第9話

 9月に入って少し。もう3日後が本番だ。アクセント対策の為に皆、学内外での関西弁を自主的に封印し始めた。

 今日は先輩と一緒に僕らが立つ舞台を作る。黒い幕を吊るし、出入りする【袖】と言われる場所を作る。大学時代は演劇に傾倒してきた先輩が嬉しそうに舞台を作る。


「袖はね、大切なんだよ。僕は鳥居みたいな物だと思っていてさ」


 幕の後ろでは緊張にガタガタ震えたり自分を高める為に多くの儀式をする。そして袖から一歩出て舞台に立つと、そこに人間の世界と少し違ってくると言う。人間が役を演じる。その時、人間から一歩離れた存在になる。舞台の神様の導くままに新しい何かになる。


 僕にはまだわからないが、本当に嬉しそうに舞台を作る先輩を見ているとこの小さく簡単な世界が聖域か何かに見えてくる。

 舞台が出来上がり、多くの生徒が帰った後に改めて舞台を見る普段見ている景色と何か違う。体に白いモヤが巻きついたみたいに、そのモヤが僕に「はやくやれ」と急き立てるように。本番時の立ち位置に付き、自分のパートを軽くやる。するとモヤは収縮し、塊となって教室の端、窓ガラスにまで飛んで行くような感じがした。「まさか自分が人前で表現をするなんて」今までの人生と全く違う現実が目の前、後ろ、そして未来に広がっている。深く考えるとぞくりと背筋が凍るから軽く楽しく考える。ぼんやりと教室全体を見ていると、佐倉が笑顔で近づいてくる。


「私、やっぱり舞台好き」

「僕は経験無いからわからないけど、そんなに良い物なの?」

「うん…本番も好きだけど、皆と一緒に作品を作っている時が凄く好き」

「揉める事も多いけどね」


 声を出さずに大きな笑顔を一つ。軽く僕を押し、隣に立つ。


「あっと言う間だね」

「うん。あっと言う間」

「これからもずっとそうなんだろうな」

「来年にはどこの事務所に行こうとかで、同じように慌てているんだろうな」


 佐倉が目を閉じ、スッと息を吸う。ゆっくりと、それは儀式的に目を開き、声を出す。練習前のアップのように声にならない声。入学当初はいつも声が震えているような佐倉だったが、伸びやかで芯があるように思えた。僕も声を出す。この声は誰に届くのか。今後何人に聞いてもらえるのか。何かを目指すと、途方もない未来ばかりを思い描いてしまう。だからこそ、一歩一歩踏みしめて歩く。


「よーし! ご飯でも行こ~! 決起集会だ!」


 酒巻がクラスの皆を集める。最近の酒巻は皮膚病のように首筋とか大きく空いた胸元にアザを作っている。家族に隠れてこっそり購読していたエロ漫画雑誌「コミックウインクル」で見たことがある。あれはキスマークだ。僕は詳しいんだ。相手は林田なのだろうか。


 朗読チームは4チーム。他のチームの人とも同じクラスなので良く話す。近所にあったゲームセンターで僕がD&Dシャドーオーバーミスタラのドワーフワンコインクリアや天地を喰らう2ワンコインクリア(張飛使用)を見せびらかしてキャッキャしていたクラスメイト達は同じチームの女の子と恋愛関係になったりしている。入学してすぐに感じたが、声優専門学校は男女の距離が近い。もちろん男女で掛け合いのセリフの練習やレッスン内での発表も行う。一緒にいる時間が長くなれば必然的にそう言う関係にもなるだろう。


「恋愛は沢山やれ。人間として深みがある。あと、犯罪以外はだいたいやれ」


 間垣先生もよく言っていた。その言葉を拡大解釈したのか、酒巻は年下の男をはべらせ、多田は酒巻ショック以後多くの女性に必要以上にアピールし、直方は舞野の前で格好を付けた言動をするようになり、十代後半のボンクラリビドーパワーがどこまでもマキシマムに学校を包んでいるような気がした。そして今までおおよそ恋愛に縁が無かった人間がどんどんアピールをはじめている。なるほど、声優志望者の繁殖期は夏なのか。そんなことよりも今は目の前にある朗読発表が大切だ。近場な所で異性を狙いやがって。絶対に上手くいくはずが無い。僕は詳しいんだ。


「なあ紀川…」

「なんだ直方」

「紗英ちゃんに告白したら上手くいくと思う?」


 直方の目線の先には両足を左右に開脚し、鏡に向かって柔軟体操をしている舞野。体を前に倒す時、鏡にTシャツ中に広がる夢の世界の存在を確認し、「そりゃ好きにもなるなあ」と呟いた。


