第1章6話 ノワの願い

 ノワには、生まれる前の長い夢の記憶があった。

 それは、あまりに遠く、幻のような、他人事なのではないかと感じるような壮絶で長い夢だったので、その主人公と自分が同一人物であるという感覚を、ノワは持てなかった。


 しかしノワは、自分の意思で自由に歩いたり走ったり出来るようになった頃には、自分がなぜ、あれ程波乱に満ちた夢の記憶を持って生まれてきたのか自覚することが出来た。

 彼女は、自分の主君になることが決まっている四歳年上の、いつも穏やかで、誰にでも分け隔てなく優しい男の子に、強い好意を抱いていた。

 虫を殺すのも躊躇うようなその少年を守るため、彼の真っ直ぐな優しさを穢さずに通すため、自分は血の雨を潜る殺伐とした人生の記憶を持ち合わせて生まれたのだと、実に容易に確信できたのだ。


 彼女は、彼を守るためにまず、夢の中の人物と同じ強さを手に入れたいと願い、この世界の剣術とは相容れない独自の修行を始めた。病床の父がそれを見て悲しそうな顔をするのは辛かったが、父や祖父を師として学んでも、前世の自分の足元にも及ばないだろうことは目に見えていたから、迷いはなかった。


 ノワの主君になる少年は、いつも感心したように、彼女の修行を見守ってくれた。ノワが変わった修行をすることで、彼自身の弱い立場が更に弱くなりかねないというのに、全く、何の迷いもなくノワを肯定して応援してくれた。だから、ノワは必ず強くなり、何があっても彼を守れるようになりたいと思えた。


 ノワは、将来の従者として、主君になる少年を慕っている自覚があったが、少年が十五歳になり所謂元服の儀を済ませた後、自分の違う感情に気づくきっかけがあった。

 なんのことはない、親しくしていた剣狼人の少女リィエが、少年の騎乗獣になると決まったからだ。


 八狼騎の伝統で、騎乗獣は必ず雌、それも人の姿で騎乗者に処女を捧げた雌でなければならないと決まっている。そうでないと、咄嗟の場面で、命令違反が出たり、騎乗者を身を挺して守れないことがあるからだという。その真偽は兎も角として、それが伝統である以上、条件を満たさなければリュミベート皇国八狼騎に参加できない。


 その話が家中で知れ渡った頃、リィエは、頬を赤らめながら、嬉しさと申し訳なさを混ぜ合わせた表情でノワに会いに来た。

「ノワ様、先にルヴァ様のご寵愛をいただくことになりました。伝統というものが、ありますので。でも、ノワ様のお気持ちは知っているつもりです。順番はさておき、私はノワ様に何一つ敵わないと身の程を弁えているつもりです。ですから、これからもどうか、よろしくお願いします」


 頭では分かっていることだったが、いざ目の前にその剣狼人の少女が立ったとき、ノワは自分が置いて行かれるような感情に捕らえられた。自分とひとつしか歳の違わない十二歳の少女が、ルヴァの寵愛を受ける、ということの意味が頭の中を跳ね回り、他に何も考えられなくなった。


 リィエがルヴァの寝所を訪ねることになっていた夜は、何故か溢れてくる涙に戸惑った。そして、次の朝にルヴァがリィエに何もしなかったという家中の噂を聞くと、気持ちが軽くなった。更に、次の日にはリィエがウリエンの担当に変えられたと知ったときには、喜びさえ感じた。


 その朝、どうしてもルヴァの顔を見たくなり館中を探し回っていたとき、毛布にくるまり、顔中痣だらけで怯え、震え、泣きじゃくっているリィエを見て、ノワはつい先程まで自分を昂ぶらせていた喜びの正体を自覚する。

 館を飛び出し、何処までも走り、走る内に涙を流し、村から随分離れたところまで走ったところで足がもつれて転んだ。


 ノワは、自分が醜い心を持っていると知った。

 そして、自分が女としてルヴァに仕えたいことも。


 その気持ちに気づき、その日以降、ルヴァとの接し方に迷いが出た。

 ルヴァは変わらずノワ独自の剣術修行をよく見学に来たし、気さくに話しかけもしてくれた。しかしノワは、それにどう答えてよいか分からず、曖昧な返事ばかり繰り返す。

 そんな自分が嫌で、苦しくなる日もあったが、程なく、彼は魔導大学に遊学するべく皇都に旅立った。


 ◆◇◆◇◆


 黄妖鬼こうようきの襲撃から三日目、オートン家当主ミリアムが帰還した日の昼過ぎ、ノワはこの世界で初めての地震を経験した。生まれる前の記憶では、桜島の様子によって地が揺れることをそれなりに経験していたが、この世界の地面が動くとは夢にも思わないで過ごしてきた。

 揺れ自体は、それ程大きいものではなかったが、オートン当主ミリアム、家宰、ルヴァの三名とババルのいるはずの洞窟で岩が崩れる音が聞こえたので、全身から嫌な汗が噴き出してきた。


