第8話

 入学から4ヶ月。8月は夏休みだ。そしていつもと変わらず週5日学校で自主練習をしている。間垣先生が「どうせ俺らはやる事あるからお盆以外は学校開いてるよ」と言った時に「僕の夏は終わった」と感じた。苦笑いを浮かべたつもりだったけど、遅れを取り戻してさらに先に進めると考えたら前向きな笑顔になっていた。


「もう来月が本番だからある程度のパートを決めようと思うんだけど…どうかな?」


 自然とリーダーになった河内が僕らに向かって言う。周りを見ると全員が静かに燃えている。やりたい役、読みたい文章を各々持っている。本番で言えるのは1人。誰かが選ばれたら自分はどかねばならない。作品を良くするためなのだから、そこは謙虚に引いて別の部分で力を発揮すれば良いのだろうけど、精神的にも未熟な上にはじめての発表。誰もがそんな事を考えずに「取る」の一心だった。ただ、舞野だけは定位置のマットの上で髪の毛をくるくるいじりながらぼんやりと話を聞いて曖昧に賛成の意を述べた。


「で、どうやって決めるの~?」


 酒巻が「さっさとやろうぜ」の気持ちを全力で前に出して聞いてくる。


「はやく決めてやろうぜ!」


 多田も顔を真っ赤にして急かす。


「役だけ決めて練習する方が良いしね」


 南も同意する。


「まあそうだな。決めちゃう?」


 直方も賛成した。


「そうだね。やっちゃお」


 佐倉も覚悟を決めた。


「…今?」


 僕は一歩引いてしまった。今?いや、分かる。やるべき。出来る限り早急に。でも、今かな?今なのかな?オッケー、例えば今だとしよう。僕はやりたい部分が直方と被っている。そして直方を倒そうとして淡々と練習を積んできた。でもそれが今なのか。この世界のスピードは僕が思っているよりずっと早い。気を抜いた瞬間に振り落とされてしまう。ええいやってやる。やんぬるかな。紀川は奮起した。本当は皆の

「ダメなの?」の目線に恐れをなしただけだったのは公然の秘密だ。


「紀川! ビビってんのか!?」


 多田がニヤニヤしながら言う。ぐうの音も出ない。その通り。完全にビビっている。でもやるしかない状態に入った。だからやるしかない。僕はこの4ヶ月でどれだけ成長したのか?そして1ヶ月でどこまで変われたのか。恐れる自分に嘘を吐き、1時間後に皆の前でやりたい部分を読んで配役を決定する流れに承諾した。


「紀川君、大丈夫なの? 顔色凄いよ?」

「まあなんとか。南もさっきからあたふたしてるじゃん」

「そりゃ緊張するよー! でも…いや、うん…」

「何?」

「もー! 恥ずかしい! キャー!」

「どうしたんだ」

「いやさ、恥ずかしい事を言うけどさ…プロになったら毎日こんな気持ちなんだろうね」

「うん…僕は…」

「すっごい楽しみ!」


 【怖い】という言葉が飛び出しそうだったが南のカウンターが完璧に顎に入り倒れそうになった。全身に蟻が這うといわれるボクサーのノックアウトを表した言葉。それが耳から脳に繋がり心にリンクした時、自分の弱さを再確認した。


「僕もだよ」


 嘘を吐こう。どんどん嘘を。僕の嘘で少しでも前に進めるならそれで良い。行ける。昔なら曖昧にヘラヘラしてこの場をやり過ごした。今は言葉が出た。この思いは真実か嘘か。どっちでも良い。前に出たんだ。前に出てしまったんだ。学内での朗読発表のチーム内配役オーディションをどうしてここまで大層に考えているのか?初めて向かい合うからだ。やっと僕はこの世界に生まれたからだ。この世界はいびつで泥臭くて少し変わっているけれど、人生を叩きつけるに値する世界だ。


 結果として僕はやりたいパートをやる事ができなかった。そこは直方がやり、僕は希望とは違うパート、かなり短めのパートをやる事になった。後悔や悔しい気持ちは無い。って言いたいけど、腸が煮えくり返る思いだった。喜んで「頑張ります!」と抱負を述べる直方を見つめながら、次の戦いである本番に向けて牙を磨くしかない。


「納得できないんだけど!」


 目に涙を浮かべて立っている酒巻を河内が慰める。


「やりたい所が被ったら無記名で投票って事で決めてたじゃない」

「なんで!?忍めっちゃくちゃ頑張ったじゃない! どうして舞野さんなの!?」


 誰もが酒巻の気持ちが分かる。舞野に投票したのは多田以外の全員だろう。このやるせない思い、魂の叫び、決定してしまったからもうどうしようもないのは誰もがわかっている。酒巻もわかっているだろうが、止められない思いが炸裂した。舞野はいつものマットの上で無表情に酒巻を見ている。


