第9話 儚い望み3
翌日の朝、ルーチェはいつもどおり、シルヴィオの部屋に向かった。
もちろん、寝起きの悪いシルヴィオを起こすためだ。
コンコンと扉をノックしてから、許可のないまま中に入る。ルーチェがいつもと同じように、ベッドのほうへ向かおうとしたとき、シルヴィオがもう起きていることに気がついた。
「ル……!」
彼はちょうど着替え中で、寝間着の上を脱いでいた。ルーチェは主の近くへ歩み寄り、台の上に置かれた着替えのシャツをさっと手に取る。
昨日は気がつかなかったが、四年経って、彼の体つきがたくましくなっていた。魔法使いは国が乱れれば戦場に行くのだから、身を守るために剣術の稽古もする。シルヴィオは研究者寄りだが、中には一流の魔法使いで一流の剣士、という者もいる。
紋章を宿して以降、彼が剣術に力を入れはじめたことはルーチェも知っていた。その成果が出たのだと思うと、嬉しくなる。
「シルヴィオ様、今日は早起きなんですね! おはようございます」
「あ、いや……。今日はたまたま目が覚めた、だけだ。……天気がよいから、かもしれない」
「ご立派です。お着替えを手伝いますね!」
ルーチェはいつものように手に持っていたシャツを広げ、彼の背後にまわる。シルヴィオが袖を通したところで、一つ一つボタンを手際よく留めていく。
「あとは、大丈夫だから」
「え、でも……」
まだ着替えの途中だというのに、彼は手伝いはいらないと言う。今までそんなふうに言われたことのなかったルーチェは戸惑う。
「すまない。最近、着替えは自分でするようにしていた。……少し自立しようと思って、だな。着替えくらいは自分で」
きっと、ここも四年間で変わっていたのだ。それに気がつかず余計なことをしてしまったとわかり、ルーチェは悲しくなる。
「ごめんなさい。もしかして、朝起こすのもいらなかったですか? 私、余計なことをしてしまいましたか?」
彼はルーチェが部屋に入ってきた時に、少し驚いた様子だった。だから、起こすことも不要だったのかもしれない。助手としての仕事もできない、ご主人様のお世話もできない。
今のルーチェはシルヴィオに迷惑をかけているだけの存在なのだ。
「……い、いや、それは頼む。朝は苦手だ。そうだ、明日なんだがおまえと一緒に北の森へ行くつもりだ。支度をお願いできるか?」
「はい!」
明日は休日で、特別なことがなければ研究所は休みだ。だからルーチェはシルヴィオと一日中一緒にいられる。
北の森へは魔法使いがよく使う薬草をとりに行く。今まで何度も行ったことがあるので、勝手はわかっている。仕事を与えられたルーチェは、一転して笑顔になった。
「今日はまだ連れて行けないが、所長も会いたがっていた。おまえの回復具合も見せなければならないから、来週には研究所にも連れて行く。心配しなくても大丈夫だ」
そう言って、いつも通り頭をなでる。仕事ができないことを不満に思っていたことを悟られてしまったようで、ルーチェは申し訳ない気持ちになった。仕事は主に無理やり用意してもらうものではないからだ。
シルヴィオを送り出したあと、ルーチェはいつものように掃除をして、午後になってから厨房をのぞいてみた。その時間なら、料理人たちに余裕があり、話しかけても迷惑にならない。
屋敷の使用人に対して、記憶喪失の件については説明してあるということだった。もっとも契約の紋章について彼らは知らないので、病気のせいで記憶を失った、ということになっていた。
昨日のうちに、ほとんどの屋敷の住人に、元気になったと報告したルーチェだが、厨房にはまだ顔を出していなかった。
「よう! 嬢ちゃん、ついこの前までベッドから起き上がれなかったってのに、もういいのかい?」
「料理長さん、ご心配をおかけしました」
料理長はいかにも食べるのが大好き、というような丸いお腹をした働き盛りの男性だ。ルーチェの記憶にあるよりも、さらに一回りお腹に肉がついている気がしたが、これは突っ込んではいけないと彼女は気を利かせる。
厨房には全部で三人の料理人がいるが、そのうちの一人とは面識がなかった。四年のあいだに
忘れてしまったことを彼女が謝ると、少し寂しそうにしながらも、お近づきのしるしだと言って、作り途中のジャムを味見させてくれる。
きっと十八歳のルーチェは、今の彼女が忘れてしまった人たちともうまく付き合っていたのだろう。
「料理長さん。明日、シルヴィオ様と森へ行くんです」
「おう、そうかぁ。じゃあ弁当だな、二人分かい?」
今までに何度もお願いしたことがあるので、料理長は勝手知ったるという様子だ。
「はい、でもせっかくだから私もなにか、シルヴィオ様に作ってあげたいんですけど、いいですか?」
「うーん、今日のうちにマフィンでも作ってみっか? ちょうど新鮮なベリーがあるし、甘いベリーとチーズ味の二種類でどうだ?」
「はい!」
料理長は、計りやボウルを高いところにある棚から取り出す。そして、自作のレシピが書かれているノートをめくり、あるページを広げた。
「この分量で作って、途中で適当に二つにわければいいから、嬢ちゃんでも簡単だ」
ルーチェは時々、こうやってシルヴィオのために手作りの料理を作っている。スカリオーネ家の料理人は一流の腕前を持っているのだから、はっきり言って、彼女よりも専門家に任せたほうが美味しいはずだ。単なる彼女の自己満足だが、シルヴィオはいつもおいしいと言って食べてくれる。彼女はそれが見たいだけだった。
レシピも材料もすべて用意されていて、間違えそうになったら人のいい料理長が手助けしてくれるのだから、かなりずるをしている。
「あっ! 卵の殻が入ったのに見失いました」
小さな欠片が入ったのは見えたが、探しているうちに黄身が割れて見失ってしまったのだ。ルーチェは決して不器用ではない。掃除は得意だが、料理はしないという環境にいるため、苦手なのは仕方がない。
「なにやってんだ! ほら、細かい網でこせばいいだろ?」
料理長の手助けで、口当たりのよいマフィンができあがるだろう。ルーチェはますます明日のお出かけが楽しみになった。
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