第42話 赤い花2



 夜会の日から二日間、ルーチェは高熱で、ベッドから起き上がれない状態が続いていた。左手の痛みはもうあまり感じなくなっていた。それでも、確実に命を脅かす紋章がそこにあるのだと思うと、恐怖で手が震えてしまう。

 彼女は今まで“契約の紋章”は二人の絆だと思っていた。それが今は、好きな相手を縛りつけて、苦しめ、そして死へと導く呪いのように思えた。


 寝込んでいるあいだ、シルヴィオとイメルダ、それに料理長がちょくちょくやってきた。シルヴィオはチョコレート、イメルダはお菓子と紅茶、料理長はフルーツや粥。みんながルーチェの回復を願って、食事をさせようとしていた。

 そのおかげで、三日後には起き上がれるようになっていた。


 ルーチェの回復を確認したシルヴィオは、真剣な顔でベッドの脇に置かれた椅子に座る。


「大事なことだから答えてほしい。ルーチェはモランド殿を好いているのか?」


 ベネディットの話をするだけで不快感を隠さなかったシルヴィオだが、今は違った。心が簡単に変わるはずもないのだから、ルーチェのために、態度に出さないようにしているだけだ。


「違います」


「私に言えないのは、私がモランド殿を嫌っているからだろう? だがおまえが望むなら、私もスカリオーネ家も彼に危害を加えたりしない。おまえが幸せになれる方法を考える。だから、正直に言っていいんだ」


「ちが、う……」


 シルヴィオの頭の中にある「幸せになれる方法」は、どう考えても、彼との別れを意味していることだとルーチェにはわかった。

 それが、彼女をさらに不安にさせていく。


「では、誰だ? あのとき、なにを消したいと言った?」


「誰も、誰も……好きじゃないの。私の望みは、シルヴィオ様にずっとお仕えして、それで恩をお返しすることです!」


「そうか、悪かった。もう無理には聞かないから、今はゆっくり休むんだ」


 わかった、と言いながら、彼はまったく納得していない。そして、紋章が傷む理由をルーチェの裏切りだと思っているのだ。


 たしかに原因はルーチェの心が変わってしまったせいだった。だから、どうしても本当の気持ちを打ち明けることができなかった。

 よこしまな気持ちを抱いて、あるじの命まで危険にさらしているのだと、どうしても本人には告白できない。


 紋章の痛みは、彼がこの気持ちには応えてくれない証拠だと思ったのだ。こんなにも図々しい感情を抱いていると知られて、よけいに嫌われることを、ルーチェは恐れた。


 嫌われたくない。それなのに、いい子ではいられない。シルヴィオを独占したい気持ちが消えてくれない。ほかの令嬢には触れて欲しくないと思っていたし、シルヴィオが誰かに笑いかける姿を想像しただけで、胸が苦しい。

 嫉妬、という感情を彼女ははじめて知った。それは彼女が十七年生きてきた中で一番醜く汚い感情だった。



(早く、消えて……!)



 シルヴィオに恩を返したい気持ち、役に立ちたい気持ちは少しも損なわれていなかった。彼に恋をする気持ちが、許されないのだと知っているのに、自分ではどうすることもできなかった。


 最初は一月ひとつきに一度、その後は段々と痛みを感じる感覚が短くなっていった。十八歳の誕生日を迎える頃になると、ルーチェはベッドから起き上がれなくなっていた。

 シルヴィオはなにも言わないが、契約を解消する方法を必死で研究しているようだった。忙しい中でも、彼はほぼ毎日、ルーチェの部屋を訪れてくれる。

 そんな彼がなぜか時々、何日もルーチェの部屋にやってこないことがあった。その後必ず、普段より顔色の悪い彼が「研究所の仕事で遠出していた」と言って現れる。ルーチェにはそれが嘘だとわかっていた。


 シルヴィオも紋章に蝕まれて、寝込んでいたのだ。


 もう残されている時間は、少ないのだと彼女は嘆いた。



 §



 ルーチェが部屋から出られなくなって、しばらくのこと。リーザがお見舞いに来た。その日は、シルヴィオが朝から大切な用事があり、夜遅くまで帰らない予定になっていた。

 話し相手がいたほうが気が紛れるだろうからと、彼がリーザに頼んだのだ。

 事前に彼女が来てくれることがわかっていたので、ルーチェは締めつけの少ないワンピースに着替えた。ベッドの中からは出られないままだが、身を起こして友人を迎えることができた。


