第3話

 石の塔の最上階にある小さな部屋。領民たちから塔の魔女と呼ばれたかつての少女、ヴァルナの姿がそこにあった。と言ってもこの塔には、部屋も階層もそれ一つしか存在しないのだが。


 ランプの明かりが煌々と照らす中、彼女はテーブルに座って古めかしい本を静かにめくる。この部屋にある二十数冊の本、それを読むこと。ただそれだけが、彼女に許された唯一の娯楽だった。


 今読んでいる本とて、完読した回数は二桁では足りないだろう。けれども彼女はページをめくる。楽しいからではない、単にそれしかできないから。


 今日も昨日も一昨日も、明日も明後日も明々後日もずっと一緒、何も変わらない日々がずっと続いていく。そう思っていた。そう諦めていた。だがその日は違っていた。


 窓から風の塊が入ってきた。読書で窓の外から飛来したそれに全く気付かなかったヴァルナの、それが第一印象である。


 見るとそこには、全身を漆黒の色に染め上げた、一羽のカラスの姿があった。不思議なことにそのカラスは、どこかにぶつかるでも逃げるでもなく、ただ行儀よくテーブルにとまり、真っ直ぐにヴァルナを見据えていた。その姿はまるで、お前に会いに来たのだと語っているように見える。


 恐る恐る、ヴァルナはカラスに手を伸ばしてみる。その時、



『塔の魔女、と、お見受けするが相違ないだろうか?』



 くちばしを動かし、カラスは確かにそう言った。



「あなた……喋れるの?」


『これは我の使い魔のような物だ。我の言葉を仲介しているだけでこいつ自身が喋っている訳ではない』


「そうでしたか、それは失礼しました。それと先ほどの質問の答えですが、私自身、私がどのように呼ばれているのかは存じ上げません。ただ、幼い時からこの塔に住んでいる故、そのように呼ばれている可能性は高いかと」


『ふむ……』



 まあ当然と言えば当然か。ずっと塔に閉じ込められ、他者との接触も必要最低限しか許されなかったヴァルナは、自分がどのように呼ばれていたのかなど知る術がなかったのである。



『妙なことを聞いてしまったな、確かにその通りだ。では端的に問おう。魔女よ、君はここから出たくはないか? 我は君を開放する用意がある』


「ここから……出してくれるのですか?」



 正味、カラスが語りかけてきたその瞬間から、そうなればいいと思っていた事は否定できない。ヴァルナにとってカラスが人語を話すなんて言うのはそれほど非日常的であり、その非日常に、塔からの脱出という願いを抱いたのも無理からぬことである。



『ただし、無償という訳にはいかない。我の眷属となり我に仕えること。それが条件だ』


「分かりました」


『……えっ?』



 あまりの即答に、カラスの方が驚いてしまったようだ。



『……そんなにすぐに決めてしまっていいのか? 使い魔に眷属、我が普通の人間でないことは察しがついているだろう』


「もちろんです。ですが貴方こそお忘れですか? 私はこれまで何の罪も犯していないにも関わらず、ずっとこの塔に閉じ込められていたのです。直接閉じ込めたのは領主様だったのかもしれません。ですが今日に至るまで、結局町の人は誰一人として私を助けようとはしてくれなかった。ですから私は誓ったのです。もし将来私を解き放ってくれる者が現れたのなら、私はその人のために何でもすると。たとえその人が私を使い捨ての駒程度にしか思っていなくても構わない。それが助けられる側としての私の覚悟です」