「もう一回やらせてよ! 納得できないもん!」


 堤防が決壊して涙はマスカラも流して土石流のように流れ出している。普段はニコニコして愛想を振りまいている酒巻がこんな表情でやり直しを訴えたことに1人を除いて全員が戸惑っている。


「別に良いけど無駄だと思うわよ? 私の方が良いじゃない」

「舞野…」

「紀川、ちょっと黙ってて。当たり前の事しか言ってないわよ。酒巻さあ、プロになってオーディション落ちても同じこと言うの?」

「………」

「ねえ。私、何かおかしい事言ってる?」

「舞野。おい」

「私の方が上手いんだから当たり前じゃない?」


 涙がスッと止まった酒巻はクロックアップされた動きでカバンを持って教室を飛び出した。多田が追いかけ、南はうつむき、直方・佐倉は「どうしよう?」と顔を見合わせ河内は愕然としていた。舞野は座ったまま表情を変えずぼんやりと教室を見ていた。


「舞野、言い過ぎじゃないか?」

「なんで?」


 疑問以外の感情がない、子供が母親に尋ねるように聞いてくる。あまりにも素直に疑問を飛ばしてきたので少しびっくりしてしまった。


「言いたい事はわかるけど、これから一緒にやってくんだしさ」

「一緒に?」

「来月にはチームで発表だろ?それを一緒に作っていくだろ?」

「………でもそれって個人の評価にはあんまり関係なくない?別に友達でも無いんだしさ」

「だったら舞野さん1人で全部やれば良いじゃない! なに!? 1人でできると思ってるの!?」


 南がキレた。150cmも無い体からどうやったらこんな声が出るのかと、阪急電車が高架を走る時よりも大きな声でキレた。本当に心からキレている人間を見るとこちらの感情はフラットになる。怒りが境界線を生み出し、別の世界で生きている存在として認識するからなのだろうか。少し驚いて目を丸くしている舞野を見据える南。


「だから舞野さんは落ちたのよ。それでここに来たのよ」

「………あんたに何が分かるの」

「今までそうやって生きてきたって事は分かるわよ」


 僕は何も見ないフリをして自分が本番で読むパートを眺めていた。もちろん文字は一切目に入らない。耳から入ってくる一触即発の言霊が心を鷲掴みにして飛び立ってしまった。帰ってくるにはもう暫く掛かるだろう。それまではドキドキしている小さいハートのお守りをしないといけない。これは義務なのだ。そう。義務。うん。だって僕、どうにもできないし。


「ねえ、紀川。私間違ってる?」


 夏は川遊びとかしたいなあ。川魚を釣ってその場で焼いたら美味しいだろうなあ。でも、虫とか使って釣った魚を食べるって、その虫も食べてる感じがして少しイヤだな。


「ねえ紀川。ねえ。」


 なぜ僕に。舞野を見るといつもと同じ表情で僕を見ている。南はいつもからは想像出来ない真面目な顔で僕を見ている。考えるフリをして目線を外すと佐倉が泣きそうな顔をして僕を見ている。男連中としたら揃いも揃ってうつむいてやがる。人間のクズだ。仲間ってそうじゃないだろう?


「えーっと…うん。なるほどなるほど。なるほどね」

「はっきり言って良いよ」

「南、焦るな。な?これは大切な事だから」


 あうあうと唸っているとこ、う言う空気に慣れているのか河内が動いた。誰にも気が付かれないように黒子と化して部屋を出た。人間のクズめ。直方はどれだけ視線を送っても台本から目を上げない。彼は今、脳内のステージで芝居をしている。人間のクズめ。ああ、もう間が持たない。そう言えば【まんが道】の主人公って【マガ】と【サイノ】だっけ?【マノ】と【サイガ】だったっけ?いつもわからなくなるんだよな。って違う。そうだ、間が持たない。どうしよう。どうしようもない。藤子先生。僕を助けてください。


「舞野。お前、友達少ないだろう」

「…はあ?」

「いや、悪口じゃない。ちょっと聞いてくれ。僕も、僕もそうなんだ。僕って結構調子良い感じで肝心な時に何も言わないじゃない。今だって心臓バクバクしているし」

「………?」

「紀川君? 何言ってるの?」

「良いから、南も聞け」


 僕は何を言っているのか自分でもわからない。追い立てられた感情のままに言葉が出る。虚実入り混じった言葉が出る。言葉には責任があり、言葉によってはチームが崩壊するかもしれない。僕は何を言えば良いのか。わからない。だけど心の奥底から何かがせり上がってくる。違う景色がせり上がってくるのを感じる。


