第7話

「ウワーハハハハ! ハハハ! ウワーッハハハハハ!」

「ガハハ! ガハハハハハハ! ハハハハー!」

「キャーハハハ! ハハハハ!!! ハハハ!!!!」


 別に狂った訳ではない。厳密には声優専門学校に通う自体で若干の狂いは生じているが、それはどんな世界も同じだ。「表出」の訓練をしている。僕、河内、佐倉。僕が河内に教えを請うたのだ。河内は少しびっくりした顔をしたあと、嬉しそうに色々と教えてくれた。大阪大学を出て貿易関係の会社で新人研修などもやっていたらしく、教えるのは流石の一言だった。講師の教え方は感覚に頼ることが多い。しかし、河内はその頭の良さと世話焼き魂で僕らが理解できるように教えてくれる。

 舞野は積まれたマットに座ってぼんやりとこっちを見ている。他のクラスメイトは「すわ狂人か?」と言いたげな目でこっちを見ている。刺さる目線が恥ずかしい。でもそんな事は言ってられない。僕はこの学校を実験場と決めた。壮大な人体実験の会場だ。この会場で僕は人造人間になる。僕であって僕じゃない。僕を演技と嘘で固める。そのためにはなんでもしようと思った。僕には思いが無い、信念が無い。それならそこ以外で戦わないといけない。嘘でもなんでも良い。理由を作れば人間は走れる。僕は弱い自分をこの二年間で消し去る事を目標にした。


 今日のレッスンはエチュードだった。厳密には本当のエチュードとは違うかもしれないが、場を指定されて即興で演技をする。今日は一本橋の上を歩いている後ろから人殺しが追いかけてくるって設定だ。それをクラスメイト全員が見ている前でやる。もう台本を使ってのレッスンもしているが、「状況」の中で心と反応する体を作るために何度も何度も繰り返す。理解できるできないじゃない。重ねる事で体に染み込ませる。追われる恐怖、一本橋を渡る恐怖、貼り合わせた床一枚分の広さだけ歩ける。他は奈落。脳を騙せ。自分を追い込め。まだ演技の深淵になんて触れることはできていないが、たまに耳鳴りがして脳が痺れる瞬間がある。そんな時は決まって上手くいく。その瞬間を何度も何度も認識する。


 台本を持つ。セリフを言う。ただ言うのではない。人に話しかける。「言う」と「喋る」の違いを。1人芝居であっても対象はある。この世界に無いものを意識して存在させる。この世界の住人じゃない者となって存在する。演技は多くの矛盾を孕んでいる。その矛盾に理解と納得を付け足していく。格好を付けずに、丁寧に、そして全力で。


「紀川…良いね。その調子で頑張りなさい」

「ありがとうございます!」


 普段は全く人を褒めない講師が褒めてくれた。そりゃそうだ。まだ入学して3ヶ月、もうすぐ4ヶ月になるが、この状態ではまだ差は広がり過ぎていない。すぐに取り戻せる。皆はがむしゃらに変わろうとしている。僕は意識して変わろうとしている。意識は武器だ。この武器を振り回してなぎ倒す。どんどん嘘を積み重ねる。自分自身が誰だったのかなんて置いて行けば良い。遠く、遠くに、船に乗って、飛行機に乗って、ロケットに乗って。情けない僕をこの土地に置いて遠くに行ってくれ。


 練習は続く。今日もレッスンが終わり、放課後の練習だ。台本から生まれる皆の言葉が良く聞こえる。僕も言葉で返す。文字じゃなく、音じゃなくて言葉として紡いでいく。アクセント、声量、滑舌、それはとりあえずは良い。フィクションとノンフィクションの狭間で僕はただ精一杯変化を掛ける。どんどん新しい嘘を出す。加速する言葉、加速する魂、収束する空気、広がる世界。何もできない今だからこそ強く多く感じることができる。

 わからないなりに、見えないなりに追い求めていく。巨石を脆弱なボールペンで削り真なる部分を探し求める。最初から一歩引いた位置で芝居を見つめていたのは明らかな失敗だった。何かを初めた時、最初の少しの間は無敵だ。「初心者」「新人」「知らない」多くのレッテルが僕を守ってくれる。そのボーナス期間をもうかなり無駄にしてしまった。まだ取り戻せる。今までのレッスンでのポイントはノートに書き続けてきた。一つずつで良い。ただ確実に。