『……そうか、では契約成立だな』



 ヴァルナの言葉に対して、カラスは何も触れなかった。あえて何も触れなかったのか、あるいは触れることができなかったのかは、その時のヴァルナには分からなかった。



「それで、一体どうやって助けるつもりなんですか?」


『そうだな……そこにある窓から身を乗り出すことは可能か?』


「いえ、高い位置にあってとても……」


『そうか、ならばその下に穴をあける故、テーブルを盾にして下がっていなさい』


「ええっ!?」



 盾が必要な時点で物騒な事になりそうなのは想像に難くない。ヴァルナがテーブルの脚を掴むと、テーブルに乗っていたカラスも合わせてテーブルから跳び下りた。



『準備はいいようだな。ではいくぞ』


「はい」



 そして次の瞬間、爆発系の魔術か何かなのだろう。壁の一部が吹っ飛ぶ程の爆音を、ヴァルナは抑えた耳の上からでもはっきりと聞いた。



『もういいぞ、吹っ飛んだ壁から下に飛び降りなさい』


「えっ、ですが……」


『怖いのは分かるが我が必ず受け止める故、心配するな』



 ぽっかりと空いた壁の穴。そこから見下ろす大地の上に、ランタンを揺らして合図を送る一人の青年の姿があった。


 考えるまでもない、彼こそかカラスの主、いや、声の主なのだろう。


 だがそれでも怖いものは怖い。青年を信じたいが、ヴァルナが今ここにこうしているのは、信じたものに裏切られた結果なのだ。


 また例え青年にその気はなくとも、一歩間違えば確実に死ぬ。



(死ぬ……?)



 そこでヴァルナははたと考えた。それの一体何が問題なのかと。


 生きているのか死んでいるのか分からないような半生を送ってきた。仮にここで死んだところで、それが何だというのかと。


 そう考えたとたん、不思議と恐怖心はなくなった。いや正確には、生き伸びるという事に対する執着がなくなったのだ。


 それからのヴァルナの行動は早かった。 この十年間ろくに走った事はなかったが、それでも限界まで助走をつけ、未だ煙の残る魔女の間にぽっかりと空いた壁の穴めがけて。


 まるで過去の自分と決別するかのように、彼女は虚空へと身を投げ出した。





「気分はどうだ?」


「……何だか、自分の体が自分の体ではないような不思議な感覚です」



 翌朝、ゼアルとヴァルナはクトリガルの宿で目を覚ました。


 眷属の儀。昨夜ゼアルは、ヴァルナを自身の眷属とする儀式を行った。と言っても、その内容は単にゼアルの血液をヴァルナに飲ませただけなのだが。



「そうか。慣れるまで違和感はあるだろうが、直慣れる。眷属となったことで君の能力は全体的に強化されているだろう」


「はい、ですがよかったのですか?」


「何の事だ?」


「私が脱走した事に気付かれるまで半日とかからないでしょう。そうなれば当然追手がかけられるはずです。そうなる前に少しでも遠くへ逃げておくべきだったのでは?」



 だがゼアルは特に気にした様子もなく、



「その足ではどの道遠くへは行けまい。第一、追手をかけられても今の君であれば外見を誤魔化すのは容易い」


「そうなのですか?」


「うむ、それになヴァルナ、我は案外、追手はかからないんじゃないかと思っている。十年もの間殺すでもなく長々と幽閉し続けたのだ。むしろ厄介払いができてよかったと思っているかもしれん」


「…………」


「まああくまで予想だがな。町を出るまでに体を慣らしておけ。まさか町中に君の顔を知るものはいまい。それと、少ないがお金も渡しておこう。それで服でも何でも好きなものを買うといい」


「は……はい、ありがとうございます! ところでゼアル様?」


「何だ?」


「この町を滅ぼさないのですか?」


「……えっ?」


「えっ?」


「……そんな事はしない。戦時中ならいざしらず、今そんな事をしても意味はない」


「そうなんですか? でもゼアル様は魔族なんですよね?」



 魔族ならやって当然、とでも言いたげである。やはりずっと閉じ込められていた影響か、この十数年での世間の風潮、その変化を知らないのだろう。



「我に何を期待しているのかは知らんが、無暗に人を傷つけるのは好きではない。今後そのような考えは捨てなさい」


「……はい」



 何故か少し残念そうに肩を落とすヴァルナ。しかし長い監禁生活が彼女をそのように変えてしまったのだと考えると、怒る気にはなれなかった。

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