第10話 儚い望み4



 翌朝、ルーチェは日の出とともに起床して、身支度をととのえる。服装はいつものお仕着せではなく、乗馬用に用意してあるズボン姿だ。足下は山歩き用の靴、日の当たらない森の奥は春でも寒い場合があるので、薄手の外套も必要だった。

 お仕着せも、ほかの服も、ルーチェの記憶とは少し違うものに変わっている。体型が変わったのだ。けれど、几帳面に私室を整理していたお陰で、なにがどこに置いてあるかわからないということはなかった。


 実はこっそり、十八歳のルーチェが残したものがないか、引き出しの中を調べてみた彼女だが、めぼしいものは出てこなかった。過去の自分が誰を想って道を誤ったのか、知りたいと思うのは当然だ。

 シルヴィオはその人物に会わせるつもりはない、と言っていた。ルーチェも会いたいとは思わない。二度と間違えたくはないから。ただ回避するために知りたかった。


「いけない、いけない。シルヴィオ様を起こしに行こう」


 朝早く出かけるため、いつもより一時間ほど早く彼を起こすのだ。

 ルーチェは昨日と同じように、ノックをしてからあるじの部屋へと入る。


「シルヴィオ様、おはようございます」


 声をかけても、彼はもぞもぞと動くだけで、起きる気配はない。ルーチェはまず、分厚い布で作られている部屋のカーテンを開けて、外の光が入るようにしてみる。朝の光を浴びれば、すきっり目が覚めるはずだ。


「シルヴィオ様、おはようございます、朝ですよ」


 彼は瞳を閉じていてもきれいだ。目を閉じていると、黒く長いまつげが目立つ。何度か身じろぎをしてからうっすらと目を開ける。まだ眠たそうな表情、そして寝ぐせのついた髪、無防備な姿は普段の彼よりも少しだけ幼く見える。


「……あぁ、おはよう」


「はい、おはようございます。とってもいいお天気ですよ!」


「私もすぐに支度をするから、待っていろ」


 ルーチェが楽しみにしすぎて、そわそわしているのはすぐに伝わってしまう。表情が豊かとは決して言えないシルヴィオが、時々優しい顔を見せてくれる。ルーチェはそれを発見するたび、嬉しくて、そして最近はなぜだか心臓がどきどきするのだった。



 §



 屋敷から北の森までは、馬車で二時間の距離だ。スカリオーネ家の馬車でそこまで行き、帰りは指定した時間に迎えに来てもらう。上流階級のお出かけは、案外楽なものである。ルーチェはいつもその恩恵に与っている。


 シルヴィオの研究内容の一つに、魔法を医術に転用するというものがある。

 癒しの魔法というものが存在するのだが、それを使える魔法使いは少ない。十六家の直系、さらに限られた才能のある人間のみ、というのが現状だ。シルヴィオも多少は使えるが、紋章の力を手に入れてもなお、得意とは言いがたい。

 そうなると癒しの魔法の恩恵に与れる者は特権階級限定、ということになってしまう。強い魔法使いがそのまま特権階級となっているこの国では、ある意味当然のことかもしれない。


 シルヴィオは一般に普及している医術を魔法で補強する方法を考えている。たとえば、薬の効能を副作用なしに高める方法だったり、病気の原因を特定する魔法だったり。

 もしどこかの地方で原因不明の疫病が発生したとして、その原因を早く特定し、効果の高い薬を作れたとしたら、多くの人間――――それも身分の低い人間を救える。

 戦いに消極的で、他家から非難されることもあるスカリオーネ家だが、ルーチェは、シルヴィオやちょっと怖いカルロのやっていることはすごいことだと思い、尊敬している。


 そういうわけで北の森では、今の時期にとれる草花を採取しにきたのだが、シルヴィオには別の目的もあるようだ。

 そもそも十六家の跡取りである彼は、歩いてしか行けないような森にみずから入っていく必要なんてない。誰か人を雇ってとりに行かせればいいし、商人から買ってもいい。

 今日シルヴィオが森へ来た理由は、ほとんどルーチェのためなのだろう。この二日間ほど屋敷から出られないし、仕事もできていない。ルーチェが役立たずになっていることを気にしているから、連れ出す口実が必要だったのだ。


 ルーチェはそのことを察していた。シルヴィオの優しさには感謝したいけれど、その気づかいを歯がゆくも感じていた。

 楽しみにしている気持ちは嘘ではないから、彼の前では笑顔でいたい。そんなふうに思った。


「シルヴィオ様、ネスポレの実がなっています。料理長さんへのおみやげにしたいので、ちょっと待っていてください」


「手伝おう」


 ネスポレの木には橙色だいだいいろの小さな実がたくさん実っていた。マフィンを作らせてもらったお礼になればと、彼女は考えたのだ。

 下のほうになっている実なら、ルーチェにも手が届く。ネスポレは傷つけないように優しく持って、くりくりと回すだけで、簡単に実がとれる。

 少し高いところにある実はシルヴィオがとってくれる。


「味見してみましょうか?」


 甘くなければ持って帰っても意味がない。二人はそれぞれ細かい産毛のようなものが生えた薄い皮を手でむいて、実をかじる。くせのない甘みがじゅわっと口の中に広がる。


「おいしいです! 当たりですね」


「ああ、うまい」


 これなら、料理長も喜ぶだろう。ルーチェはこの木から二十個ほどの実を頂戴して持って帰ることにした。


 森の中を一時間ほど歩き、だんだん道が細く、険しくなってくる。このあたりからは野生動物に注意が必要だ。ウサギや小さな獣は、人の気配を察して逃げ出す。この森で、人間より強い動物と言えば、熊くらいだ。

 出くわしたとしても、大軍にも匹敵するとされている契約の紋章所有者が、野生動物にやられることはない。


 草の生い茂る細い道をルーチェが進んでいくと、突然なにかに足下をすくわれる。


「きゃっ!」


 倒れ込んだところで、ルーチェは一気に体が持ち上がるような感覚に襲われる――――あきらかに罠だった。彼女が状況を正しく認識する前に、周囲でパンと何かが霧散し、今度は落下する。


「大丈夫か?」


 ルーチェが恐怖でぎゅっと目をつぶっていると、気がつけばシルヴィオの腕の中にいた。


「はい……ごめんなさい、油断しました」


「無事でよかった」


 怪我がないことを確認してから、ルーチェは地面に下ろされる。

 シルヴィオの視線の先には、ルーチェを捕らえようとした狩猟用の網の残骸が落ちている。


「熊が出たのだとしても、罠を張るのなら組合から報告があるはずだ。……密猟か?」


 北の森は王家の直轄領の中にあり、いちおう勝手に森にあるものを持ち出してはならないという規則がある。

 狩猟なら狩猟組合、川魚をとるなら漁業組合という組織があって、罠を仕掛けるなら書類の提出が必要だ。

 シルヴィオは魔法研究所の所員として、ここで植物の採取が許されている。事前に危険生物の目撃情報や、罠に関する情報は知らされているはず。

 けれど大型の罠が仕掛けてあるという話はなかった。だから、密猟か規則違反者のしわざ、ということになるのだろう。


「危ないですね、シルヴィオ様がいなかったら……。引っかかったのが私で、一人じゃなかったからよかったですけど」


 罠は殺傷能力のあるものではないので、ルーチェでも魔法を使えば抜けられた。けれどたとえば、猟師や山菜採りの老人が一人で森に入ったとして、誰も助けにこないで飢え死にすることもありえるのだ。とても危険な罠に、彼女は頬を膨らませた。


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