第41話 赤い花1
――――消えて、お願いだから消えて! どうして私は変わってしまうの!? こんな気持ち消えてよ!
大好きな人への想いが、その人を死に至らしめる。わかっているのに、ルーチェには自分の心を操ることができなかった。
「う、あぁっ、痛い! 痛い……うっ……」
十八歳のルーチェは、左手の激痛で目を覚ます。自分の状況がよくわからないままゆっくりと
どちらの“昨日”が本当の“昨日”なのか混乱し、頭の中で時間がぐちゃぐちゃになっていく。
「大丈夫、大丈夫だ。落ち着け」
夢の中――――十七歳の記憶の中の彼も「大丈夫」という言葉を何度も口にしていた。シルヴィオの変わらない優しさのおかげで、ルーチェは壊れずにいられるのだ。彼女はその言葉に従って、ゆっくりと呼吸を整える。
左手の痛みはまだ引かないが、もがき苦しむほどの激痛ではなくなっている。汗と涙でぐちゃぐちゃになったルーチェの顔を、シルヴィオが清潔な布で拭ってくれる。
「なにか、楽しいことや嬉しいことを思い浮かべてみろ。……なにがいいだろうか?」
そう言われて彼女が思い浮かべるのは、シルヴィオと過ごす時間だった。今もこうして、痛む左手を必死になでて、温めてくれている。
彼のことを見つめていると、せつない。それでもルーチェに幸せをくれることには変わりがない。
「少し、落ち着いてきたか? なにか温かい飲み物でももらってこよう」
「いかないでください。それより、お話しがしたいです。シルヴィオ様、どうしてここに?」
そばを離れようとした彼を、ルーチェは引き止めた。以前、これと真逆のことがあった。
「夜中に石が割れた。どこまで戻った?」
「シルヴィオ様の誕生日の夜です。夜会の日でした」
ルーチェはゆっくりと身体を起こす。寝たままでいるのも、寝間着姿を見られるのも、どちらも同じくらい恥ずかしい。それでも彼と目を合わせて、きちんと話をしたかったのだ。
「あの夜か……。じゃあ、もう紋章がおまえを蝕んでしまったのだな」
シルヴィオが大きくため息をつく。
夢の最後で、彼は「おまえ
「……あの? シルヴィオ様はなんで四年分の記憶を奪ったんですか? シルヴィオさま
ベネディットの記憶を完全に消したかったから。だから彼は、四年分の記憶を消去したのだと、ルーチェは勝手に考えていた。それは間違っていないのかもしれないが、シルヴィオがいつ頃から病んでいたのかは気になった。彼は、痛みへの対処の仕方がやけに的確すぎるのだ。まるで、今まで自身が何度も経験しているようだった。
「その頃から、私は右手に違和感を覚えていたからだ」
「私の記憶を奪って、シルヴィオ様は治りましたか?」
「いいや」
やはりルーチェとシルヴィオは、それぞれ別のタイミングで、紋章が自身の身体を蝕んでいることを自覚したのだ。
「……あれ?」
「どうしたんだ」
「私、十五歳のときも十六歳のときも、シルヴィオ様を敬愛していたはずです。それなのになんでシルヴィオ様の紋章は、罰を与えたんでしょうか?」
シルヴィオがルーチェの記憶を封じた理由は、彼女の心変わりのせいだということになっていた。確かにルーチェの心は変わってしまったが、それはシルヴィオが考えているのとは真逆の方向だった。
ルーチェがはじめてシルヴィオへの気持ちに気がついたのは、十六歳の終わり頃。その前からすでにシルヴィオが病んでいたのだとすると、話が矛盾する。
「それは、私の気持ちがおまえの気持ちと
「……じゃあなんで私の記憶だけを消したんですか?」
ルーチェが十五歳の頃から、彼が痛みを感じていたということなら、心が離れてしまったのはむしろシルヴィオのほうだ。
それならば、ルーチェの記憶を消した意味がますますわからない。
「おまえが私を愛するようになれば、紋章は私たちを蝕まない。だから四年前からやり直した。いずれ記憶を返すつもりだと口にしながら、本心では別のことを望んでいた。……軽蔑してくれていい」
「……? ちょっと意味がわかりません」
ルーチェは彼のことが誰よりも大好きだ。それなのに、実際に紋章は二人を蝕んでいる。
「そもそも、私たちの契約が成り立ったのは、たとえ親愛であったとしても、互いに相手のことを一番に思っていたからだと考えている。おまえが懸命に仕えてくれていることを、疑ったことなどない。だが、私はかなり前からそれだけでは満足できなくなった。私と同じ気持ちを、おまえにも求めた」
「シルヴィオ様と同じ気持ち、ですか?」
「主従の親愛ではなく、本当の唯一になりたい、ということだ」
ルーチェはその言葉を聞いて、時間が止まってしまったような感覚に陥る。シルヴィオの眼差しには嘘がない。少し熱を帯びたような漆黒の双眸の中には、ただ一人、ルーチェだけが映っている。
「そ、それ……なんだか、とてもおかしいです」
彼女はひどくボタンを掛け違えてしまったのではないか、と感じた。
「やり直して、おまえを手に入れようとした。許されないことをしているのはわかっている。だが、どうにもならないだろう? 主従の信頼を優先し続け、誰にも特別な感情を抱かずに大人になることなど、できはしない。だから、おまえの心を変えようとした。卑怯だが、ほかに手段がなかった」
「そうじゃないんです。……私が好きなのは、昔からずっとシルヴィオ様だけなんです。まだ一年分の記憶はありませんが、それで変わったとは思えません。だって、私はシルヴィオ様が好きだと気がついたときに、はじめて左手が痛んだから」
