが楽になる自分の事がまだ好きになれない。教室のドアを開けて時計を見ると18時半。京都や姫路から通学してる人間は帰っていた。教室には習慣的に自主練をする人間と、友達と話すために残る人間がいる。


 僕は彼らと学び、戦い、皆で声優になろうとしている。途方もない夢には現実感が持てず、時間を埋めるように練習を繰り返す。今日はいつもよりも残っている人間が多い。やはり目と鼻の先に朗読会という目標ができたからか。いつもは残らずにすぐに帰ってしまうクラスメイトも鏡を見ながら口の形をチェックしたりしている。僕が教室にいるのに気が付いた直方が軽く片手を上げて近づいてくる。


「屋上行ってたの? 朗読、楽しみだよね」

「うん。でも、大丈夫なのかな」

「何が?」

「朗読やる時、また何人か辞めてたりしてね。僕とか」

「不穏なこと言うなよ」

「舞野とかさ」

「やめろって」


 学校近くのたこ焼き屋で直方と上顎をドロドロに火傷しながらお値段以上の価値があるたこ焼きを食べている時に舞野の事が気になっていると聞いた。もちろん異性としてだ。


「舞野は帰ったの?」

「お前が階段に行った少し後かな。服買いに行く~とか言いながら出てったよ」


 まだ入学して間もないのに、あっちこっちで誰が可愛いとか誰が格好良いとかの話しを聞く。今まではアニメ・マンガオタクとして日陰に居た人間が集まっている場所だ。小学校の時にサルビアの花壇の近くにあったデカイ石を裏返した時に見慣れない虫が密集していて変な声を出したことがある。そんな状態でこの声優専門学校には見たことがない、触れたことがないタイプの人間が密集している。

 僕もアニメやマンガはそこそこ好きだったが、ジャンプやヤングサンデー程度しか知らなかった。今、このクラスのほとんどが少年エースやドラゴンマガジンを購読している。オタクってだけで迫害を受けてきた人間が、むしろオタクである事を受け入れられ評価される楽園に来た。新世界のアダムとイブは自然と距離が近づき、アガペーを通り越してエロスへと到達する。もっともその先にあるのはタナトスなのだろうとは感じている。


「紗英ちゃん、紀川の事探してたよ」

「ああ、付き合ってるからな」

「はあ!?」

「嘘だけどさ」


 直方は入学即恋に落ちていた。高校時代は放送部に在籍していて彼女も居たとの事だが、専門学校に入って声優になる事に集中するために別れたと言っていた。現在恋に落ちている直方を見ていると完璧に嘘で適当な理由でフラれたのだろうなと推察できる。だけど、男として大切な嘘は必要な嘘として認めないと戦争が起きるので何も言わずに無意味にヘラヘラしていた。


「何? 恋の話し?」


 河内もヘラヘラしながら近づいてくる。


「忍ちゃん可愛いよね~!」


 多田がデカイ体をプルプル震わせ近づいてくる。声優志望者の繁殖期は初夏なのだろうか。すると4月生まれや5月生まれた多いはずだ。僕は10月生まれだから声優志望者として生まれた訳では無いことはわかっている。


「河内さん誰好きなんですか?」

「いやいや、30歳も近いのに18歳とかの子の事を…ねえ…紀川君はどうなのよ」

「無いですね。うん。全体的に」

「俺! 俺は忍ちゃん! めっちゃ可愛い! あ! 関西弁でた! まあええわ! めっちゃ可愛い! でもタバコ! あれキツイ!」

「良かった~! 多田とはかぶらなかった。でも紗英ちゃん良いよね。他の子に比べて全然違う。河内さんは佐倉さんが可愛いって言ってたからみんなかぶらなくて平和だね」

「え!? 言う!? 僕秘密って言ったよね!?」


 ボンクラがボンクラな話をしている間は自分のボンクラ加減を忘れられる。皆、思い描いた青春時代を過ごせなくてここまで来た。通り過ぎてしまった青春をもう一度拾い集めようとしている。僕はただ勇気が無くて眺めているだけだった。眺めて外野として冷ややかな態度でいるのが傷つかないとわかっているからだ。だからこそ皆が少し羨ましかった。


「僕も好きな子とか作ったほうが良いのかな…」

「その方が人生豊かになるよ。大学の時とか周りはすぐ付き合っていたよ」

「河内さんはどうだったんですか?」

「………」

「まさか」

「………」

「直方と多田も彼女とかいたことある?」

「………」

「……ある!」

 多田が答えた。

「ヤった?」

「うん!」

「へえ、どんな感じだったの?」

「あの…あれ!あれや!俺は…祠でヤった!」


 場の熱が冷え、その代わりに体内に爆発的な笑いの衝動が忍び込んできた。皆、肩を震わせながら遠くに去っていく。僕も去りたかったけど「これ以上聞くな!」と訴える多田の美しい目に射抜かれ動けず、我慢の甲斐なく衝動が口から飛び出した。

 誰もが小さな嘘を重ねている。

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