第2章3話 天狐族の生き残り

 ミアーナは獣人の多い街だ。そして、多くの他の地域の獣人がそうであるように、差別と貧困の連鎖に苦しんでいる人も多いようだった。


 スパーダさんに連れられて歩くミアーナの裏通りは、痩せ細ったストリートチルドレンや、赤子を抱いて娼婦をしている猫獣人、病と寒さのどちらで震えているのか分からない老犬人など、抜けられない貧しさの中でもがいている人々の街だ。


 魔導大学で僕の指導教授だった人は、魔法の研究だけでなく、いろいろな社会問題、特に民の貧困の問題に関心が強い人だった。その人が何度かミアーナの獣人達の貧困問題について教えてくれたことがあった。


 かつては前線を守る屯田兵として盛んに送り込まれた獣人達だが、せっかく耕した土地は一代しか私有を認められなかった。それに、飛龍騎諸部族との関係改善に伴う兵役解除による失業が重なった。

 弱みにつけこんだ純人族の商人や開墾者に良いように丸め込まれ、農奴になったり、家内奴隷にされたり、住んでいる家を借金のかたに取られたりするものも多かったらしい。運良く特別な才能を持った者以外は、大抵貧しさの中に沈んでいるのだという。


 よく整備された表通りとは全く異なる複雑怪奇な道を、スパーダさんは迷い無く進む。

 時々、エロ司教様と親しげに声をかけられ、それに笑顔で返してもいる。

 神官のイメージには全くそぐわないが、スパーダさんが貧民街の人々に信頼されていることや、この街の様子を子細に知っていることはよく分かった。


 僕と凪はナーシャと出会ってからの経緯をスパーダさんに話し、彼はそれに対してなるほど、と返す。

 やがて、三階以上が崩れて無くなっている集合住宅のような建物の前で、スパーダさんは足を止める。


「おや、エロ司教様。ようやくナーシャを貰って下さるんで?」

 入り口の階段に腰掛けていた、長い耳が折れて垂れ下がっている兎人の老婆が、スパーダさんを見上げてそう言った。

「残念だが、あれは修道女のタマだ。俺の愛人にはもったいなさ過ぎるよ。おい、ナーシャ、出て来い」


 建物の中は暗く、隙間風が吹いているのか、ヒューヒュー音がしている。

「お前、俺のダチと知ってて、よく手ぇ出したな。すぐバレるのは分かるだろうが」

「だって、そいつら私の商売の邪魔するし。あと、ずっと頼まれてた変な形の剣を持ってたし」

「商売って、俺の名前を出しといてから役人にエロいことさせて揺するんだろ? 迷惑だからやめてくれ」

「うるさい! あんたが私を女として扱わないから、せっかくのものがもったいないから有効に使ってんだよ」


「ごめん、話の途中に悪いけど、君が盗んだ剣は、僕の大事な人からの贈り物なんだ。返してくれないか」

「貴族のボンボンならまた貰えるでしょ。私の知り合いの子は、何年間も待ち続けたんだから」

 日本刀を何年間も待ち続けた? 僕と同じ、日本の記憶を持つ人間だろうか。


「あれは僕の大切な人から祈りを込めて貰ったもので、特別なんだ。でも、あの種類の剣自体はまた手に入れられるかも知れない。その知り合いの、力になれるかも知れない」

「知らないよ。もう代金貰って渡しちゃったし」


 スパーダさんが突然階段を上がると、二階の部屋の扉を蹴破った。

「何すんのよ!」

「お前が盗みなんかすんじゃねぇ」

 暫く揉み合うような声が聞こえたが、すぐに皮袋を持ったスパーダさんが降りてくる。

「スパーダの馬鹿ー。誰が修道女なんかになるもんか!」

 二階から顔だけ出したナーシャが叫んでいる。


 スパーダさんはそれを無視して歩き始める。僕と凪は、黙ってそれについて行く。

「あれでも、ちょっと前までは素直なガキだったんだけどな。俺があの街から出してやるって言ったとき、変な勘違いしてたみたいで、修道会に預けた途端にグレちまった。神聖魔法の素質がかなりあるから、ちゃんと勉強すりゃ、修道女として食うに困らねぇと思うんだが」