「僕は周りの人間をバカにしていたんだ。明確にバカにしようと思ってバカにしていたんじゃない。何ていうんだろう…声優を目指した時、高校時代の仲間に劣等感を感じて、僕は社会のレールになんて乗るか! って思って、それで今後仕事を続けて出世してちゃんと生きていく友達をバカにする事で自分を保とうとしたと思うんだよね。それで学校に入って、皆の事、特に多田とか完璧にオタクじゃない?彼らを見て、バカにしていたんだと思う。河内さんの事もバカにしていたんだと思う。でも……なんて言ったらええんやろ…僕、あんまり頭良くないから分からんけどさ。僕、ちょっと上手くなったやん? それは舞野とか南とか河内さんが稽古付けてくれたって言うのもあるし、多田とか直方とか佐倉とか酒巻が頑張っとるの見てさ、それで僕もやらなあかんなって思ってなんとかやれたんよ。そう、僕は君ら全員を声優なんか目指しとるアホやと思ってたんよ。心のどっかでさ。僕も目指しとるっちゅうのにさ。多分、そのままでおったら僕は来年にはここにおらん思ったんよね。それを気付かせてくれたのが周りにおった人でさ。もちろん舞野は上手いよ? ずば抜けとる思うよ? せやけどさ、舞野、お前も他人の芝居とか立ち振舞いとか見て何か感じたりした事あるやろ? それに1人やったら客もおらんやん。僕ら声優なる言うても、作品作ってる人って声優だけちゃうやん。絵描く人もおるやろし、監督とかもおるし、録音の人もおるんやろ?そこに立った上で『1人でやれる』言うんやったらええで?でも、今はここにおるやん。舞野、自分で全部出来とったらここにおらんやん。おるって事は何かがアカン訳やん?それやったら…なんやろな…1人で出来とらんってことやで。何言ってるか分からんようなってきたけど、舞野が悪いとかそんなんちゃうけど、周りに誰かおるって得やで。それ捨てるにはまだ勿体無いで。使ったったらええやん。使い終わるまではキープしとったらええやん。多分、舞野はプロなるやろ思うわ。でも、今のままやったらあかん思うで。周りからええ所パクりまくって、もっと自分のええ所見つけてもらって…それで…」

「………それで?」

「プロになった時、プロを叩きのめしたったらええ思う」

「………」

「………」

「わかった。ごめんね南」

「え!? 私!? あ! いや…私も…ごめん…」

「てか、私、南にあやまんなくて良いか?酒巻にあやまんなきゃね」

「あ…そう言えば…どこ行ったんだろ…」

「屋上でタバコ吸ってるんじゃない?」

 場が落ち着いたと感じたのか直方が話しかけてきた。この人間のクズめ。

「ちょっと行ってくるわ」


 教室を出て行く舞野。入れ違いで戻ってくる河内。この人間のクズめ。


「プロを…叩きのめすか…紀川君…結構ちゃんと考えてたんだね。私、もっと何も考えてないかと思ってた」

「いや…うん…ようわからんけど…」

「そうだよね…私も…巴ちゃんとか舞野さんとか…そこと張り合わないとって思ってたけど…違うよね…そうだよね…プロ相手に…うん…ごめんね紀川君。ちょっと熱くなっちゃった」

「ええよ。うん、ええから」

 その時ドアが開いた。舞野が1人立っていた。

「どうだった…?」


 佐倉が小さく問いかける。


「ダメ。酒巻、午前クラスの林田君と交尾中のナメクジみたいにいちゃついて2人の世界入ってた」

「………」

「………」

「………」 

「多田君は?」

「階段に座って涙目になってたわよ」

「まあ…うん…練習しよっか…もう来月発表だし」


 緩んだ空気に、争う空気がなくなった時に河内が提案した。誰も返事をせずに立ち上がって軽く柔軟体操をする。息を大きく吸って大きく吐く。この空気に思いを乗せて全て吐き出すために。鏡越しに教室を見ていると舞野が近づいてくる。僕の右肩に顎を乗せて小さく言った。


「ありがとうね。良いこと言うじゃない」


 ふわっと女の子の香りがして、僕は少し照れくさくなってしまった。そして自分が話した言葉を反芻する。僕は本当の事を言ったのだろうか。それとも嘘を吐いたのだろうか。

 どちらとも取れない感情を甘い香りが遠くに連れ去っていくのを感じた。そして僕を呼ぶ皆の方に向かって歩きだした。

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