第26話 吠えることすら苦しくて
帰りの新幹線の中では「死にたい」と5万回は考えた。皆が僕に遠慮しながら収録の感想を言い合い、盛り上がってくると僕を見てトーンを下げる。静岡県を通過するのに5時間はかかったのではないかと思えるような時間だった。皆が感想を言い合うのが三回目に突入し柳が沢村を褒めると、沢村が涙ぐみながら礼を言う。困難を乗り越えた人間は成長する。困難に躓いた人間はただただ黙り閉じこもる。耐えられなくなった僕は携帯を見て時間を潰しはじめた。佐倉から「収録どうだった?」とメールが来ていたが「死にたい」とだけ返事すると何かを察したのか返事は来なかった。
河内に電話でもしよう。今までタイミングが合わず話せなかった。デッキに向かって歩きながら携帯電話を手にする。彼もまだ回復していないだろうが、落ち込んでいる者同士で話せば少しでも気分が晴れるかもしれない。それにこのポジティブな場から逃げることができるの。
「もしもし……」
女性が出た。それも多少年齢が上の。登録した連絡先から掛けたので間違えているはずがない。
「河内さんの携帯でしょうか? クラスメイトの紀川と申します……」
「ああ……前に会いに来てくれた……色々ご迷惑をお掛けしています……」
何かイマイチ要領を得ない。名乗らないがこの雰囲気は河内の母か?携帯に電話をして、持ち主が出ないということは、持ち主が出られる状況ではないということだ。そう思うと、頭の中に浮かんだ「まさか」が一気に膨らみ、呼吸が上手くできなくなる。とは言え電話を切る訳にもいかない。
「河内さん……泰さんは……」
「まだ……意識が戻らないんです……こんなことになって申し訳ありません……あの子、高校辞めてからずっと友達いなくて……あなたが来てくれて……凄く喜んでいたんです……」
割と、すんなり言葉が脳に届いた。しかし情報が多すぎる。
「全部嘘なんだよ。ごめんね」
あの風景がフラッシュバックし、電話を続けようにも言葉が上手く出ない。何かが起きている。河内は大学にも行ってないし就職もしていない?それは、いや、それじゃない。そこだけじゃない。今はそこは重要じゃない。考えろ。芝居で考えろ。何かが起きていて、意識が戻らないと言った。ということはすでに何が起きたかを知っている体で話している。これは、何かが起きたのを誰かに話した後の発言だ。そう言えば、収録の時、間垣先生が慌てて出ていった瞬間があった。あの時か?間垣先生に確認するためにも、また電話すると伝えて会話を終わらせた。
僕らから少し離れた所に座っている間垣先生の所に向かう。皆の横を通り過ぎる時、ギョッとした目で僕を見たのは物凄い表情をしていたからだろう。
「さっき、河内さんに電話をしました」
その一言で間垣先生は察し、一緒にデッキまで出る。険しい顔をした間垣先生が壁に背中を預け、言葉を探すように左手で自分の顎を掻く。僕は先程の電話内容をそのまま話した。
「俺も収録の時に聞いたばかりだからちょっと混乱はしている。とりあえず先走って誰かに言うのはやめてくれ」
社会人としての保身には感じられない心からの声に聞こえた。何かがあったのだから、聞くと僕らも動揺する。だから黙っておくのが正解だろう。何があったのかはまだ聞いていないが、何かあったのは集まったピースが示している。
キッカケは僕か?僕が会いに行って、学校に戻るように言ったからか?丸裸で戦おうとも言った。河内は、嘘の中で苦しんでいたのか?その傷を無意識に抉ってしまっていたのか。そうではない。そうではないはずだ。しかし、自分の都合の悪い想像は恐ろしいスピードで膨らんで行く。なんて日だ。収録はボロボロで友達には何かが起きている。そして僕は何が起きたかを確認する前に自分の所為だと決めてこの後のダメージに備えている。すべてがクソすぎる。
「まさか……自分で……」
「俺だって信じたくないし、母親から聞いたことだけだからまだ全部はわからない。ただ、考えたくないことが起きたのは事実だ」
景色から色が消えて立っていられなくなる。トイレのドアに背中を預けてどうしようもなく頭をかいたり顔の脂を拭ったりする。
「僕が会いに行ったりしなかったら」
