第12話 オーディション、試される場

 高枝切りバサミとさらし染めの街、堺市鳳。ホームタウンにあるのは鳳ウイングスと大鳥大社。駅近くの駐輪場に自転車を叩き込み、天王寺方面行きのホームに向かう。正午過ぎの客が少ない関空快速に乗り込む時、正月が終わり走り抜けていく日々がはじまったと体が意識しはじめる。


 大和川を越え、大阪市に入った辺りでスイッチが切り替わる。ここから先は日常じゃない。天王寺駅で降り、マネケンのワッフルの香りが南海そばに変わると御堂筋線に繋がる階段。エスカレーターは使わない。「ここからは出来る限り自分の力で」と思いを込めて階段を下りる。定期券が自動改札に飲み込まれ、ノールックで掴む。もう一つ階段を下りると新大阪方面のホーム。


 電車が進むとスーパー玉出のビニール袋は出現率が下がり、大丸やSOGOの紙袋率が上がってくる。地下鉄は中津を超えたあたりから地上を走り、河川敷を眺めている内に西中島南方。そこから電車内アナウンスが終わるか終わらないかの内に新大阪だ。551の紙袋出現率が高い駅構内を抜けると灰色渦巻くオフィス街。そこをオフィスとは縁遠い人間が駆け抜けて声優専門学校に辿り着く。気合を入れ直し学校に入ると、エレベーターホールにある掲示板の前で学年・クラス問わず多くの声優学科生が集まっていた。朗読の舞台を作った時に話した先輩に何事かと尋ねる。


「年末にやったプロダクションのオーディション結果が出たんだよ……」


 目線をその紙に向けると話しかけた先輩の名は無かった。


【所属:該当者無し 準所属:井上ゆい 土橋里美 養成所特待生………】と続いている。掲示板の前で涙を流す人、苦笑いで見つめる人、喜び飛び跳ねる人、無表情で通り過ぎる人。この紙に名前が書かれることで声優への切符を受け取れる。


「次のは頑張るよ…紀川君も頑張って。発表は来月だよね?楽しみにしてるからさ」


 学校の空気が一変していた。先輩たちには「いつも通り」がなくなっている。来年の僕らもそうなっている。教室に入ると皆が事務所オーディションの結果の話で盛り上がっている。積まれたマットに座っている舞野を中心に多田たちが話していた。


「所属いなかったのはびっくりしたわ! 土橋先輩なんかめっちゃ収録出てるのに! でも、預かりってなんやろ!?」

「事務所に仮に所属してる感じよ。似たので預かりというのもあるわ。ダメだったらすぐにクビになるのよ。でもほとんどは養成所合格でしょうね。それがお金になるし事務所のカラーにも染められるし」

「忍は養成所でもいいな~! だって学校では2年しか練習できないんだし~!」


 未来のオーディションも大切だが明日の配役オーディションを考える。そこに集中しなければならない。今日はレッスンが無い。発表のことや今年1年の流れを伝えられて解散だ。その後は皆学校に残って練習をやる。

 ほぼ1年戦い続け傷や疲労も溜まっている。オーディション結果に一喜一憂する先輩は僕らより深い傷が付いている。商品として認められなければ、この2年の時間が努力が消し飛んでしまう。久しぶりの柔軟体操で悪いイメージを遠くに追いやり、間垣先生を待つ。


「あけましておめでとう。明日はオーディションだけど気張りすぎるなよ。たった1年だけど、ある程度の差って出てくるんだよ。奇跡は絶対におきない。やったことだけがでる。だから自分を信じて出し切れよ」


 やってきたことはなんだろうか。あの先輩もやってきたはずだ。そしてオーディションに落ちた。やってきた人が無理だったことをやれるのか?いや、あの人はあの人で僕は僕だ。明日、まずは明日。明日を越えなきゃ本当の明日は来ない。飛び出した不安の頭を、力を込めて押し戻す。


 誰も何も言わずにVHSデッキをテレビと繋ぎ、マイクスタンドを並べる。自然と練習の用意が整う。慣れた景色。慣れた行動。それもこれで最後だ。明日配役が決まったらその配役での練習が主になる。裏に回る人が出てくるし僕もその可能性がある。


 翌日、起きた時間は出発の2分前。母親が父親の弁当の余りで作った握り飯を掴んで外に飛び出す。中身は嫌いな梅干しで最悪な気分だ。

 電車内で台本は開かない。もう頭の中に入っている。最初のセリフは14秒56から、16秒34まで。その後カメラがゆっくり移動して役はフレームアウトするが話している。その後は室内に切り替わってしばらく出番はない。この時、役は車でパーティー会場に向かっているからだ。多くの情報を思い描き、頭の中で作り上げて外堀を埋めていく。頭の中でもう一本の作品を再生する。そのもう一本の作品を別カットで撮影した作品も再生する。多くの映像を一気に回し、誰がそこにいて、何をするのかを考える。


 オーディションは進み僕の番。僕より前に終わった人は別の部屋で待機している。名前を呼ばれ立ち上がると、佐倉と目が合いお互いに軽く頷く。冬の寒さがダイレクトに襲いかかる廊下を歩き、録音ブースも兼ねた小さな教室に向かう。録音ブースを仕切るガラスの向こうには間垣先生と水堂先生。

 暑くも寒くも無いブースの中に一本のマイクがある。僕がマイクの前に立つと間垣先生がマイクの高さを調節する。静寂の中には心臓の音、全身に虫が這い回るような血液の疾走を感じる。


 この録音ブースの中で何人の声優志望者が地獄を見てきたのか。足が震え喉がしまる。胃袋が飛び出しそうな感覚。ゆっくりと力を抜く。ゆっくりで良い。プロになったらこんなにも自分のペースで物事は進められないだろう。でも、学生の今ならやっていい。学生の使える部分は全部使う。


「名前と希望の役名を言ってください」

「午後クラス、紀川修です。ジョンを希望します」

「前にある紙を取って自分のタイミングで初めて下さい」


 俺はジョンだ。ジョンなんだ。レンタカー会社のパートタイムジョブを何年も続けている。勉強はからっきし。そんな俺がナレーション?


