第2章5話 忌み名の姫
レヴィアト村の洞窟が崩れてから三日目の朝、それ以来連絡が途絶えているルヴァを捜すため、ノワは剣狼の背に跨がり南東に向かっていた。
そこには洞窟の別の出口があり、もしかしたらその辺りにルヴァがいるかも知れない。
儚い希望ではあったが、館でただ待っているよりも、ノワの気性に合っている。
剣狼となったリィエは、痩せた身体に似合わず力強い走りを見せた。元々はルヴァのものになるはずだった彼女を、ウリエンが横取りした。
もしルヴァの元で正しい訓練を受けていれば、とても優秀な剣狼になったのではないかと、ノワは思う。
ウリエンがリィエを横取りしたと聞いたときの自分の醜い喜びを、ノワは今も忘れていない。自分は嫉妬に駆られていたのだ。リィエの幸せも、ルヴァの立場も考えず、ただルヴァが他の少女を抱くことに対して、盲目的に嫉妬し、リィエを襲ったトラブルを喜んだ。
そして、ノワはボロボロにされて涙を流すリィエを見たときの後悔もまた忘れてはいない。リィエの儚い恋や幸せがそのような形で壊れたことを、一度でも喜んだ自分を、今でも恥じている。
今回のルヴァ捜索任務は、ウリエンに飼い殺しにされていたリィエにとって、何かが変わるきっかけになるかも知れない。ノワはそう考え、リィエが如何に優秀な剣狼であるか、自分なりにミリアムに話せるように注意して見ながら騎乗している。
リィエは足の運びがスムーズで、あまり足音がしない。揺れも少なく、騎乗者を疲れさせない。剣狼騎に参加できなくとも、ルヴァの騎乗用に譲って貰うことは出来ないのだろうか。
あのウリエンが自ら手放すことはないにしても、ミリアムならば話が通じるかも知れない。
目指す南東の森は、オートン領境にあり、そこを過ぎればオランジュという中原南東部最大の都市がある。それは、
すぐにでもルヴァを捜したい気持ちはあるものの、まずはオランジュで宿を確保してからの捜索が無難だ。ノワは十五の娘とはいえ、前世の経験が慎重な行動を選ばせると自分でも思う。
まして、今はリィエも一緒に行動している。彼女にリスクを負わせたくない。
リィエは風を切って走る。
いくつかの村を過ぎ、左手に目的の森が見える平原を駆ける。
程なくして、運河の両脇に沢山の倉庫が並ぶ壁外の街並みが見えてくる。オランジュは、南方の大国ヴァル神聖帝国と東海諸国を繋ぐザルツ街道の宿場町として、また、プリュ湖とレヴィアト川を結ぶ水運の要として栄えている。子供の頃はマランやルヴァとよくお遣いに来た街だ。
その城壁を前にして、ノワは大地に降り立つ。
リィエは薄い光と共に人の姿になり、鞍やくつわだった革や布のボタンを締めて、軍用の人狼に特有の外套姿になる。
オートン家の符号を見せると、城門は難なく通過できた。
ノワは何度か泊まったことのある宿屋に向かう。
おっかなびっくり街の様子を眺めるリィエに、優しく声をかける。
「この街にはヴァル人が多いけど、ここにいる人は大抵リュミベート語を話せるから問題ないと思う」
「全く聴き取れないから心配でしたが、安心しました。少し、大柄な方が多いのでしょうか」
「うん。やや骨太で、大柄な傾向があるらしい。殆どリュミベート人と変わらないけど」
「違う国の人でも、平和に暮らしているんですね」
「うん。宗教も同じで、交易の利害も一致してるらしい。国同士が対立することは何度もあったらしいけど、大体は平和に暮らしてるみたい」
ヴァル神聖帝国とリュミベート皇国は同じソユル神聖教を信奉しており、魔境の人々の侵略から純人族を守り、逆に魔境にソユルの教えを広めることを国是とする点で似通っている。外交上、張り合ったり対立したりすることもあるが、概ね友好的な関係を保ち、互いに交易を通して利益を得ている。
「ノワ様は、ルヴァ様とよくこの街にお遣いにいらしてましたよね。私はこんな大きな街は初めてで、ドキドキしてしまいます」
緊張と好奇心に目を輝かせているリィエを見て、ノワは彼女と一緒にルヴァに仕え、色々な所を旅することが出来ればいいのにと思う。
「ウリエン様の飼い殺しから抜け出せたら、いいのにね」
リィエは、ハッとした顔をする。
「そんな。私なんて、ウリエン様に貰っていただけただけでも幸いですから……」
人狼は、自分の人生を自分で決めることは出来ない。
もちろん、ノワも生まれたときからルヴァに仕えることを決められていた。しかし、どうしても嫌なら、何もかも棄てて出奔する権利くらいはある。リィエには、それすら認められていない。