 ノワは洪水の土砂の片付けを中断し、洞窟に急ぐ。そのノワの様子をみて、館の周囲にいた家臣や、領民達が、なんだろうと洞窟に向かいだす。

 途中、ミリアムの無事を確認するババルの大きな声が聞こえる。それに答える誰かの声も聞こえたように思えた。


 洞窟の入り口は、以前と変わらず大きく開いたまま。奥に走って行くと、非常倉庫の扉が開いている。中では、ババルと家宰が何やら話し合っている。

「一体、何があったのですか!?」

 ノワの声に、二人が驚き、目を見合わせる。

 すると、子供の頃にルヴァに連れられ通ったことのある隠し扉から、ミリアムの姿が現れた。

「ノワか。一大事だ。ルヴァが奥の隠し通路に入っている時に、洞窟の奥が崩れたようなのだ」


 ノワは全身から血の気が引く。ミリアムに一礼だけして隠し扉に入り、小岩の奥の隠し通路をのぞく。中は真っ暗で何も見えないが、時折、岩や小石が転がる音が聞こえてくる。

「どなたか、灯りをお持ちでは?」

 ババルが光の魔法石と思しき物を取り出す。

「だけど、嬢ちゃん、危ね……」

 ノワは奪うように石を受け取ると、迷いなく隠し通路に入っていく。

「だから、嬢ちゃんだって危ねえって!」


 隠し通路を少し進むと、洞窟の天井が崩落しており、先に進むことが出来ない。

「ルヴァ様ー!」

 僅かな岩の隙間に向けて、声の限りに叫ぶ。

 無事でいて欲しい。

 何度も何度も呼びかける。

 折角、四年ぶりに傍にいられるようになったのに。

 絶対に離れたくない。


「ノワか〜?」

 ルヴァ様の声だ! そう思うと、ノワは全身に力が漲った。

「ルヴァ様、ご無事ですか? 今そこに行きます」

 ノワは光の魔法石で崩れた岩の隙間を探す。それ程大きくない自分なら、通れる隙間があるのではないか。

「来るな! 危険だ!!」


 ルヴァの叱責するような声。声に張りがあるものの、心配させまいと気を張っている可能性もある。まずは、侵入ルートを探し出さないといけない。ルヴァ本人がなんと言おうと、必ずそばに行く。もう、離れたくない。

「いいえ。必ず助けます!」


 しかし、すぐにルヴァの声が返ってくる。

「僕なら無事だ。明朝には帰れる。危険だから、絶対に来るな。洞窟の外まで引き返せ」

「嫌です」

 ルヴァと離れていた四年間が、ノワの迷いを消していた。自分は必ずルヴァに仕え続ける。傍に居続ける。適うならば、側室でも妾でも構わないから女としても仕えたい。絶対に離れたくない。もう二度と離れない。


 しかし、ノワの強い思いにぶつけるように、ルヴァの声が響く。

「言うことを聞け! 君がそこにいると、寧ろ僕の行動が制限されるんだ。洞窟から全ての人を避難させて、僕の帰りを待ってくれ」

 ルヴァの言っていることは分かった。分かったが、納得は出来なかった。感情がそれを拒否して、ノワの二つの目から涙が溢れ出す。

 また、離れ離れになってしまう。そんな予感がノワを支配する。


「頼む。僕は安全に脱出出来る。ただしそれには、恐らくまた崩落が伴う。だから、みんなを避難させて、村で待っていてくれ」

 ルヴァなら、偉大な魔導師になった自分の主なら、この岩の向こうから脱出出来るかも知れない。理性はそう言うが、感情がそれを拒否する。

「……もう離れたくないです」


 駄々っ子みたいだ。自分でも情けない。それでも、今ここでルヴァと離れたら、二度と会えないような気がして、どうしても納得出来ない。

「僕を信じて。頼む」

 ルヴァの優しい顔が心に描かれる。愛しい主。


 足手纏いになりたくない、その思いが生まれると、理性が力を盛り返す。

「……約束、して下さい」

 祈るような声。主に対する言葉ではない。

 甘えている。でも、縋りたい。


「約束する。必ず帰る。だから、すぐにそこから避難してくれ」

「……はい」

 堰を切ったように涙が溢れてくる。

 力なく蹲り、しかし、主の足手纏いになりたくない一心で這うように洞窟の出口に向かう。


「ノワか? ルヴァ様は? ルヴァ様はどうなった?」

 ミリアムの従者の一人が隠し通路に入ってきたようだった。

 ノワは涙を拭き、気丈に声を上げる。

「はい。岩で塞がれていますがご無事です。脱出するのに、また洞窟を崩すかも知れないから避難してくれと」

「そうか。しかし、お前、大丈夫か?」

「大丈夫です」

 ノワは気力を振り絞り、二つの足でしっかり立つ。


 自分が動揺したままでは、ルヴァに頼まれた洞窟からの人払いに支障を来すかも知れない。

 ミリアムの従者と隠し通路の入口まで戻り、狭い出入り口を通る。


 それなりの数の人間が様子を見たり、金庫から品物を移す作業を行っていたが、ノワは彼等に避難を促す。ルヴァの脱出手段が何かは分からないが、万が一にもそれに巻き込まれて死者や怪我人が出れば、心優しい主は深く傷つくことだろう。それを避けるのが、従者としての自分が今出来ることだ。


