第3話 入学後即辞める人間は幸せかもしれない

 あめんぼあかいなあいうえお うきもにこえびもおよいでる

 かきのきくりのきかきくけこ こんなのやってもいみはない


 新大阪にある声優や漫画の専門学校、エンターテイメントメディア専門学校の声優学科に入って3ヶ月。ずっとずっと発声練習、アクセントの座学、歌、ダンス、舞台役者からの演技の指導…

 入学当初はいつになれば声優的な練習ができるのだろうかと思い、今も思い続けている。数ヶ月前、緊張しながら入学を待っていた僕は毎日のレッスンを消化し、形だけの自主練を続ける腐った存在に進化していた。

 日々のレッスンにどんな意味があるか理解できずにいる。「マイクに向かって声を出すにはどうすれば良いのか?カッコイイ声を出すにはどうしたら良いのか?」そんなのまだ欠片も教えてもらっていない。そして「なぜ声優になりたいのか?」を見つけられずにいた。


「結構声が出るようになってきたわね。その調子よ」

「はい! 頑張ります!」


 褒められて喜んでいるのは佐倉巴。細く、小さく、誰と話す時も少し照れた感じの内気な女の子。そんな子がどうして声優を目指したのかを聞いたら「うち…お芝居好きやから…」と答えた事が印象に残っている。


「巴ちゃん! すごく良くなってるよね! 俺も負けずに頑張るわ!」


 この声の主は多田幸太郎。体型は球体、角刈りで額にはペイズリー柄の赤いバンダナ、光るメガネに光るキツネ目。そんな「オタク像」が具現化した外見でアニメと声優が出演しているラジオに詳しい。


「男と女だったら勝ち負け関係ないだろ? そんなこと言ってると皆に追い抜かされるぜ?」

「おっと、お前には負けねーよ」


 アニメのセリフみたいな言葉が飛び交っている。普段使う言葉は日常の中でストックした物を放つのが普通だと考えている。そのストックが偏っていたらその人の発言や話し方は偏った物になる。


 僕はクラスに馴染めずにいた。直方とは入学前からの付き合いもあり一緒にいるが、クラスメイトは僕を違う部族と思っているのかあまり話しかけてこない。周りは同じ部族の匂いを感じ取り、手を組むことでトライブがドライブしていく。


「やっぱり馴染めない」


 レッスンが終わって舞野とそんな話をしていた。僕と同じハグレモノの舞野は周りとオーラが違うし実力もずば抜けている。親が芸事をやっていた事もあり、子供の時からCMに出たりと芸能活動をしていたらしい。ヤングマガジンの表紙を飾れるような色っぽさ。クラスメイトのみならず他の学科の人間もビビって話しかけることもなく、遠巻きに見ているだけだ。


「あんたなんで声優目指してるの? 見た目はバンドマンみたいな雰囲気だけど」

「…昔から吹替えに憧れていてさ。舞野は?」

「私は宝塚に入りたかったけど落ちちゃったの。それでなんとなく声優も良いなって思ってさ」

「そんなに上手いのに落ちるんだ?」

「上手い人って多いの。それだけじゃダメなのよ」


 全てにおいて格が違う。周りは講師から声の出し方やアクセントで注意される中、舞野だけは専門的なダメ出しを受けていた。小さいころから声楽をやっていたこともあり、声が凄い。周りを包み世界が見える声。今すぐプロの声優としてやっていける気がする。


「まだ入学したばかりだしそう考えるのは早いんじゃない? ってまたオッサンみたいな事言っちゃったね」


 笑顔で会話に入ってきたのは河内泰。クラスの最年長。ジミ・ヘンドリクスに似た29歳の元サラリーマン。年齢以上に老けて見えるのは彼も他のクラスメイトと同じく服装に頓着しないからだろうか。クラスに馴染めない僕によく話しかけ、レッスンについてもアドバイスをしてくれる。


「河内さんは最初の自己紹介から凄かったですよね」

「やめてくれー!」


 頭を抱えてうずくまる河内。ここは現実世界、漫画やアニメならありかもしれないがリアルな場でこんなリアクションが出てくる。入学してすぐ、全生徒の前で自己紹介をする地獄のイベントがあった。


「俺は! 小学校から高校卒業までいじめられてました!」

「私…変わっているって言われていて…アニメだけが支えてくれました…」

「あ…あう…あの…その…うううううう…」

「名前……やな…ぎ…めぐみです…………」

「いじめられてきたから…青春を取り戻したいんです!」 

「社会人時代、心を病んで自殺未遂をしたり人を殺そうとしたこともあります」


 怪しげなセミナーだ。皆が大声で自分のコンプレックスや志望動機を語る。何も言えずに去った人もいた。僕は普通に高校時代にちょっとバンドをやっていたりとか当たり障りのないことを言った。恐怖すら感じたが、皆の熱量を羨ましいとも思えた。