「あなたが愛人にして魔法を教えればいいんです」

 凪が急にとんでもないことを言う。

「修道女でなくとも、神聖魔法を使って冒険者や医者として生きられるはず。あなた、恐らく商売女しか口説けない腑抜けですね。本気で人を愛することを恐れてる」


 スパーダさんが立ち止まって凪を睨む。凪に普通の攻撃が通用するとは思えないが、やはり間に挟まれる立場としては気まずい。

「姉ちゃん、いい目持ってんな」

 スパーダさんは小声でそう言うと、またスタスタ歩き始める。


「その、日本刀? 欲しがってた奴に心あたりがある。俺の身内みたいなもんがかけた迷惑だから、俺が落とし前つけるわ」

「落とし前とか、ギャングのセリフですね」

「凪! 口が過ぎる!」

「いや、いい目してるよ、その姉ちゃん。俺は教会に攫われる前は義侠の兄貴んとこにいたんだ。まぁ、世間的にはギャングだ。姉ちゃんの言う通り」


 ソレイユの騎士修道院で無双を誇った光騎士だったとは聞いていたが、そんな過去があったとは。それにしても、やくざの子が教会に攫われるとか、どんな状況なのだろう。


「やれ神の正義だ、神の慈悲だ、教会の奴の言うことは全部嘘っぽくてよ。目ぇ瞑って心を静かにして、正しいと思うかどうか、それ以外に何も信じないできた。

 だから、こんな辺境の教会で獣人の面倒見がてら、反乱を起こさせないようにする、そんな役目を押し付けられた。やっぱり、腕っ節が強い奴でないと獣人には尊敬されないからな。

 でもまぁ、俺なんかにはちょうど良い居場所なのかも知れない」


 どこをどう歩いたのか、街中で見たうちでは一番大きな用水路の流れが見えた。家々の窓から僅かに漏れる小さな灯りが、水面に揺れている。

 そして、夜の闇に馴染む優しい音色。

「笛?」


 その高く優しい音色は、日本では音楽の授業などで聞き覚えがあった。

「恐らく、植物の茎で作った横笛の一種かと」

 凪も僕の考えと同じことを述べる。


「かつては大陸東方に敵無しと言われた天狐てんこ族最後の生き残りだ。捻くれた性格の癖に、笛の音色は澄み切ってやがる。ちょっと荒事になるだろうから、この辺で待っててくれ」


 天狐族。黄金色に輝く美しい被毛で知られる、美しさと強さを兼ね備えた狐獣人の一族。リュミベート皇国建国当初は、対等な同盟者として東方の安寧を担っていたという。しかし、その誇り高さ故に、常に最前線で戦うこと、種族の純血を守ることに拘り続け、流行病の蔓延と共に一気に数を減らし、衰退したと聞いたことがある。


 用水路にかかる橋の欄干に、小さな人影が腰掛けている。暗がりの中でも、その金色の髪の毛は光を放つように美しく、繊細な指の動きが織りなす笛の音に合わせ、微かに揺れている。


 そこに長身痩躯の人影が近づいていくと、笛の音が止み、まだあどけなさの残る高い声が、咎めるような鋭さを孕んで男に向けられる。

「ソユルの僧兵か。私になんの用だ」

「俺のダチが売った、その剣を返してくれ。金はここにある」

「何年も探し続けた物だ。金だけ返されて、はいそうですかと手放せるものじゃない」

「じゃあ、しょうがねぇ。力尽くで取り戻すまでだ」


 スパーダさんの抜きがけの一閃は、あまりに早くて僕の目には見えなかった。そして、それを躱してスパーダさんの細身の剣の上に立つ天狐族の子供の動きも、僕の目で追い切れなかった。

「手加減したな? 嘗められたものだ」


 天狐族の子供はスパーダさんの剣の上で身を屈めると同時に、僕の日本刀の柄に右手をやる。日本刀の刃先の輝きが僕の目に入ったとき、スパーダさんは先ほどより三歩分程後ろに下がって、だらんと剣を下ろしていた。