「ルヴァ様が外に出るために、洞窟がまた崩れるそうです。一刻も早く、避難を!」

 オートンの家臣達が、その場にある物だけ手に取り、避難を始める。ノワも、非常倉庫まで戻った後、当面は領民達のために必要になるだろう食糧の箱をひとつ持ち、洞窟の外へ向かう。


 つい一昨日、ルヴァと領民達が親しく語り合っていた洞窟を歩く。あれ程、領民に愛され、領民を想っていた主が、何も言わずこの村を去ることなどあり得ない。そう思いながら、出遅れている者に声をかけながら出口に向かう。


 そのとき、魂を刺すおぞましい殺気のようなものが、背中からノワを貫いた。

 ノワは怖気を感じつつ、自分が歩いてきた洞窟の奥を見やる。

 これまでに感じたことのない、自身の存在そのものにぶつけられた敵対的な「気」のようなもの。


 背後では、武の心得がある者達が色めきだっている。

 やはり、戻るべきか。

 しかし、主は、ルヴァは、必ず戻ると約束してくれた。

 そして、自分が洞窟から抜け出すために皆を避難させて欲しいと言っていたのだ。

 ノワは洞窟の入口に向かい、声を上げる。

「皆さん、ルヴァ様は大丈夫です。あるいは、今のはルヴァ様の魔法に伴う何かかも知れません。避難を急いで下さい!」


 今の恐ろしい気配は、ルヴァの魔法によるもの。何の根拠もなかったが、皆を落ち着かせ、自分を無理矢理納得させるには、そう説明するしかなかった。

 避難し遅れた者がいないか確認しながら、洞窟の外へ向かう。

 ノワは表情に出すまいと必死に隠していたが、泣き叫びたい程ルヴァのことが心配でならなかった。


 ◆◇◆◇◆


 ルヴァが戻ると言っていた翌朝、結局彼は戻らなかった。

 その日の昼が過ぎ、暗い夜が訪れ、次の朝が来ても、ルヴァは帰らなかった。


 オートン家では、出来る限り家中の者が揃って食事をするようにしている。ルヴァの消息が分からなくなって以来、ノワが何も口にしていないことは、家中の者全てが知っていた。


 家の者のほとんどが暗く沈んだ朝食の席で、ウリエンがノワの前に立った。

「なに、もしルヴァが帰らなかったら、俺がお前を側室に貰ってやるよ。男を生んだら、エペー家の家督を継がせても構わないぞ。だから、そんなに心配するな」

 冗談のつもりか明るい声でいうウリエンを、多くの者が白けた目で見ていた。

「なんだよ、ちょっと励まそうとしただけだろ。睨むなよ」


「ノワ」

 重く低い呼び声はオートン家の当主、ミリアムのものだった。

「はい」

 ノワは素早く立ち上がり、ミリアムの傍に向かう。


「洞窟の別の出口があるとか、ルヴァが言っておったのだが、残念ながら儂は知らん。お前は、幼い頃よくルヴァと遊んでいたから知っているだろう」

「はい、お館様」

「すまんが、他の出口の辺りを探して見てくれないか」

「は、はい! 是非、行かせて下さい!!」

「では、まずは腹拵えをしておけ」

「畏まりました!」

 ノワは素早く席に戻り、力強く食事を始める。


「ウリエン」

 ミリアムの声に、驚いたようにウリエンが顔を向ける。

「はあ、なんでしょうか」

「お前の予備の剣狼、リィエといったか。お前、ろくに訓練も遠乗りもしてないだろう。身体がなまっているだろうから、ノワに貸してやれ」

「父上、由緒ある剣狼騎の騎乗獣を他人に貸すなど。変な癖でもつけられたら困ります。馬で充分ではありませんか」


「馬なら飼い葉や置き場所を確保する手間がある。剣狼ならば人と同じ物を食えばよいし、同じ宿に泊まれる。何かあれば共に戦うことも出来る」

「その辺の賊相手なら、ノワ一人で充分でしょう。わざわざ剣狼を出す程のことではありません」


 当主に異議を唱えるウリエンに対して、場の空気がより冷めていく。隣に座っていた長兄のマルタンが、たまらず口を開く。

「父上がそう仰るのだ。黙って従え」

 ウリエンは兄にまでそう言われ、不満そうに視線を落とす。

「……分かりました。どうせ、使い物にならないような駄狼ですから」


「ウリエン様、ありがとうございます」

 ノワは立ち上がり、礼を述べる。

 もし、リィエが駄狼だとしたら、充分な食事も、訓練の機会も与えていないウリエンの責任だ。そんな自覚もない男に無理矢理処女を奪われ、従わされてきたリィエの気持ちを考えると、胸が苦しくなる。


 また席に着いたノワは、目の前の食事を噛みしめながら、洞窟の出口のうち、まずは一番近くにある南東の森へ向かおうと考えていた。

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