「河内さんが1番パンチありましたね。自殺したいとか人を殺したいとかなんで言っちゃったんですか?」

「ちょっと! 自殺未遂と「殺そうとしたこともある」だよ! 歪曲しないで! 僕より若い皆が正直な心でぶち当たっていくのに触発されちゃってさ」


 本心を隠そうとしている僕の胸が少し痛む。皆、全力で何かをぶつけようとしている。そのキッカケは心の傷かもしれないが、エネルギー効率は非常に良い。


「ほんまやな」

「あ! 関西弁! 紀川君、ごちそうさま!」


 学内で関西弁を話すとうまい棒をおごる。毎日の中で少しでも足掻こうとする学生の浅知恵だ。東京出身の人間はやらなくても良いことをやっている。僕らは追いつけるのか。僕らは何になるのだろうか。曖昧に笑って未来を隠す。少しすると間垣先生が全員を集め隠しきれない現実を話す。


「連絡は二点、まず一つ、最近休んでる島田が学校を辞めました。二つ目、9月にチーム分けして朗読発表会やることが決まったぞ」


 え?


 辞めた?島田、全然話したことがない。僕と同じくクラスに馴染めていなかったみたいだが、たまにクラスメイトとゲームセンターに行っていたと聞いている。100万円が3ヶ月で消し飛んだ。大きな金を払ったのだからとりあえず一年は通おうとしないのか?夢はこんなにも早く、脆く砕けるのか?

 僕は声優になりたいとは思っているが、確固たる思いがない。島田もなかったのか?なかったとすれば僕もすぐに崩れさってしまうのか?


「島田君はどうしてですか?言えない部分もある思いますが…」


 河内が尋ねるとクラス中が耳を澄ます。


「毎年数人はすぐいなくなる。お前らの1年上は確か7人辞めたな」


 これが普通なのかと驚いた。しかし、辞める判断はもしかしたら早い方が良いかもしれない。すぐに辞めて新しい道を進む、それは今の僕みたいに流されるままに練習を続けるよりよっぽど建設的だ。

 先生が教室を出ていくと、島田が最初から存在しなかったように一斉に朗読発表について話し出す。衝撃は、未来の課題によっていともたやすく霧散した。

 切り替えきれずに教室を眺めていると、背中を預けていたストレッチ用のマットに座っている舞野が話しかけてきた。話題はもちろん朗読についてだが、話に乗らない僕を察して島田の話題になった。


「僕らがもう少し仲良くしていたら辞めなかったのかな」

「ここは普通の学校じゃないのよ? 他人の心配するなら自分の心配しなさいよ」


 立ち上がり教室から出ていく舞野を見送る。教室の端に佇む河内が目に入ったが、いつもの優しい顔ではなかった。


 しばらく自主練をやり、休憩がてら教室の外に出る。熱気から解放され、無機質な廊下を越えて蒸し暑い非常階段に向かう。非常階段には喫煙所があり、タバコを吸う生徒のたまり場になっている。そこを通り抜けて屋上でぼんやりするのが日課だった。


「あ! 紀川君だ~!」

「声優目指すならタバコ辞めた方が良いんじゃないですか?」

「プロでも吸ってる人おるやんか~!」

「方言出ましたね」

「忍、それやってないからうまい棒おごりませ~ん!」


 酒巻忍、漫画みたいなツインテールにロリータ服を身に着け、男子生徒とベタベタするのが好きなクラスメイト。たしか23歳。広島の大学を卒業後に声優を目指し入学。今は学校の近くで一人暮らしをしており、学内の男を連れ込みまくっているとの噂もある。


「島田君辞めたねー。びっくりだ!」

「そうっすね……お疲れ様です」

「もっと喋ろうよ~」

「あ! 忍ちゃん! ここに居たんだ!」

「うふふ~見つかってしまった~!」


 酒巻と一発キメたいクラスメイトに後を任せて屋上に上がると心に染みる風景が広がる。新大阪は駅周辺以外は古い住宅街だ。そんな殺風景さも「この景色を見るのは2年しか無い」と考えたら不思議とお気に入りの場所になった。

 教室にいると周りが気になって仕方が無い。もしかしたら周りの人間全員が基礎的な部分を終わらせているのではないかと不安が膨らむ。不安ならばやれば良いのにやってもなかなか上手くいかず見せかけだけの練習を続けてしまう。

 毎日大きくなる不安をより大きな嘘で包み込んでいく。このままでは卒業までにとんでもない量の嘘が積まれる。それを覚悟してやってきたが、たった3ヶ月で折れそうになっている。

