第43話 赤い花3



 ルーチェはまだ夢の中にいた。


「シルヴィオ様のばか! 私のばかっ!」


 今のルーチェは、失った記憶をすべて取り戻し、そしてこれが夢だとはっきりわかっていた。

 二人とも、本当に愚かだった。もっと早く、たった一言を伝えるだけでよかったのに。シルヴィオは最後に「愛している」と言ったが、いくらなんでも遅すぎた。最悪のタイミングだった。


「魔法を使っちゃってから、言わないでくださいよ。……ばかばかばか!」


 ルーチェも勇気がなくて言えなかったから同罪だ。だけどこれは夢で、誰にも聞こえない。だから一緒に暮らした十年で一度も口にしたことのなかったあるじへの不満を、大声で叫んでいた。


「リーザさんやベネディットさんにもたくさん心配を……あれ?」


 記憶喪失中に経験したこと、そして取り戻した過去の思い出。それらが、彼女の中でぐちゃぐちゃに混ざる。



 リーザの香水。引き寄せられるような甘い香り。


 真っ赤な花畑。北の森でシルヴィオが燃やしたパヴェロの花。


 金色のあめ。


 カゼッラ家の悲願を遂げようとしている兄。



 ルーチェの中で、リーザとベネディット、そして仮面姿の兄、金色のあめ、小さな頃の兄の姿が繰り返し浮かんでは、消えていく。

 髪の色は違う。けれど少年時代の兄とベネディットの笑った顔がぴったりと重なる。


 その瞬間、ルーチェの夢は終わり、意識が現実に引き戻された。



「ベネディットさん!」



 あれから何時間経ったのか。ルーチェはシルヴィオの腕の中で、目を覚ます。まさか目覚めた第一声がほかの男の名前だとは予想できなかったらしく、シルヴィオの目が据わっている。


「ち、違うんです! シルヴィオ様……大変なんです」


 シルヴィオと紋章の絆を再確認する暇などなかった。彼女が、慌てて主から離れると、彼は捨てられた犬のように悲しげな表情になる。


「……なにがだ?」


「ベネディットさん! ……ベネディットさんがアルドお兄様だったんです!」


「……髪の色が違う」


「髪なら変えられるんじゃないですか? 瞳の色は一緒です」


 ルーチェたちが今まで紋章を隠していたように、ほかの魔法使いに悟られずに身体の色彩を変える魔法を使うことは、できるはずだ。

 アルドは、紋章を宿す前だったとしても、十六家の直系。ルーチェの記憶の中でも、かなり優秀な魔法使いのはずだった。


「なぜわかった?」


「記憶を失う直前、ベネディットさんがお見舞いに来てくれたんです。それで、金色のあめをくれました。そのときはお兄様が生きていることを知らなかったので、偶然だと思ったんですが……」


 もしかしたら、彼はルーチェの死期が近いと知って、自分が生きていることを伝えようとしたのかもしれない。


「おまえに近づいたのは、兄だったから?」


「そうだと思います! ……シルヴィオ様、どうしましょう!?」


 ベネディットが兄だった、という真実はルーチェにとって衝撃だった。けれど今は、それよりももっと最悪の事態を想像して、取り乱した。北の森の花園の香りと、と見舞いに来てくれたときのリーザの香りはとても似ていた。


「リーザさんが、契約相手かもしれません!」


「ばかな。あの者が協力しているはずがない。おまえの友人だろう?」


 二人の知っているリーザという女性は、気が強いけれど正義感も強い、そんな人物だ。今のバレスティ国の体制に不満があったとしても、それを隠して王弟である所長に仕えていたようには見えない。そんなに器用な人物ではないのだ。それは友人のルーチェが一番よくわかっていた。

 けれど「あんたには苦労してほしくない」と語っていたときの寂しげな表情がルーチェの頭の中に浮かぶ。リーザにはなにか秘密がある。


「リーザさん、びっくりするほど急に強くなりました。それに、ベネディットさんのこと、この前一度だけ名前で呼んでいたんです。あと、頭がいいのに一日前の出来事を忘れちゃってて……、花の香りがして……」


 すべての記憶を取り戻したルーチェには、リーザが火事のときに見せた力はやはり不自然に感じられた。

 火事のあった日、本を買ったことだけをすっぽり忘れたのは、麻薬の副作用ではないのか。

 あのときルーチェは、リーザが好きな人のことで苦労しているのではないかと感じた。リーザが火事の直前に言いかけたのは、ベネディットのことではなかったのか。

 こんな考えは当たってほしくはない。けれど、考えれば考えるほど、ルーチェの中で悪い想像ばかりがふくらんでいく。


「本人の意志ではなく、紋章を宿したと言いたいのか?」


「そうです! どうしよう、リーザさん……お兄様……」


 紋章が、宿した者の命を脅かす危険なものだということは、二人が一番よく知っている。

 自らの意志で宿しても、ルーチェとシルヴィオは、成長に伴う心の変化で信頼関係を維持できず、紋章に蝕まれ死に至る寸前だった。

 もし、リーザが自らの意志で宿していないのなら、絶望的な未来しか見えない。


「アルドのことは、父上から陛下に報告してもらう。……私たちはヴァンニを保護しに行く」


「…………」


「ルーチェ! しっかりしろ。……ヴァンニはまだ間に合う。だから、できることをするんだ」


 シルヴィオの言葉で冷静になったルーチェは、急いで寝間着から着替えて、リーザの家へ急ぐ。

 彼の言うとおり、ルーチェたちにはリーザを助ける方法が、まだあるのだ。


「ルーチェ、その分析装置必要になるかもしれないから持っていけ」


「はい! 行きましょう、シルヴィオ様」


 ルーチェはリーザも、そしてできることならベネディットも救いたかった。そのための力を彼女はまだ捨てずに持っているのだから。


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