「紀川、良いんじゃない。まだダメではあるけど」

「ダメじゃなくすにはどうしたら良い?」

「自信が無いのが見えるのよ。どうせ下手なんだから思い切りやれば良いじゃない」

「わかった」


 似たような事は多くの仲間が伝えてくれていた。ただ、自分と近い能力を持つ人間に言われてもなぜか反発が先に出てしまって素直に受け入れられなかった。だからこそ、圧倒的な能力を持ち、異性だからこそ同じ評価線上にはいない舞野に教えてもらう。声優を目指す、人前に出る事を生業にしようとする人間はエゴの塊だ。その塊が通路を塞ぎ何も見えなくする。だからこそ、通路の隙間を縫って進む。僕はこの3ヶ月を取り返すことだけを考えて4ヶ月目に突入していた。体と心を無理やり芝居ゾーンに持っていくと疲れる。膝にくる疲労を感じながら普段は舞野が座っているマットに座り一息入れる。すると直方が笑顔で近づいてくる。


「最近頑張ってるな。俺も抜かれないようにないとな」

「抜くとかじゃなくて、ただやってこなかった事をやってるだけだよ」

「でも…嬉しいな…」

「何が?」

「こんな事言うのは失礼だけど、紀川はすぐにいなくなると思っていた」

「………」

「何ていうかさ、今もそうだけどいくつかに分かれてるだろ?」

「ああ…わかる」


 【本気で目指している人間】【学生気分の人間】【全くやる気がない人間】


 クラスメイトのほとんどは大抵このどこかに入っている。僕は学生気分またはやる気が無い側に見えたのだろう。


「紀川も本気だったのが嬉しいよ」

「………」


 感じてしまった。「ああ、僕を心配してくれていたんだなあ。これが友情だなあ。青春だなあ」そう思うのが当然だったのかもしれない。しかし僕は「見下されている」と感じてしまった。仲間は仲間を思いやり、そして成長のために協力する。だけど、僕は素直に受け入れられなかった。「貴様には負けん」そんな気持ちが心の奥底から芽生えるのが不思議だった。僕は元々人と戦うのは苦手だった。そんな気持ちが変わってきている。負けたくないと心から思いはじめている。

 この世界は勝ち負けだ。僕らは作品を作らないといけない。「結果しかない」入学当初から言われ続けてきた。その結果を作るために入学したことを脳じゃなくて精神で理解できたのは最近だった。僕は今、戦場に立っている。練習を繰り返し、自分自身のアンテナを広げることでわかった。この戦場の恐ろしい所は「弾を認識しない限りは被弾しないが認識しないと野垂れ死ぬ」という部分だ。多分、野垂れ死ぬはまだ先、本当に死ぬしかなくなった時に死んでしまう。そんな戦場の中で僕は弾を認識した。弾は「近場にいるクラスメイト」だった。仲良く、そしてお互いを高め合う彼らが銃弾となって僕の未来を射抜いて殺す。能力を手に入れたからこそ見える世界があった。


「僕は声優になりたいから。だから頑張るだけだよ」

「俺も同じだよ」


 友情だけではない。もう少し黒く、そして純な感情がお互いの目から照射されている。弾が飛び交っている。この戦場は容赦ない。しかしどこまでもフェアだ。弾を避けきれなかった人間がダメなんだ。死ぬんだ。成長とともに当たり判定もでかくなるだろう。でも、今はまだ小さい。大きくなった時を想像してビビって逃げるのはまだ早い。そんな思いを持ちただひたすらに舞野や河内や南の教えをただただ受け止める。

 同年代、クラスメイトからの指摘は心に突き刺さる。似た年齢、同じ時間を過ごしている人間なのに僕よりよっぽど芝居を理解しようとしている。僕が今までサボっていた事がどこまでも浮き彫りになる。その悔しさを心臓に差し込んでセルを回してエンジンをかける。18年間回すことが無かった、ガソリンなんて入っていないと思っていた。だけど、それはすごく自然に、小旅行にでも出かけるように軽やかに動き出す。

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