第20話 青いドレス1
――――心があたたかくて、幸せで、
はじめてシルヴィオに対し、そんな感情を抱いた日のことをルーチェは思い出してしまった。
欠けていた記憶は、もともとあった場所にぴったりと収まった。ルーチェが拒絶したくても、磁石のように引き寄せられ、そして受け入れてしまえば、それが自分の一部だったと感じるだけだ。
「……これは罰か? 私が取って代わろうとした罪なら、なぜ私を罰しない……?」
夢の終わりにルーチェが聞いたのは、シルヴィオが苦しんでいる声。現実の世界から聞こえるその声に導かれ、彼女は目を覚ます。
「シルヴィオ様?」
ルーチェが目を覚ましたのは、シルヴィオの部屋だった。周囲が薄暗いことから、長いあいだ眠っていたことがわかる。
シルヴィオが覗き込むようにルーチェを見つめていた。その手はしっかりと彼女の手を握りしめたままだ。
「もう日が暮れてしまったのですか?」
「いいや、もうすぐ夜が明ける時間だ。……大丈夫か?」
レースのカーテンの奥から鈍い光が差し込む。その光は夕方ではなく、早朝の光だった。かなり長いあいだ眠っていたことになる。
「朝、なんですか。……ごめんなさい、ずっとそばにいてくれたのですか? なんで私、ここに……?」
シルヴィオの部屋の一つしかないベッドをルーチェが占領していた。仕える者として、ありえないことだ。
「石が一つ割れたのだから、見張っている必要があった。おかしなところはないか? 記憶は?」
シルヴィオの胸の付近に、漆黒の石がついたペンダントが揺れている。四つあった石のうち、一つが砕け、なくなってしまった。閉じ込めてあったのは彼女の記憶で、それが本来あるべき場所に戻ったのだ。
よく見ると、彼の部屋の机の上には、何冊もの専門書が積まれ、書き殴ったような紙も散乱している。
彼は眠らずに、ルーチェを見守りながら石が砕けた原因や対策を考えていたのだ。
「体は……大丈夫だと思います。私、ずっと夢を見ていたんです。今の私は十五歳で、たぶんですが一年分の記憶が戻ってきたみたいです。……ちょっとだけ変な気分です。昨日が二回あったから、変なんです」
ルーチェにとって“昨日”あった出来事が、眠る前と今とでは変わっている。シルヴィオと森へ行ったことも、十五歳の春の日の出来事も、両方とも同じように、鮮明な“昨日”だ。
「目が覚めてから、たった三日か。完全な失敗だ。すまない」
人の記憶を封じ込める魔法など、ルーチェは聞いたことがなかった。この魔法は、シルヴィオが彼女を死なせないためだけに、作り上げた魔法なのだろう。不完全でも、使わなければならないほど、切羽詰まっていたのだとわかる。
「でも私、変わらずシルヴィオ様にお仕えしています。気持ちは全然変わっていません! シルヴィオ様が大好きで、ずっと一緒にいたいって思っています!」
ルーチェがシルヴィオを慕う気持ちには、なんら変わりはなかった。けれど、今のルーチェには、シルヴィオが封じたのがなぜ四年間の記憶だったのか、なんとなくわかってしまった。
(ベネディットさん……。シルヴィオ様が気にしていたのはあの人なんだ)
別れ方があまりいいものではなかったが、旅のあいだルーチェはベネディットに対し、好感を抱いた。おそらく悪い人間ではないのだと思う。
いつも限定された人間関係の中で生きている彼女にとって、ベネディットは出会ったことのない種類の男性だった。
だけど、ただそれだけ。いつか、シルヴィオよりも彼が心を占める未来など想像できない。事前にシルヴィオから使用人や研究所の人間ではないと聞いていたから、彼だとわかっただけだ。
「……私、やっぱりわかりません。知りたくないです!」
一年分の記憶が戻っても、ルーチェには十八歳の彼女自身の気持ちなど、まったく理解できないままだった。そして、これ以上知ってしまうのが怖かった。
