第1話

 

 真っ直ぐに歩けない。そりゃ声優なんて目指して声優専門学校に入ってしまったのだから人生のレールからは外れて然るべきだ。でも、そういう意味じゃない。本当に真っすぐ歩けない。


 吐き気、寒気、震え、過呼吸、空えずき、鳥肌。


 体が出せるエマージェンシーをすべて出している。


 二年間当たり前のように歩いてきた廊下が曲がりくねっている。靴箱に手を添えてやっとの思いで立っている。

 去年の今頃何をやっていたんだろうな。その前は何をやっていたんだろうな。

 そしてこれから先はどうやって行くんだろうな。

 あと数歩歩いてドアを開けたらはじまる。狙っている事務所のオーディションがはじまる。2年で 200万円以上支払って手にした権利だ。


 声優専門学校、不思議な場所だった。多くの変わった奴が少しの良い奴が消えていった。最初は凄かったな。なんだよあいつら。本当に仲良くなって2年間一緒にやっていけるのか不安だった。そして僕が声優を目指しているという現実も不安だった。うまくなっているのかも不安だった。追い立てられる事が不安だった。やりたい事ができなくて不安だった。そして仲間が消えてしまう事が不安だった。

 すべてのはここに立つための時間だった。この道を歩いて数分間に人生のすべてを叩きつけるための時間だった。人生の中で一つの事に向き合えるなんて本当に素晴らしい。それが演技であったとしても。劇団やプロダクションじゃない、声優専門学校だったとしてもだ。


 世間的に僕はどう見えているのだろうか?親の本心は?兄弟の本音は?高校の時の友達の友達はまだ笑いながら「声優になるってほんまけ!?めっちゃおもろいわ!」とか言うのかな。でも、それはもうどうでも良い。ここに立っている喜びと恐怖を受け入れろ。自分で決めろ。自分で手に入れろ。あの時の僕じゃない。もうあの時の僕じゃない。


 遠い。たった数歩の道が遠い。一歩進むごとに自分の体から何かが抜けていく。一歩進むごとに何を考えているのかわからなくなっていく。余計なことをたくさん考えるのは自分を体内に留まらせるためだ。ここまで来たら何を信じる?あと数分で僕の人生は終わっちまうぞ。信じろ。盲信しろ。何を?僕をだ。僕を心から信じろ。僕の事だけ考えろ。震えてる。怖いのか?差し出せよ。飛び込めよ。やってきたんだろ。やってみろよと言ってきたんだろ。一緒に頑張ろうって言ってきたんだろうが。

 今、今、今、ビビってんじゃねえぞ。信じろ。骨、肉、血管、爪、脳、魂を信じろ。僕はできる。僕はできる。できるんだ。僕は、僕は誰だ?それもわからなくなってきた。良い状態だ。でも、もう少し呼び戻さないと。誰だ。僕は誰だ。世界を繋げろ。僕と世界を繋げろ。

 僕の世界は狭くていびつだ。外の世界と交わるのが怖い、しかし存在しているということは交わるということだ。生きているということは自分だけじゃないということだ。僕は誰だ?名前を呼べ。それが僕には必要なんだ。演技は上手くない。スター性もない。だからどうした。知った事か。


 僕の名前は紀川修。遙か地中の彼方より実力者にご挨拶申し上げる。

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