重い気持ちを振り切るように街を歩き、何度か泊まったことのある宿に部屋をとり、余分な荷物は部屋に置く。
暗くなるまで、まだ時間はあった。
ノワとリィエは、ルヴァの手掛かりを探しに森に向かった。
◆◇◆◇◆
森は子供の頃の冒険よりも、随分小さく思えた。洞窟の中はかなり手前まで崩落しており、ルヴァの手掛かりになるような物は見つからない。洞窟の入り口付近も充分調べたが、特に気になる物はない。ノワは諦めて、明日には洞窟の更に別の出口を捜すことに決めた。
「きっと、明日は手掛かりが見つかりますよ」
リィエは気遣うように言う。
「うん。ありがとう」
想像していたより早く暗くなったため、リィエを走らせるのは危険と判断して、歩いて森の出口に向かうことにした。宵の口の森で、冷たく湿った風が木立を揺らす。
「ノワ様。私、実は、ノワ様よりも先にルヴァ様のものになれると決まって、得意になっていたんです。ノワ様のお気持ちを、知ってましたから」
とても悲しそうな表情のリィエは、風で舞い上がりそうになる外套の裾を抑えながら、風に負けないはっきりした声音でそう言う。
「私、嫉妬した」
恥ずかしさに身を縮めながら、ノワは答える。
「私が煽りましたから。本当に、得意になっていたんです。だから、あれは罰が当たったんだと思っています。ノワ様のお気持ちを知っていて、わざわざそれを刺激しに行ったんですから、当然の罰が下ったんです」
「そんなこと……」
「いいえ、ノワ様。これは大切なことなんです。人狼族はリュミベートの女皇陛下とその民に忠誠を誓った立場。その私が、ノワ様よりも気持ちの上で先に立つことを望み、あのような振る舞いに及んだのですから、あれは受けるべき罰なのです」
「それは、悲しすぎる。ルヴァ様は、そんな悲しいことを、きっと許さない」
ノワは手を伸ばし、リィエに触れようとする。しかし、涙の輝きを散らしたリィエは走り出し、森の出口で剣狼の姿となってノワを待つ。
ノワはその背に跨がる。
心の中で、私はそんなあなたと共にルヴァ様に仕えたいと、そう願いを込めながら。
リィエが夜風を切って走り始める。
二つの月が明るく、宵の明星がよく輝く夜だ。ルヴァも今頃どこかでこの夜空を見ているのだろうか。
遠くに、早くも壁外の街並みが見え始める。
今、純人族はじわじわと人口増加が進んでいるらしい。
神聖獣騎軍遠征を通して、海西の魔族先進諸国から様々な技術や新種の作物を奪い取り、その農業革命によって、生産力が増し、人口が増える。
そのため、既存の都市では城壁内の地価が跳ね上がり、貧しい者は魔物に襲われるリスクを冒しても壁外で暮らさざるを得なくなってきている。
そんな壁外の街並みの中で、尋常ならざる素早さで動く黒い影を見つけ、ノワはリィエの脚を止めさせる。リィエは静かな殺気のぶつかり合いに怯えている様子だ。
「リィエ。この辺りで待ってて」
ノワはリィエの背から飛び降りると、出来るだけ気配を殺し、物陰から物陰へと移動する。
(移動している?)
黒い影は、人家の多い街並みから、運河沿いの倉庫街へと移動しながら戦っているように見えた。
見失いそうになり、新たな物陰へと一歩踏み出そうとした所で、ノワの足元に鋭い何かが突き立てられる。
(氷!? 氷の刃か)
自分を牽制するように飛んできた物体を確認する間に、数歩の間合いに人影が現れる。咄嗟に居合抜きの構えをするノワを、その人影は静かに眺めている様子だった。
「何か、ご用ですか?」
少年のような若さを感じさせる声の主は、全身を覆う黒い外套に、黒いシルクハットという姿。そして、何よりも不気味な、真っ黒で人の顔の凹凸だけが表現された仮面。月の明かりが強い夜でなければ、本当にそこにいるかどうか疑わしい程に静かで闇に馴染む気配の持ち主。
「娘、構うな。城内に逃げよ!」
どこからか聞こえる、別の声。こちらも、少年のような、気の強い少女のような声音だ。
「いやいや、この姿を見られては、そうは行きませんよ」
何故か嬉しそうな黒仮面の声。
ノワが危険を認識したときには、本能が反応して男の黒い刃を刀の柄で受け止めていた。
「ほう。大したものだ」
真っ黒な金属で出来た細身の剣を引いた男は、一言だけ感想を述べ、立て続けに鋭い斬撃を繰り出してくる。
ノワは刀を抜く余裕もないまま、鞘と柄でそれを躱し続ける。
速い。
一瞬でも気を抜けば、綻びが出る。
黒仮面の男が跳びはねる。背後からの狙い澄ました斬撃を躱したのだ。
長身痩躯の娘が、両手で構えたロングソードを振り下ろしていた。
頭上の黒仮面は、外套の中から左手を振る。
