第28話 凡人は立つ

 チャイムが押せない。13時に到着すると電話をしたはずだが今は13時4分。15分近く門を通り過ぎたり携帯をいじったりしていたら時間を過ぎてしまった。行くぞ!と決めてチャイムを押そうとしても押しきれない。何のために来たのか。正直、自分のために来た。どんな結果でも受け入れるために来た。いつだって最終的な決心ができずにいた気がする。今度こそ押す。そう思った時、玄関のドアが開いて河内の母が出迎えてくれた。


「洗濯を干そうとしたら紀川さんが見えたので……」


 促され家に入ると、玄関からすぐのリビングに通された。10畳程の和室。座布団に座り、周りを見ると穴の空いた襖や色あせたキャラクターシールなど。外観とは違う、生活臭が溢れる空間がそこにあった。


「わざわざ来てくださってありがとうございます……」

「いえ……むしろいきなり申し訳ないです」


 聞きたいことは一つ「何があったのか」だ。河内の母も僕がそれを聞くために来たのは分かっているだろう。アイスコーヒーを一口飲み、いつ切り出そうかと考える。


「泰は学校ではどんな風に過ごしてましたか?」


 不意に尋ねられて戸惑った。声のトーンは落ち着いている。僕は学校での河内のことを出会いから話した。自己紹介のこと、クラスのまとめ役を買って出てくれていたこと、僕に優しく教えてくれたこと。そしてぶつかり合う中で消耗していったことも。

 話が一段落すると、今度は母親が河内のことを話しはじめた。両親の期待を背負って勉強に明け暮れていたが高校一年生の時にいじめられてドロップアウト。同時期に父親が病気で亡くなり、甘やかしてしまったと。にわかには信じられないが、河内は家で暴れてこの部屋以外も穴だらけらしい。口癖のように「こんなはずじゃなかった」と叫びながら暴れていたという。そして、二年前に声優の専門学校の資料を取り寄せた。母親として少しでも動いてくれたら良いと思い、入学を許可した。そこからは機嫌良く学校に通い、自分から楽しそうに学校生活を語ることもあったそうだ。


「命は助かりましたが……こんなことになったのは私のせいなんです……」


 涙が流れていないのはこの数日で出し尽くしたからだろうか。そしてアフレコ発表の前あたりから河内は再び不安定になりはじめ、将来の不安や周りに嘘を吐いていることを口にしはじめた。アイスコーヒーの氷もほとんど残っていない。それだけ時間を掛け、懺悔するように息子のことを語る。


「学校が終わったら、普通に働くと思っていたんです。それで…どうせ難しいのだから就職先も探しておくのよって言ってしまって……それで……部屋に閉じこもって……」


 なんと言ったら良いかわからない。ただ、河内は変わろうとしていた。想像だが、二年前に資料を取り寄せた河内は、河内泰を1年掛けて作り上げ、完全武装で乗り込んできた。そりゃ上手くいくに決まっている。掛けてきた思いが違う。だがそれも途中までだった。平穏な生活とは違う、ある種の狂気が渦巻く世界、そこは自分とひたすら向き合う世界。そこで河内の器にヒビが入った。戦おうとしていた。河内は逃げたと思った瞬間もあった。それは間違いだった。柳の言う通り、僕の何倍ものプレッシャーの中で耐え続け、戦い続けた。嘘を武器に戦い続けた。僕の嘘とは格が違う。世界を変えようと本気で嘘を吐き続けた。一般的に、嘘は良くないと言われるが、誰が河内を責められるのだろうか。演技なんて虚構だ、声優なんて虚業と言う人もいる。だが、河内はそこに人生のすべてをぶつけた。

 これだけの思いを持つ河内が敵わなかった。だったら僕は、どうしたら良いのだろうか。全身から抜ける力が未来の敗北を描く。このままでは声優になれない、それ以前に人間として駄目になる。


「紀川さんのことを、よく話してくれました」


 顔を上げると、我が子を見るような優しい顔。


「紀川さんは……誰よりも全力で落ち込むことができるって。変な言葉ですけど、あの子らしいです。僕みたいに耐えられなくなる人間じゃない。落ち込んだことをバネにして成長できる人間だって……」


 そんなはずない。僕は小さくて、嘘つきで、すぐに逃げる。そんな人間になぜそんな言葉を掛けてくれるんだ。弱い自分が背中から出てきて僕を掴む。そしてまた仄暗い世界に引きずり込もうとする。


「紀川さんは、そのままで良いって。一番辛いことを選択できるって、それを受け止めきれる強さがある紀川さんに憧れているって……」


 最後は声が震えて聞き取れなかった。強い思いを受け止めきる自信がない。だからこそ、その言葉を、真正面から信じようと思った。弱くて何が悪い。負けて何が悪い。1年と数ヶ月かけて、今、気が付いた。僕は、変わることができない。小細工では太刀打ちできない。だったら、僕は僕を加速させる。どこまでも加速させる。


「先に待ってるって、泰さんに伝えてください」


 後日、間垣先生から正式に河内の休学が皆に伝えられた。皆も調子が悪そうな様子を見ていたからか、誰も何も言わず受け入れた。

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