「お前に責任はない。絶対にない。河内はそんな人間じゃないってお前が一番わかってるだろ」
全部、嘘なのだ。だったら、それも嘘かもしれない。僕が河内を追い詰めてしまった。僕を常に気遣い、助けてくれた人間を。僕はそんな人を追い詰めてしまった。あらゆる感情がぐるぐると回る。間垣先生は何度も声を掛けてくれたが何を言われたかあまり覚えていない。僕の席から荷物を持ってきてくれた間垣先生に自由席に行くことを促され、新大阪に着くと仲間と顔を合わせずに自宅に戻った。今日はどうだった?と聞く両親に「良い感じで上手くいったよ」と嘘を吐き、豚肉のケチャップ炒めと米を温め直して食って寝ることはできた。今日は金曜、明日明後日が休みで良かった。とりあえず寝よう。もうどうしようもない。ただただ疲れた。今日の失敗と河内のことが頭の中を駆け巡り続ける。折角食べた飯を少し吐き、布団の中で丸くなった。
月曜、いつもはレッスンの40分程前に到着し柔軟体操などをしているが、今日はギリギリに到着した。教室のドアを開けると同情の目が僕を包む。この様子では、収録のことは全員が知っているに違いない。今日は芝居のレッスン、二週間前に貰った台本、古典戯曲のワンシーンを発表する。
目の前では皆の熱演が繰り広げられているが、頭の中に何も入ってこない。自分がここにいて良いのかという思いだけを見つめていると僕の番が回ってきた。
芝居に没頭すれば少しでも楽になると思い集中するが、皆の前に立つと東京での収録現場と同じ目の群れ。同じ立場の人間に同情されるのはここまで辛いのか。自分の立場なんて関係ない。発表の場で一番上手くできた人間が一番偉い。そう思っていたはずだった。僕は、何度も同じ場所でセリフを噛み、到底芝居とは言えない連続運動を披露しただけで終わった。
休憩時間になると普段なら皆が感想を言い合うために集まり、僕もその輪に呼ばれるが今日は呼ばれなかった。皆もどう声を掛けて良いのかわからないのだろう。息が詰まる教室を抜け屋上に向かう。新大阪の街は灰色で何も感じない。たった一日で世界の色が変わってしまった。
河内は、変わろうとしていた。今までの自分を本気で変えようとしていた。そんな負荷の中で戦っていた人間に無理をさせてしまった。僕以上に強い思いや目的がありここに来ていたに違いない。自分の中に未だ生まれない声優を目指す根拠。中身のない勢いは横風に煽らえて転倒し、走り去る人間を見送ることしかできなくなっている。
次の日も、その次の日も、また次の日も発表ではミスを連発した。まるで少し前の河内だ。歌のレッスンなど、全員で声を出す時は大丈夫だが、皆の前に立つと途端にしくじる。周りの目が怖い。失敗はいくらでもして良い場所だが「失敗するんじゃないか?」と見られることが怖い。今日は水堂先生のレッスン。1人ひとり手を挙げて発表していくのを眺めている内にレッスンは終了した。今日は人の発表を見るだけで何もしなかった。こんなことなら変わろうとしなければ良かった。ぶつかり合わなければ良かった。レッスン後の自主練習もやる気が出ず、荷物を纏めていると佐倉が近づいてくる。
「大丈夫……? ずっと調子悪そうだけど」
佐倉と話をした所で何も変わらない。体調が悪いと適当なことを言って片付けを進める。
「全然紀川君らしくないよ。どうしちゃったの?」
普段とは全然違う。悲壮感だけでなく怒りも感じる。そこでやっと佐倉の顔を見ると泣きながらも真っ直ぐに僕を見つめる。
「本当のこと言って欲しい」
言えたらどれだけ楽なのだろうか。僕が河内を追い詰めて殺しかけたなんてどの口で言える?毎日が辛い。学校に来るのが辛い。毎朝起きるのが辛い、バイトが辛い。大きな辛さは日常の細かい部分もすべて辛くしていく。佐倉のことも辛い。好意を持ってくれている人間に心無い対応を続けてしまっている。自分だけで精一杯なんだ。分かってくれ。多分、僕も君が好きだが、そこに甘えると全てが崩れ去ってしまう。
「疲れてるだけだよ。大丈夫だから」
佐倉はもう何も言わなかった。
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