「ルーチェ……?」
彼女の告白で、シルヴィオも矛盾に気がついた様子だ。
「私は、シルヴィオ様を好きな気持ちを消したいと思っていたんです。ただの親愛に戻さなくちゃだめだって思ってました」
部屋を移動したときに見つけた旅行かばん。あれはかばんではなく、分析装置だった。それがまだルーチェの部屋にあるということは、シルヴィオに渡さなかったということだ。十七歳のルーチェは誤解を解かないまま、病んでいったのだ。
せっかくやり直す機会を、シルヴィオが作ったのだ。今度は間違ってはいけない。本当のことを言って、それでも紋章が認めてくれないのなら受け入れよう。そう考えたルーチェの瞳からはぽろぽろと涙が溢れた。
「誕生日の前に、私はシルヴィオ様に嘘をつきました。でも、ベネディットさんと会う約束をしていたんじゃないんです。私、分析装置をシルヴィオ様に渡さなかったんですよね?」
「……分析装置?」
ルーチェはゆっくりと立ち上がり、しまわれていた装置を取ってくる。
「これです。驚かせようと思って、よろこんでほしくて、だから秘密にしてて……それで、町まで買い物に行っただけなんです。シルヴィオ様に信じてもらえないのが悲しくて」
「では、なぜだ?」
二人とも、ほとんど答えにたどり着いていた。互いに、相手のことをより特別だと思ったとき、そして相手はきっと同じ気持ちではいてくれないと嘆いたときに、紋章が苦痛を与えた。
「お互いのことを想っているだけじゃ、だめだったのかもしれません。……私は、シルヴィオ様のことが好きだけど、同じように想ってもらえているのは知りませんでした」
愛することと、その人を信じることは別だった。お互いに相手の気持ちを信じていなかったのだ。だから紋章は罰を与えた。痛むことで、相手の気持ちが自分には向けられていないのだと嘆き、さらに誤解をしていった。
「……私はばかだったのか?」
「シルヴィオ様がばかなら、私は大ばかです」
二人とも紋章が痛むことを、愛されていない根拠にしていた。なぜそうではない可能性を考えなかったのか。二人とも未熟で、愚かだった。
「少し、確認させてほしい」
「なにを……?」
シルヴィオは答えず、ベッドの端に腰を下ろしてルーチェを引き寄せる。漆黒の瞳と長いまつげがやけに近い。なにをされるのか、予想がついても、ルーチェにはどうすることもできない。
「邪魔だな」
まずは左の手のひらに彼のくちびるが触れた。すると一瞬、鈍い光を放ち、血で描かれたアネモネの花が浮かび上がる。今までずっと隠していた契約の証だ。
手が絡められ、そこからほんの少しだけシルヴィオの魔力が流れ込む。そこまでは何度もしたことがあるのに、ルーチェは今までにないほど、胸の高鳴りを感じていた。
彼の空いているほうの手が、ルーチェの頭を捕らえる。もう逃げられないと思った彼女は、ぎゅっと瞳を閉じた。
すぐにくちびるに温かいものが押しつけられる。
ルーチェは、はじめて耳にくちづけされた日のことを思い出していた。身体が熱くなるのも、動悸がするのも、あのときはシルヴィオが体内に干渉する魔法を使ったせいだと思ってしまった。
そうではなかったのだ。好きな人に触れられたら、魔法使いでなくともそうなる。十五歳のルーチェはそんなことも知らなかった。
「あ、あの……?」
「よく、覚えておかなければならない。もう間違えないように」
シルヴィオは、お互いの愛情をどうすれば
キスをされたら、ルーチェの身体がどうなるのか。表情がどうなるのか。漆黒の瞳はそれらをとらえ、記憶しようとしている。
恥ずかしさのあまり、ルーチェが視線を逸らすと、咎めるようにもう一度くちづけがされる。
絡められた手がぽかぽかと温かく、そこから感じるシルヴィオの存在がただ優しい。ルーチェは、この感覚をずっと忘れずにいられたら、紋章が再び二人を蝕むことはないのだと思った。
「シルヴィオ様、最後の記憶を私に戻して下さい」
「……きっと、恐ろしい夢を見る」
今のルーチェは、シルヴィオに愛されているとはっきりわかっている。けれど記憶が戻るときに流れ込んでくる感情は、あくまで過去に感じた想いそのものなのだ。
もう一度、死ぬ寸前だったという数ヶ月前のルーチェと同じ体験を夢の中でしなければならない。
いずれは戻す必要がある記憶だ。ルーチェは覚悟を決めて、シルヴィオの胸に顔をうずめる。
「怖いので、ずっとこうしていてもいいですか?」
「わかった。……すまない」
カチャリと音を立てて、シルヴィオが胸にかけていたペンダントを取り出す。残りの一つは、シルヴィオの二十四歳の誕生日の夜から、記憶を消される日まで。きっと手のひらをナイフで突き刺されたような痛みを、何度も経験することになる。
恐怖で震えるルーチェをシルヴィオはきつく抱きしめた。
「どちらかが、言えばよかったのに、言わなかったのだから私も同罪です。悲しい想いをするぶん、あとでたくさん優しくしてもらってもいいですか?」
「いくらでも。……おやすみ、ルーチェ」
やがて黒い霧がルーチェを取り囲む。黒はシルヴィオの色だ。恐れる必要はない、優しい夜の色だ。彼女が壊れないように守っていてくれたシルヴィオの魔力に感謝しながら、ルーチェは眠りについた。
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