「ルーチェ、大丈夫?」


 部屋に入ってきたのはリーザ、そして後ろにはベネディットの姿があった。


「はい、リーザさん。……あの?」


 ベネディットが一緒だったことに、ルーチェは驚いた。リーザと一緒だったことも意外だったし、スカリオーネ家に入って来られたことも意外だった。

 よくよく考えれば、彼の顔を知っているのはシルヴィオだけで、今日は留守にしている。リーザもそれがわかっているから、連れてきたのだろう。

 けれどシルヴィオに知られるとまずいことが増えていくのは、ルーチェの本意ではない。

 心配して見舞いに来てくれた人物を追い返すこともできずに、ルーチェはただ困惑した。


「急にごめんね、ルーチェさん。君が病気だって聞いて、居ても立ってもいられなくて。彼女に無理を言って連れてきてもらったんだ」


「こちらこそ。ご心配をおかけして、ごめんなさい」


「調子はどうなのよ?」


「もう少し休めば元気になるはずです。大丈夫ですよ、きっと。研究所の皆さんはお元気でしょうか?」


 かなり悪い状況だと、誰が見てもわかる。けれど、リーザに本当のことなど言えなかった。


「あんたもいないし、副所長もサボり気味だし! 書類がたまっちゃうのよ。所長なんて、書類仕事が多すぎて鍛錬の暇がないって嘆いていたわ」


「所長が……?」


「あんたのこと無視してたやつらだって、副所長とあんたのおかげで、どれだけ楽ができてたか、そろそろ認識したんじゃない?」


 それは彼女なりの励ましの言葉だ。王立魔法研究所も、所長も、そして普段会話をしないほかの研究員も、皆がルーチェを必要としている。そういう意味だった。


「そうですか、じゃあ戻るのが楽しみです」


「ルー……っ。ご、ごめん、ちょっとだけ廊下にいるわ」


 楽しい話だけをするつもりだったはずなのに、リーザは途中から目を充血させ、涙をこらえていた。急に立ち上がり、背中を向けてしまう。


「リーザさん?」


 立ち上がった瞬間、とても甘い花の香りがただよう。いつの間にか香水をつけるようになったのだ。彼女はそのまま、焦った様子で部屋を出ていく。ルーチェに涙を見せないためだろう。


「私、リーザさんにものすごく心配をかけていますね」


 リーザに釣られて、ルーチェまで泣きたくなってしまう。彼女はそれをぐっとこらえて、もう一人の客人に笑いかけた。


「情に厚いからね、彼女は。……少し、痩せてしまったんじゃないかな?」


「お屋敷の食事はおいしいので、ちゃんと食べているつもりなんですけど。気をつけますね」


 食事のときは、いつも誰かが付き添ってくれる。優しい屋敷の人々に心配をかけまいと、ルーチェは頑張って食べようとはしている。けれど、ここ最近はちょっと食べただけでお腹がいっぱいになってしまうのだった。


「そう……甘いもの、好きだよね?」


「はい」


「じゃあ、これをあげるよ」


 彼は持っていた袋をサイドテーブルに置く。きっと中身はお菓子だ。


 その後、すぐに戻ってきたリーザと、一時間ほど他愛もない話をした。ルーチェが疲れてうとうとしはじめたところで、二人は帰っていった。


 リーザとベネディットが帰ったあと、ルーチェはお見舞いの品としてもらった包みを開けてみた。

 中に入っていたのは、丸い缶。握力が弱くなり、震える手でなんとかふたを開けると、甘い香りが周囲に広がる。


「あめ……金色の……?」


 十年前以上前の生家での思い出は、スカリオーネ家に預けられて以降、徐々に薄れていた。

 両親のことも、仲がよかったはずの兄のことも、思い出す回数がだんだんと減ってしまった。金色のあめは、ルーチェにカゼッラ家で暮らした日々を少しだけ思い出させる。


「お兄様……」


 彼女は丸い金色のあめを、一つつまんで口の中にほうりこむ。懐かしい味に涙がこみ上げてくる。こんなタイミングで、温かくて懐かしい気持ちになれるとは思いもしなかったのだ。

 ルーチェは、素敵な偶然をくれたベネディットと、彼を連れてきてくれたリーザに感謝した。



 それから数日後――――。



 シルヴィオに名前を呼ばれて、ルーチェは目を覚ます。最近は寝ている時間が増えてしまい、本当に起きているか、それとも夢なのか、彼女自身もよくわからなくなっていた。


「起こしてすまない」


「だ……、っ……」


 彼女は大丈夫だと伝えようとしたけれど、声にはならなかった。


「ルーチェ、私は紋章を消そうとしていた。おまえを自由にしてやりたかった。だが、紋章を消し去るための魔法はまだ完成していないんだ」


「ご、め……さい」


 もう時間が残されていないことは、ルーチェもよくわかっている。死ぬことは怖くない。ただ、大切な人を巻き込むことが虚しいだけだ。


「謝らないでくれ。私は今からおまえにとても酷いことをする。……おまえの記憶を封じる。元気だった頃まで、もう一度やり直せるところまで、時間を戻す。わかるか?」


 見習いとはいえ、ルーチェも魔法使いだった。シルヴィオが魔法を使って記憶を封じるのだとすぐにわかった。記憶を封じる魔法など、聞いたことがなかったが、一流の研究者である主ならば、そういうことも可能なのかもしれないと納得する。


「うれし、いの……わたし。またシルヴィオさまと、一緒に……」


 ルーチェにとって、それは酷いことではない。ずっとこの汚い感情を消して欲しいと願っていたのだ。心から嬉しいと言っているのに、残念ながら彼には伝わらない。二人の距離は、前よりもずっと遠くなってしまったのだ。


「辛いだろうに、おまえは優しい子だな……。やり直そう。あやまちを犯したのなら何度でも」


 悲しい顔は見たくない。やり直しをするのなら、新しい自分が、どうかシルヴィオを笑顔にできますように。ルーチェはそう思いながら、シルヴィオの頬に触れようと、懸命に手を伸ばした。

 紋章のある左手は、もうほとんど動かない。だからルーチェは右手をのばして、シルヴィオの頬に触れた。

 シルヴィオが泣きそうな顔をしていたから。泣かなくていいんだと、彼女はそう言いたかったのだ。



「愛しているんだ、おまえだけを」



 優しい闇に包まれ、それがルーチェの身体の中に入ってくる。シルヴィオの魔力を感じるのは、心地がよい。その闇はルーチェから悲しい思い出も、シルヴィオとの大切な思い出も、すべて奪っていく。

 最後にとても大事な言葉を聞いたはずなのに、その記憶すらすぐに奪われた。



(シルヴィオ様のばか……)



 なぜ、最後にそんなことを考えていたのかわからないまま、ルーチェの四年分の記憶は消えていった。


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