ノワと長身痩躯の娘が飛び退くと、無数の氷の刃が地面を貫く。
ノワは居合抜きで男の落下予想地点を狙う。ところが、男は足許に氷の塊を作り、それを蹴り飛ばして数歩遠くへ着地する。ノワと長身の娘の剣がぶつかり合い、火花を散らす。
「ふふ。これは楽しい」
黒仮面はノワに狙いを定め、漆黒の剣を振るう。
ノワは防戦一方になるが、長身の娘が横から黒仮面の隙を狙い攻撃をする。
しかし、黒仮面は鮮やかな動きでそれを躱し、更にノワへの攻勢を強める。
ノワの剣は、攻撃でこそ最大の力を発揮できる。相手に先手を取られたときの返しも訓練してはいるが、相手の力量が互角以上のときに責め立てられると全く反撃出来ない。
長身の娘の斬撃は、いい所を突いてはいるが、攻撃を特に洗練した剣術とは違うように見える。黒仮面はそれを分かってノワを攻めているのか。
二対一で何も出来ない局面など、前世も含めてこれまで経験したこともない。
しかし、苦しい局面をひたすら耐えていれば、急に光が差すこともある。もちろん、その逆も然りだが。
長身の娘が鋭い突きを繰り出したとき、僅かに黒仮面の重心が崩れた。
ノワの剣は、得意の上段にある。
「ちぇーーー!」
引いていた右足を素早く踏み出し、反撃に出る。
ズドッという鈍い音。
振り返ると、リィエがノワに覆い被さってくる。
「リィエ!?」
「伏兵がいましたか」
黒仮面の男は数歩先で残念そうに言う。
「伏兵の矢を伏兵で防がれるとは、不覚」
リィエの背中に、矢が深く突き刺さっている。じわりと滲み出す、大量の血液。
「貴様ぁ!」
長身の娘が怒りに震えた声を挙げる。濃い青色に波打つ髪が、怒気に揺れ、浮き上がり始める。
「いいですね、それです、忌み名の姫よ。憎むのです。私を、人を、命を、世界を憎むのです。貴女の憎しみは、これ以上ない程、美しいのですから!」
忌み名の、姫!?
ノワの思考は玩具箱をひっくり返したようになり、考えが纏まらない。
「いけません、コルナ殿下。やっと死に場所を得た哀れな人狼に免じて、その男をお赦し下さい」
リィエの穏やかな声に、長身の娘の怒気が引いていく。
「コルナ殿下、人はいずれ死にます。死に方が違うだけです。私は、良い死に場所を得ました。愛するお方の大切な人を、守れたのです。私はその男を憎みません。殿下もどうか、その男をお赦し下さい」
「おや、おや。これは、思わぬ強力な伏兵でした。仕方ない。それでは忌み名の姫君。ご機嫌よう」
黒仮面が闇に溶けるように消えていく。
忌み名の姫と呼ばれた長身の娘は、肩を落とし、剣を鞘に納める。
リィエの顔は月明かりでも分かるほど青ざめ、その身体が震え始める。ノワはもたれかかってくる重みを、ひたすら耐えることしか出来ない。
「急所だ。済まぬ。何もしてやれぬ」
「良いのです、殿下。畏れ多いことです」
コルナに手を添えられ、ノワは静かにリィエを座らせてやる。途方もなく悲しいはずなのに、涙も言葉も出ない。
「ノワ様、コルナ殿下は、呪いをお持ちです。怒り、人を憎むことで進む、死に至る病です。私はたまたま、つい先日に母からそのことを聴かされていました。きっとこれは、何かの導きでしょう。ノワ様、どうかコルナ殿下を、憎しみからお守り下さい。そして、ルヴァ様を、広い、世界へ……」
ゴボッと、リィエが血を吐く。リィエはしかし、力強くノワの手を握る。
「ルヴァ様を!?」
「はい……、ルヴァ様は、きっと、多くの迷える人々の希望になれる方。特別な目を持った……方。……ノワ様、貴女が……、ルヴァ様を広い世界へ、お導きになって……くだ……」
リィエの手が、力なく地に落ちる。
ガクリと天を仰いだリィエの見開いた目を、コルナが静かに撫でて、瞑らせてやる。
ノワの心の中で、ルヴァに次いで大きな部分を占めていた友人が、動かなくなる。彼女と、ルヴァと、三人で各地を旅する夢は、今、潰えた。
醜い嫉妬の罪滅ぼしも、もう出来ない。
どうして涙が出ないのか、自分で分からない。
その時、強く抱き寄せられた。
「済まぬ。私が巻き込んでしまったばかりに。済まぬ」
何故か、幼い日に亡くした母を思い出した。柔らかな胸に顔を埋めると、自然に涙が溢れ始めた。
「うわぁぁぁぁぁあん。あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ」
殿下と呼ばれた女性の温かな胸の中で、ノワは泣き続けた。
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