 その後は、数合、恐らく互角の剣戟があったようで、互いの得物がぶつかるときの火花だけが僕の網膜に残る。

 天狐族の子供は欄干の上で日本刀を正眼に構え、スパーダさんは変わらず剣をだらりと下ろしている。

 また数合、火花だけが見えて、音が止んだときには、スパーダさんの後ろに天狐族の子供が立っていた。


「後ろ、貰った。私の勝ちだな」

 スパーダさんが負けた? 僕は慌てて走り出す。これ以上拗れてスパーダさんが怪我をするのはいけない。ノワには悪いが、人の命を犠牲にしてまで刀一本に拘るわけにはいかない。

「おお。後ろ取られた。お前の育ち具合見たかったのにな」


 スパーダさんがそう言い終わるかどうかのタイミングで、天狐族の子供――少女だったーーの着ていたローブやその下の服が切れ切れになり、真っ白な身体が月夜に晒された。

 少女は慌てて、まだそれ程大きくはない胸を隠しつつ、その場に蹲る。


「な、この、エロ司教!」

「とうとう俺をこの街の司教と認めたか」

「そういう意味じゃない! 最低男!!」

 僕は一瞬、近づくべきかどうか躊躇うが、急いで自分のローブを脱いで少女の身体にかけて、目を反らす。


「その日本刀は、僕の妹みたいな立場の子が、僕の無事を祈ってくれたものなんだ。だから、それはどうしても返して欲しいんだけど、日本刀を打てる鍛冶師を紹介することは出来るよ」


 僕のローブを羽織った少女は、目を反らした僕の顔を覗き込んでくる。

「その、出来るだけ見ないようにとか、気をつけたから」

 少女の緑色の瞳がじっと僕を見ている。先端だけ白くて後は金色の三角形の大きな耳も、真っ直ぐこちらに向けられ、小さな形の良い鼻がクンクンと動いている。


 いや、その、タイミングの問題で、育ちかけの胸とかは見ちゃったけどさ。

「提督。その恥じらいようは、あなたがロリコン故なのですか?」

 なんなの、凪!? 何そのいらない絡み。変な疑い持たれるでしょうが!

「やっぱり」


 少女の目が大きく見開かれる。

 違う、違うんですって! お巡りさん助けてください、って、僕が逮捕されるじゃないか。


「お兄ちゃんっ!!!」

 その瞬間に僕の目に入ってきたものは、金髪少女の輝く緑の瞳と、大きく開かれた二本の腕と、育ちかけの胸と、その他諸々の真っ白な身体と、夜空に舞い上がった僕のローブと、人外のケダモノを見る目つきの凪の顔だった。


 ◆◇◆◇◆


「つまり、天狐族の純血を守るために結ばれる予定だった実のお兄さんが、僕にそっくりだったんだね」

「そっくりというか、匂いまで全く一緒だよ〜、お兄ちゃ〜ん」

 レナ=ルニエと名乗った天狐族の少女は、サラサラのストレートの金髪と三角耳を僕の顔にグリグリ押し付け、僕の腕を強引にローブ越しの小ぶりな胸や、ローブの隙間から覗く細いけれど柔らかい太股に導きながらそう応じた。


 僕達はスパーダさんに連れられ、ちょっと大人の雰囲気の酒場にいた。

 本来はテーブル毎に着飾った獣人のお姉さんがお酌をしてくれる、日本で言えばキャバクラのようなお店らしいのだが、常連のスパーダさんの頼みで僕達のテーブルだけはお姉さんが付いていない。