「きっと、大丈夫だ。……私も急ぐから」
なにを急ぐのか、ルーチェは聞けなかった。
シルヴィオが紋章を身に宿した直後から、一人で熱心に研究していること。絶対に手伝わせてくれないこと。彼女は、シルヴィオがどういう研究をしているのか想像がついていて、ずっと知らないふりをしているだけなのだから。
今のルーチェには、リーザが腹を立てる理由がよくわかる。気づかないふりをして、忠犬のようにふるまって、逃げている。捨てられるのが怖いから、困らせないように本当の気持ちを言わない。
自分の能力だけを頼りに生きてきたリーザにとって、ルーチェは真逆の存在なのだろう。能力を隠し、わざと気づかないように振る舞うことで、今の立場を守ろうとしている。リーザはそんなルーチェの
「私は朝から研究所に行ってくる。おまえは今日もとりあえず、屋敷にいろ」
「私、元気ですからお仕事がしたいです! それにシルヴィオ様、全然寝てないですよね?」
本来の予定であれば、ルーチェも研究所に一緒に行き、シルヴィオの助手としての仕事を再開する予定だった。役に立てないどころか、彼はルーチェのせいで睡眠すらまともにできていない。それなのに、屋敷でのんびり過ごすことなど、彼女はしたくない。
「そんなことはない、ソファで寝ていた」
「嘘です……」
そのとき、場の空気を読まないルーチェのお腹が、ぐーっと音を立てた。ずっと眠っていて、夕食を食べ損ねてしまったのだ。ルーチェは恥ずかしくなり、真っ赤になってうつむく。
「……ふっ」
シルヴィオの身体が震えていた。吹き出しそうなるのを堪えているのだ。そんなふうに笑う彼はめずらしい。
「なにか持ってきてもらうから、おまえはここにいろ。……たまには一緒に食事をしよう」
「でしたら、それは私の仕事です。私が……」
「いいから。倒れたばかりなんだから、看病くらいさせろ」
ベッドから起き上がろうとする彼女の肩を、シルヴィオが押し戻す。しっかり毛布をかけて、絶対動かないように命じてから、部屋を出て行ってしまう。
ルーチェは仕方なく、そのままぼんやりとシルヴィオの部屋を眺めていた。昼間から半日ほど眠っていたのだ。寝過ぎて頭は冴えないが、もう眠れそうにはなかった。
枕元にはラベンダーのサシェが置いてある。これはシルヴィオの二十一歳の誕生日に、ルーチェが渡したものに似ていた。けれど巾着の柄が記憶とは違っている。きっと香りが消えてしまい、何度か新しいものに作り替えたのだろう。
シルヴィオも、屋敷の人々も、ルーチェが贈ったはずのサシェも、ほとんど変わらないようでいて少しだけ違う。ルーチェは、自身の知らないサシェに無性に腹が立った。
それは、今の彼女が知らない、シルヴィオを悲しませた十八歳のルーチェが残していったものだったから。
(捨てちゃおうかな……?)
巾着をぎゅっと握りしめると、ラベンダーの香りが強くなる。このまま握りつぶして、くずかごに捨てて、新しいものに変えたと言っても、シルヴィオはなにも言わないのかもしれない。
そんなひどいことを考える自身が、すごく醜い嫉妬に駆られているような気がして、ルーチェの瞳から涙がぽろぽろとこぼれる。
シルヴィオを裏切った十八歳の自身も、失くした記憶の中の自分自身に嫉妬する、醜い心も大嫌いだ。もうすぐ
シルヴィオは、ルーチェを助けるために命の危険が伴う“契約”をした。そして今も、彼女のために寝る暇を惜しんで、魔法の研究をしている。
十四歳の彼女が混乱しないように、本当は一人で起きられるのに、寝たふりをしてくれる、優しい人なのだ。
そんな人を、自分勝手なわがままでこれ以上煩わせたくない。それがルーチェの意地だった。
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