第30話 声優事務所に人生をさらけ出せ
流れる時間に抗うように練習を続けていると11月末、最後の通常レッスンは水堂先生のナレーション。入学してからの集大成として、僕はそのまま喋り真っ直ぐに伝えた。計算などは入れない。原稿を読み、何を伝えたいのかを考え、この原稿を作ってくれた人が声優に託したメッセージだけを考え、そのまま言葉として放った。
「少し質問して良い? 商品名のエグゼクティブウォッチが3度出てくるけど、全部読み方を変えた理由は?」
「最初は商品名を素直に伝えたいと思いました。2回目は父の日の下りの直後なので、30代の会社員が、定年で仕事を辞める父親に渡す様子で読みました。3回目は時計を作った技術者の伝えたいことを言ったあとのシメとしての商品名なので、技術者の思いを作って読みました」
「その割には紀川君のままだったと思うけど?」
「はい。僕が父親に渡す所を想像し、僕が技術者だったらと考えて読んだので特に声や心の立ち位置は変えていません」
「いじわるな質問してごめんね。東京で収録したあとはどうしちゃったのかと思ってたけど、凄く良くなって来たわ。何か掴んだのね。紀川君は今やったみたいに変に声を作ったりしない方が良いわよ」
水堂先生にはじめてキチンと褒めて貰えた。最後の最後で間に合ったのかもしれない。
「でもね、紀川君は声優に向いてないわよ。自分では向いていると思う?」
僕だけでなく、一緒に喜んでくれたクラスメイトも固まる。向いていないことは理解している。声は高くも低くもなく、録音した物を流した時、自分でも気が付かないほどの声。これをメイン武器としてこの世界で戦うのは無謀以上の何かだ。
「向いてるとか向いてないとか、考えるだけ無駄だとわかりました。僕は声優になりたいからここに……いや、ちゃうな……最近気が付いたんですけど……僕、好きなんです。誰がなんでこの原稿を書いたのかを考えたり、作品の世界を人に伝えるのが。だから、ここにいます」
レッスン終わりホームルームがはじまると、間垣先生から全員に12月から3月までの予定表が渡された。最初に行われオーディションはアックスボイス。東京の収録で一緒になった和泉愛さんが所属していて規模は業界トップ3に入る。その後は60イット。ここも大手と言われる事務所だ。その後も中堅事務所や大阪の事務所、舞台や吹替えに積極的な劇団、俳優事務所、それにモデル事務所もある。僕らの未来は吹けば飛ぶようなB5サイズの紙きれ一枚に収まった。
「アックスボイスはどうしても嫌って奴以外は全員受けろよ。希望者は全員見てくれる。過去の実績的に一発所属になった先輩もいる」
柳、多田、酒巻、八木沼の目が光る。僕は記念受験組の1人だが受けるからには狙いに行く。本命として考えているのは1月の最初に予定されている芸心という事務所だ。芸心は小規模だが好きな吹替え声優が所属している。ほとんどがベテランか中堅。誰もが聞いたことある声だが名前が浮かばない、そんないぶし銀の声優が多い。
オーディションが近づくにつれ、クラス全体の緊張が高まる。学内発表とはレベルが違う。人生を完全に左右する機会。就活をしていたらこんな気持ちになっていたのだろうか。就職と違うのは、事務所に縁があっても、賃金が保証されていないことだ。
アックスボイスオーディション前日には所属を狙っている柳、多田、酒巻、八木沼が速度を上げる。柳はいきなり奇声を発し、多田はいつもの5倍喋る生物に進化し、酒巻は「時間が勿体無いから」と八木沼と別れ、八木沼は悲しみをやる気に変えて泣きながら練習を続けていた。誰もがそれぞれの方法で高め合い、声優専門学校生活の総決算をはじめる。
オーディション当日。2年生はほぼ全員が集まる。さすがに壊滅的な服装をしている人間はいない。と思ったが直方が黒のダウンベストに黄色のシャツ。それだけなら良いのに蛍光グリーンの蝶ネクタイをしている。皮肉でもなんでもなく本当に凄い。
「オーディションのやり方は今までやってきたオーディション対策と同じだ。5人ずつ順番に名前を呼ぶので、呼ばれたら録音ブースの部屋まで移動。中には椅子が5つ用意されているから座る。その後は一人ずつ今までの結果を見せる。今までやってきたことかそれ以下しか出ない。健闘を祈る」
先生が出て行くと皆がアップをはじめる。僕も羽織っていた革ジャンを脱ぎ体を伸ばしていると、教室の隅にいる佐倉に気が付いた。あの日の南のように鏡を見ながら大きく呼吸し、体の状態を整えている。踝のから脳天まで一本線が通ったような凛とした空気。それを感じて少し安心できた。
最初のチーム、男5人が教室を出た。20分程して今度は女5人。1人3~4分の審査。僕らみたいなのを掃いて捨てるほど見てきただろう。しかし業界を目指す人間なら誰もが知っている人間が所属している事務所。能力を見抜く目は確かに違いない。
「では名前と自己紹介を1分でお願いします」
審査員は3名。30歳くらいの女性に40代半ばの男性が二人。女性は無表情で僕を見つめ、男性2人はプロフィールを見ているのか顔も上げない。僕はまだ彼らの前に存在していない。
「自己紹介、はじめてください」
女性が無機質に話す。学校の前の道を走る車の音が聞こえる。小さな自分の中の音じゃなく、広い世界の音を聞く。促された僕はゆっくり頭を下げ、強く目を閉じ気合を入れ直す。誠実に。ひたむきに。全力で。
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