 小声で舞野のどこが良いとかを新興宗教にハマった人間のように早口で語る。確かに舞野はクラスでは群を抜いて綺麗だ。そこに見るからに普通で相変わらずお母さんが買ってきたような服を着ている直方がどうにかしようとしているのが滑稽だった。恋愛に慣れていないからこそ、自分に都合の良い想像をしてしまっているのだろう。僕も彼女が居た事は無いが、高校時代に友達から多くを聞いていたので自制と俯瞰の視点を持ち合わせていた。


「俺、この朗読発表会終わったら告白しようと思う」

「それ、言うと絶対にだめなやつじゃないか?」

「やってみなきゃ…わかんないよ…」


 完全に入り込んでいる。誰もが人生と言う名前のドラマの主役だ。僕もショボイなりにショボイ人生の主役をやっている。そういう風に考えろとも講師に言われてきた。だけど直方のこの入り方はマズイんじゃないのかと考えていた。ダメだろう。お前はダメだ。直方、考え直せ。


「あんたら何厳しい顔してずっと胸見てんの?」


 舞野が鏡越しに僕らに話しかけた。


「いや! 誤解だよ! たまたま僕らの視線の先に紗英ちゃんがいたから…その…」

「やっぱりわかる?」

「どこ見られているかなんて一発で分かるわよ」

「大きさは」

「F」

「Fらしいですよ」

「紀川! お前、失礼だろ!デリカシー無いのか!」

「バカじゃないの?」


 舞野がケラケラ笑いながら立ち上がり、台本を持ちいつものマットに座った。直方は嫌疑を解こうと舞野に近づいて何か話しているけど、全く相手にされていない。


「ほら、行くよ~!」


 着替えを終えた酒巻がクラスメイトを引き連れて教室に残っているメンツに声を掛ける。僕もカバンを持ちドアに向かった。


「舞野は来ないの?」

「行かない。興味無いし。ほら、皆行っちゃうわよ」

「この誤解は解くから! また明日ね!」


 僕らは今まで、小学生、中学生、高校生、そして数人は大学や社会人を経験してきたが、いわゆる「普通」の生活からは遠い所にいた人間が多い。僕は形だけは普通の生活をしていたが、必要以上に人を受け入れず、自分の枠の中だけで活動してきた。変なことはしないが、特筆すべき行動も起こさない。背景としては十分過ぎる存在だ。


 皆はやり方はマズイかもしれないが自分自身を壊そうとしている。やり方はマズイが何かを変えようとしている皆の方が良いんじゃないか?僕は俯瞰で、観客として眺めてたまに冷笑するだけだ。まだ、まだ何か破らないといけない殻がある。そんな事をぼんやりしか考えられないほど直方が先程の恨み言を言ってくる。完全に無視をしながら歩いていると南が楽しそうに違う朗読チームの井波康隆と話している。井波は男性アイドルのようにキラキラした感じで僕とは全く別世界の生物だった。同じ年齢とは思えない程のキラキラした空気、そして同じ年齢なのに趣味は「風俗に行くこと」という何かとアンバランスな奴だった。南も井波も背が低く、中学生がキャッキャしている風に見える。まだ「俺がどこまで紳士なのか」を語り続ける直方から逃げるべく、近くにいた佐倉に話しかける。


「南と井波、仲良いね」

「え!? あ…うん…」

「どうしたの?」

「知らないの?」

「何を?」

「涼子ちゃんと井波君付き合ってるよ」

「早っ! まだ入学して半年も経ってないやんけ!」

「涼子ちゃんが一目惚れしたんだって。内緒だよ」

「なんと…」


 僕の知らない所で周りの世界がぐわんぐわんと変わっていく。毎日に変化がある。その変化を敏感に掴み取ることができる人間だけが成長できる。


「佐倉は今まで彼氏とか…ああ…いや、ごめん。苦手って言ってたもんな」

「うん。いないよ。好きな人とかいるの?」


 瞬間耳まで赤くなった。ああ。いるわ。これはいる反応だ。僕は詳しいんだ。


「いないよ」


 そう言ったあと恥ずかしそうな笑顔を残して酒巻の方に駆け出して行った。皆がどこかで青春をしている。同じ夢と目的を持つ人間、やっと自分を深く理解してくれる可能性が少しでもあるかもしれない人達と出会う事で声優志望者は変化を迎えるのだ。

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