 もしかしたら僕は島田だったのかもしれない。僕も1年持たずに辞めてしまうかもしれない。レッスンでは毎回滑舌やアクセントの間違いを指摘される。唯一マシなのは言葉を発さずに身体だけで演技をするレッスンだけだ。


「あら! 今日も屋上来たんだ!」


 振り返ると南涼子が階段を上ってくる。身長147cm。ショートカットで少年のような雰囲気があり、いつも首にタオルを巻いている。中学校からずっと演劇部に所属していて、舞野とはまた違うスター性と、飛び抜けた能力がある。演劇部あがりの佐倉とも仲が良い。今日のレッスンは南が抜群に上手いCM原稿読みをしたすぐ後に僕が読むことになり、動揺しているうちに終わってしまった。


「上手い人の後にやるのキツかったよ」

「私なんかぜーんぜんダメ! 今もここでヘコもうって思ってたんだよ?」

 南が小さい体をぴょこぴょこさせ、こけしみたいな顔を膨らませて抗議する。

「南も将来とか不安になったりする?」

「考えないようにしてる! わかんない内に考えてもしょーがないじゃない!」

「島田は…わかったのかな」

「島田君が決めたならそれで良いと思うよ。私は頑張んないとなあ~! 私、片親でお金も全然ないのにこんな学校来ちゃったし」


 塗装が取れてサビついた手すりに腕を置いて黙り込む。南も階段に腰掛けて首のタオルを巻き直して黙っている。僕は手すりのサビを少し剥がして教室に戻った。


 途方もない夢に現実感が持てず、時間を埋めるように練習を繰り返す。朗読発表会という目標ができたからか、いつはすぐに帰ってしまうクラスメイトも鏡を見ながら口の形をチェックしたりしている。僕が教室にいるのに気が付いた直方が軽く片手を上げ近づいてきた。


「朗読、楽しみだよな」

「朗読やる時、また何人か辞めてたりしてね。僕とか」

「不穏なこと言うなよ」

「舞野が辞めたらびっくりするよね」

「やめろって」


 数日前、学校近くのたこ焼き屋で直方と上顎をドロドロに火傷しながらたこ焼きを食べている時に舞野の事が気になっていると聞いた。もちろん異性としてだ。そんな舞野の姿が見えず直方に訪ねた。


「お前が階段に行った少し後に帰ったよ。その時の紗英ちゃんも…可愛かったな…」


 まだ入学して間もないのに、あっちこっちで誰が可愛いとか誰が格好良いとかの話を聞く。今まではオタクとして日陰に居た人間が集まっている。日向に這い出た生き物は、日光に耐えられずその身を焦がすのだろう。

 僕もアニメやマンガはそこそこ好きだったが一般的にしか知らない。周りはアニメ制作スタッフ名も言えるような面々だ。オタクなだけで迫害を受けてきた人間が、むしろオタクであることが受け入れられ評価される楽園に来た。新世界のアダムとイブは自然と距離を詰め、極端に多いボディータッチを通じてアガペーからエロスへと到達しようとしている。

 直方は入学即恋に落ちていた。高校時代は放送部に在籍していて彼女もいたとの事だが、専門学校に入って声優を目指すことに集中するため別れたと言っていた。現在恋に落ちている直方を見ていると完璧に嘘で適当な理由でフラれたのだろうなと推察できる。


「何? 恋の話し?」


 河内がヘラヘラしながら近づいてくる。


「忍ちゃん可愛いよね~!」


 多田がデカイ体をプルプル震わせ近づいてくる。声優志望者の繁殖期は初夏なのだろうか。


「俺は紗英ちゃんしか見えないな。河内さんは佐倉が良いって言ってましたよね?」

「え!? 言う!? 秘密って言ったよね!? 紀川君は気になる人いる? 舞野さんと仲良いみたいだけどもしかして」

「それは断じてない!」

「なんで直方君が答えるんだよ」

「熱くなってごめん……ま、紀川とはそういうところも……ライバルって訳だ?」


 ボンクラがボンクラな話をしている間は自分のボンクラ加減を忘れられる。皆、思い描いた青春時代を過ごせなくてここまで来た。通り過ぎてしまった青春をもう一度拾い集めようとしている。僕は勇気が無くて眺めているだけだ。眺めて外野でいる限り傷つかない。だからこそ皆が少し羨ましかった。


「僕も好きな子とか作ったほうが良いのかな」

「好きな人がいると人生が豊かになるよ。多田君は彼女いたことある?」

「……ある!」

「へえ、最後までした?」

「俺は! あれや! あの…そう! …ほ、祠でヤった!」


 みんな肩を震わせながら遠くに去っていく。もう少し聞きたかったが「これ以上聞くな!」と訴える多田の美しい目を見ていると、何も言わない優しさもあるんだと気が付いた。

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