 メッキが剥がれ落ちる音は蝉の抜け殻を踏み潰す音と同じだ。それが脳に響く。眼の前にはレッスンで何回もやった製薬会社のナレーション。何かの間違いか?今日は洋画のアフレコ発表のキャスト決めオーディションだ。目を上げてガラス越しにブースの外を見る。無表情の間垣先生。口元に少しの笑みを浮かべている水堂先生。

 切り替えろ。切り替えるんだ。ナレーションの練習もしてきた。深呼吸しろ。文字が目に入ってこない。動揺している。全部見られている。早くやらないと。いや、ゆっくりで良い。僕のタイミングではじめて良いって言った。メッキが剥がれたならそれも一つの美であると宣言しろ。堺の茶器だって割れたら金継ぎをしてそう言う。

 数度ジャンプする。ジャンプして息を短く吐き出すと少し心が落ち着く。カナダ人はそんなジョークをやるのか?意地悪しやがって。まだ体からジョンが抜けきってないじゃないか?人生はうまくいかない。だからこそ、少しニヤけてしまう。


「大空を舞う鳥も、時には止まって休みます。大きな海に住む魚も、サンゴに隠れて休みます…」


 1分少々のナレーション。僕はジョンで、ジョンのまま思い切り叩きつける。パニックを起こしてそうなったんじゃない。決めかねてブレたんじゃない。血みどろの体から心臓を取り出し、正々堂々見せつける。ナレーションの上手さは下から数えた方が早い。だけどセリフならまだ戦える。「やるしかない」じゃない。「これでやりたい」だ。


 ジョンでやりきった。ジョンとして目の前の3人に語りかけるように。ナレーションの世界を伝えるように。「役を降ろす」という言葉があるが僕は自分に役を作る。ブロックを一つ一つ、賽の河原の子供のように積み上げる。役は人間だ。人間だから歴史がある。僕にだって生きてきた歴史がある。役を作り上げるピースを頭の中で作り続ける。


「はい。じゃあ次はセリフを」


 考えるな。ジョンだからできて当たり前だ。ジョンの脳、体、心。僕の中に作り上げたジョンは僕の体を借りて言葉を撃ち出す。目の前にいる3人に撃ち出す。考える暇がない。だってジョンだから。普段考えて話さない。だからジョンは失敗する。考える暇があるならもっとマシな人生を歩んでいる。マシンガンのように喋る。人の話は聞かない。ジョンは人に思いを聞かせたいではなく、ただ喋りたい人間だ。だからいつも自己嫌悪に陥る。だけどその考えはどうでも良い。ジョンが後悔するのはしばらくしてからだ。僕はジョンになり、僕をコントロールしながらジョンを引き出す。僕はジョンで、ジョンは僕だ。

 突き抜けるような高い声ではじまり、喋っている間に声が潜んでいく。体が自然と動く。右手に一枚の紙。左手はオーバーリアクション。悔しがる時には自然と足踏みをしてしまう。言葉が出ないシーンではアワアワする。セリフを噛んだ。噛むさ。ジョンは人間だから。戸惑うな、当たり前のことを当たり前にやれ。生きた存在をそのまま演じろ。存在を作れ。ジョンはここにいる。僕はここにいる。


「お疲れ様。上の階で全員終わるまで待ってな」


 間垣先生の声でフラフラしながらブースを出る。数歩進めば教室と外を繋ぐドアだが出られない。消耗しきってしまい、ドアに背中を預けて座り込む。ドアが開く様子が無かったからか間垣先生が様子を見にきた。


「無理やり他人の感情を作って出すんだ。そりゃ疲れるさ」

「すみません…」

「お前の後は休憩の予定だった。しばらく居て良いよ」

「ありがとうございます」


 間垣先生は片手を上げて元居た場所に戻っていく。ドアの前から広い場所に移動し、呼吸を整えていると水堂先生が近づいてきた。


「面白かったわよ。もっと無理しなさい。死にはしないわ。今日はお疲れ様」


 面白かったと言ってくれた。その言葉で救われる。伝える喜びと伝わった感動を燃料に変えて教室を出た。皆がいるだろう教室に行く前に屋上に向かう。錆びついた手すりに体を預け、強く大きく息を吐く、オーディション時に感じた独特の浮遊感はなんだったのだろう。脳のどの回路を使ったのわからない。ただ、感情を言葉として紡いだ。


「どうだった!?」


 背中から声が聴こえ振り返るとキラキラと輝く笑顔の井波がいた。


「ぼちぼちかな。井波は何役受けたんだっけ?デイビッド?」

「うん! 男の子の声って出しやすいし!紀川君もナレーションやった!?」

「やった。血の気が引いた」


 お互いにあの瞬間を思い出したのか小さく笑う。井波は誰もが恋してしまいそうな笑顔のまま隣に立つ。2人で新大阪の街を眺めていると、井波がゆっくりと話しはじめた。


「これが第一歩なのかな……声優として……違うな……カッコ良く言えば表現者としての」

「そうだな…どんな一歩でも、楽しかったらそれでええ思うわ」


 冷たい空気を鼻から吸い込み体に残った熱と共に吐き出すと、身体の奥にいる小さな自分が見えた気がした。

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