第21話 青いドレス2



 しばらくすると、シルヴィオが戻ってきた。ぎこちない手つきで食事をのせたトレイを持って、片手で扉を閉める。

 震えるトレイに意識を集中させて、危なっかしい様子のシルヴィオは少しだけかわいらしい。使用人に命じて、持ってこさせればすむ話なのに、わざわざ運んできたのだ。

 ルーチェの心の中にあったもやもやは、そんな簡単なことですっと引いていく。


「起きられるか? こちらで一緒に食べよう」


「はい」


 シルヴィオがいつも朝食を食べるテーブルの上に、今日は二人分の食事が並べられた。

 ルーチェには、温かいじゃがいものポタージュと焼きたてのパン、そして果物と紅茶。シルヴィオは果物と紅茶のみ。

 フルーツの皿には、カットされたネスポレの実も盛り付けられている。シルヴィオが料理長に渡したのだろう。


「いただきます」


 まずはスープを一口。料理長が作ってくれるスープは、野菜の自然な甘みとちょうどいい塩加減が相まって、いくらでもたいらげてしまいたくなる美味しさだ。


「おまえが食べているところを見ると、こちらまで幸せになれる気がする」


「シルヴィオ様もパンを召し上がりますか?」


 パンは山盛りで、さすがのルーチェも朝からそんなには食べきれない。彼女としては、明らかに疲れた様子のシルヴィオに、せめて食事くらいはきちんととってもらいたかった。


「……そうだな、いただこう」


 めずらしくシルヴィオがきちんと朝食をとってくれる。おそらくルーチェが不摂生を心配していることを察して、無理に食べているのだが、それでも彼女は嬉しい。


「明日からも、朝食はここでとるといい」


「そんなことできません」


 シルヴィオから何度か、食事をともにすることや、使用人の仕事をやめるように言われたことがあった。ルーチェは“伴侶”であって、本来なら対等な立場というのが、彼の考えだ。

 けれど、ルーチェとしてはやはり紋章を宿したからといって、不遜な人間になりたくないというのが本音だ。

 スカリオーネ家がルーチェにそういう役目を求めていないことは知っていたが、使用人としての仕事をしないと、居場所がなくなる不安があった。


「では命令だ。……おまえの健康状態を毎日確認したい、いいな?」


「うっ、ずるいです」


 命令、という言葉を使われると逆らえない。シルヴィオが滅多に使わないその言葉のせいで、ルーチェは断れなくなってしまう。


「ずるくてもかまわない。私も一人でとるよりは食欲がわく」


 そう言ってから、彼は優雅な手つきで紅茶を口もとにもっていく。ときどき会話をしながら、ゆっくりととる朝食は、ルーチェにとっても楽しい時間だった。


 ちょうど食べ終えたところで、扉がノックされた。


「入れ」


 シルヴィオが許可を出すと、家令が入ってくる。


「失礼いたします。若様に至急の伝令が届いております」


 家令が手に持っていたのは、一通の手紙だった。封をしている蜜蝋は、王弟ヴァレンティーノのものだった。


「所長から……」


「なにかあったのでしょうか?」


 今日は早めに起きてしまったから、出勤の時間はまだ先だ。だとしても、数時間後には向かうのに、わざわざ伝令があるのだから、本当に至急の用事なのだろう。

 家令が去ったあと、シルヴィオは手紙を開いて、目を走らせた。


「夜中に、警備隊の武器庫がまた襲撃されたらしい」


「また?」


 重大な事件が起こったというのに、シルヴィオはたいして驚きもしない。「また」という言葉から、以前にも似たようなことがあったのだとわかるが、ルーチェには覚えがない。


「あぁ、すまない。ここ半年ほどで、そういう事件が二件ほど起きているんだ」


「そうだったんですか」


 半年ほどのあいだにあったことなら、記憶喪失のルーチェは当然知らない話だ。


「現場の魔法の痕跡を調べるのに、協力要請があったから、できるだけ早く研究所に出勤するように、ということのようだな。……朝くらいゆっくりさせてほしいものだ」


 シルヴィオは席を立ち、研究所へいくための支度をはじめる。ルーチェも急いで立ち上がり、シルヴィオのローブを用意した。


「おまえは屋敷で休んでいろ。いいな?」


「はい、シルヴィオ様……」


 今日はまた、一日屋敷で過ごすのだ。そう言われることはわかっていたので、ルーチェは素直に頷いた。


「そんな顔するな。途中で昼寝をするし、仕事が終わればすぐに帰るから。では行ってくる」


「はい、お気をつけて」


 シルヴィオはルーチェの頭を優しくなでてからきびすを返し、部屋を出ていく。しばらくすると、一台の馬車がスカリオーネ家の門から外へ出ていった。ルーチェは主の部屋から、馬車が見えなくなるまで外の様子を眺めていた。


「よし! できることをしよう」


 残された彼女は、とりあえずいつものように、部屋の掃除からはじめることにした。まだ着替えすらしていない。外套は脱がされていたが、森へ入った格好のまま、主のベッドを使ってしまったのだ。


「掃除、シーツの取り替え……その前に着替えをしなきゃ」


 気持ちを切りかえて、ルーチェの日常がはじまった。まずはお仕着せに着替えて、レースのついたエプロンを着ける。この服を着ると、身が引き締まり、本来の役目を果たそうという気持ちになれるのだ。

 シルヴィオの部屋のシーツをはがして、洗濯を担当している同僚のところまでもっていく。リネン室で新しいシーツをもらって、しわのできないように注意しながら取り替える。

 掃き掃除をして、テーブルはよく絞った布巾で拭いておく。シルヴィオは研究以外のことに無頓着で、書斎机の上には読み終わった本が沢山積まれたままだ。読み途中の本を置く場所は決まっていて、それ以外の本をルーチェが整理して、棚に戻す。

 三年経っても、そのルールは変わらない。ただ、彼女の知らない本が増えていた。


 そんなふうに過ごして、ときどきほかの使用人とおしゃべりをしながら、ルーチェは主の帰りを待った。


 早く帰ってくると言っていたはずのシルヴィオが帰ってきたのは、結局、日が落ちてだいぶ経ってからだった。


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