 テーブル間には充分な厚さの仕切りがあり、半個室になって他のテーブルから見えないようになっているため、確かに都合がいい。

 しかし、レナは本人自称の十四歳より更に少し若く見えるため、キャバ嬢風の獣人娘が僕達のテーブルの前を通り過ぎる度、僕に対して冷ややかな視線が向けられるのだ。


「しかし、提督はどうみても天狐族の獣人ではありません。あなたがなぜそこまで提督に馴れ馴れしく接するのか、合理的な理由を述べて下さい」

 意外なことに、凪は平気で酒に手を伸ばし、それも結構なペースでお代わりをし、更にはちょっと酔って不機嫌になりつつある。

 僕はサーク特産のアルコール度数が低めのビールをお付き合いで飲み、レナは身体も小柄で、十五歳未満なので、柑橘系のジュースにしている。

 スパーダさんは、ウイスキー風の蒸留酒をストレートでちびちび啜っており、もっと豪快なイメージを持っていた僕からすると、意外に大人の飲み方だった。


「だって、お兄ちゃんは死んでも必ず帰るって言ってたし、生まれ変わったとしても、お兄ちゃんはお兄ちゃんだもん!」

「あなたのお兄さんが死んだ五年前に、既に提督は十四歳です。もう生まれていたのですから、生まれ変わりということもあり得ません。仮にもし生まれ変わりだとしても、天狐族でないならあなたとつがいになって子供を作る理由はないじゃありませんか! いいから提督から離れなさい、ビッチ狐!」


 凪がテーブル越しにレナにちょっかいを出そうとする。

 レナは涙目になり、更に意固地になって僕にしがみつく。凪と揉み合って身体が揺れる度に、張りのある小さめの胸がムニムニと僕の二の腕に当たり、僕は気が気でない。

「お兄ちゃんは、お兄ちゃんなの! 分からず屋の幽霊女!」


 レナが半泣きになって抵抗している。幽霊女、というのは、凪の本質の気配を察しているからか。

「凪、こんな幼い子が何年も独りぼっちでたったひとりの肉親を待ち続けていたんだ。そんなにムキになって否定しなくても、本当のお兄さんを捜しながらじっくり現実を受け入れていけばいいんじゃないかな」


「なら、なんで、そこまで女を武器にする必要があるんですか!? 提督も、提督です! なんですか、その身体反応は? このロリコン野郎!」

 くっ、凪には気づかれる可能性があると思って必死に抑えていたのに、暴れて胸ムニムニが活発になったせいで、僕の僕が活発になりかけてしまっている。たとえ小さくともこんなに活発に胸ムニムニされてるんだから、活発になってしまったとしても、ロリコン呼ばわりは酷すぎる!


「本当だー! お兄ちゃんちゃんと反応してるっ!!」

 一瞬の隙をついて、レナが僕の股間を鷲掴みしている。

「こら、女の子がはしたない! スパーダさん、なんとか言って下さい」


「おお。ロリコン!」

 終わった。

 痴女な幼女と、非情なロリコン判定員二名によって、僕はロリコン認定されました。

 執拗に僕の股間を弄るレナをなんとか引き離し、僕はトイレに逃げ込む。

 レナと離れて深呼吸すると、僕の僕はちゃんと冷静になった。僕は決してロリコンではないと、自分で納得する。

 入れ違いにトイレに来たスパーダさんが、楽しそうに僕を見ている。

「あの狐娘がなんでお前に懐いたのか分からねぇけど、今まで誰にも甘えて来なかったガキなんだ。教会の炊き出しにも頼らず、獣人達の自助組織にも入ってない。それがあんなにお前に執心してやがる。迷惑かも知れねぇけど、ちょっと面倒見てやれないか」


 それについては、もともと日本刀を作れるババルさんを紹介するつもりでいるので、彼女がよければオートン領まで同行してもいいと思っている。

「日本刀を返してくれたときの約束で、鍛冶師に引き合わせることにしてあるので、それは構いませんけど、僕はロリコンではありません」

「そうか。あの様子ならやり放題だろうに、もったいないな」

 スパーダさんはニヤニヤとからかうような視線を送ってくる。


「本当に勘弁して下さい。ところで、少し僕達だけで話したいんですが……」

「長い夢の話か? あの不思議な形の剣もその絡みか。いいぜ」

「ありがとうございます」

 僕は席に戻り、凪を交えて、レナと日本の話をしてみるつもりだ。

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