第23話 青いドレス4
それから一ヶ月はとくになにも起こらずに、平穏な日々が続いた。ルーチェは助手の仕事にも復帰し、少しづつ知らないことへの対応ができるようになっていった。
シルヴィオとルーチェが師弟関係だったのに対し、リーザとルーチェは対等に、お互いを高め合う好敵手だ。普段から、どんな専門書を読んでいるかなどの話をよくするし、本の貸し借りもしていたらしい。
だからリーザは、十八歳のルーチェがどんな知識をもっていたのか、シルヴィオよりもよく知っていた。
そんな理由から、自然と彼女からいろいろなことを学ぶ機会が増えていた。
「リーザさん、本を貸してくれてありがとうございました」
研究所での仕事を終える時刻になって、ルーチェは先日借りた本を彼女に返した。知識面での三年分の差は大きく、記憶を失ってからはルーチェが一方的に借りるだけの関係になっている。そのお礼に、スカリオーネ家の料理長特製の焼き菓子を添えてみた。
「もう読んだの? ちょっと詰め込みすぎじゃない?」
「でも、早く前よりも役に立つようにならないと」
リーザの成長から、ルーチェは自身が記憶と一緒に失った、知識や技術を想像できるようになり、焦っていた。シルヴィオが必死に今後の対策を考えているということもあり、自分だけがのんびり過ごす気にはなれないのだ。
なにかをしなければ、早くシルヴィオの役に立たなければ、と不安を忘れるために知識を詰め込んでいた。
「ほんと、あんたって真面目ね。これは?」
リーザが焼き菓子の包みに気がついて、たずねてくる。
「お屋敷の料理長さんに作ってもらったお菓子です。スカリオーネ家は食事もデザートもとってもおいしいんですよ」
「べつに気を遣わなくてもいいのに。でも、ありがとう……。ねぇ、今度の休日一緒に出かけない? 古本市があるから、掘り出し物の専門書も見つかるかもしれないし、息抜きだって必要よ?」
大人になったリーザは、ルーチェの焦りなどお見通しだった。
休日だとしても、シルヴィオは立ち入り禁止の研究室に籠もって、作業をするはずだ。
彼が、状況を打開するための研究を、ルーチェに手伝わせることはない。きっと彼は、記憶を奪った魔法の理論を知られたくないのだろう。知れば、ルーチェがそれをもとに、奪った記憶を完全に消し去る方法を考える可能性があるからだ。
そしてシルヴィオもリーザも、自分のことは二の次で、とにかくルーチェを休ませようとしている。周囲の気遣いがわかる彼女は、リーザからの誘いを断ることなどできなかった。
「そうですね、シルヴィオ様がいいよって言ったらいきますね」
ちょうどシルヴィオは所長室に呼ばれていて不在だった。記憶を失ってから、彼の同伴なしで出かけたことは一度もない。
「だめとは言わなそうだけど? 病み上がりだから、心配性で過保護なご主人様が、あんたについてきたりして? ……あははっ、ありえそうで怖いわ!」
「……べつに過保護ではないが、なんの話だ?」
リーザが大きな声で笑うので、所長室の扉からちょうど出てきたシルヴィオに聞かれてしまった。ほかの人間から見たら、いつもの無表情のように見えるはずだが、じつは結構不機嫌そうだ。ルーチェは
「あら副所長。……ルーチェが最近根を詰めすぎなので、今度の休みに古本市にでも行こうと誘っていたところです」
リーザはシルヴィオをネタにして笑っていたことなど、もう忘れてしまったように、休日の予定を話しはじめる。
「古本市……トルトヴァ橋のあたりか? ヴァンニが同行するなら、近場だし問題ない」
王都では定期的に古本市が開かれる。トルトヴァ橋の古本市といえば、王都の名物の一つと言っても大げさではない。ルーチェもシルヴィオと一緒に何度も行ったことがある。
「よかったわね! ルーチェ」
「はい! よろしくお願いしますね」
「……間違ってもお仕着せのままで来ないでね。地味すぎるのよ」
「は、はい。私も一応、私服くらいは持っていますから、大丈夫です」
そう言ってみたルーチェだが、私室のクローゼットの中をよく確認していないことを思い出した。
§
屋敷に戻ったルーチェは、寝る前に私服を確認してみることにした。
記憶を失った直後にざっくりと見てみたが、袖を通して合わせていなかったのだ。
クローゼットの取りやすい位置には紺色のお仕着せがずらりと並び、その横には、数着のワンピースがかけられている。どれも十五歳のルーチェには見覚えのない柄で、最近買ったものだとわかる。
記憶のない三年のあいだに、ぐっと大人っぽい装いができるようになったのではと、期待したルーチェだったが、その予想は外れた。多少寸法が変わっただけで、ワンピースの衣装は十五歳の彼女が持っていたものと、代わり映えがしない。
「あれ……?」
クローゼットの一番奥には、あきらかにほかのものとは違う素材の服が掛けられている。
「これ、ドレス……?」
汚さないように注意しながら取り出すと、それは良家の令嬢が着ているようなドレスだった。ルーチェの瞳の色と同じ、青いドレス。ここに置いてある、ということはルーチェのものに間違いないはず。
「どうしたんだろ?」
まるでどこかの夜会に行くときに着るような、とても上等な品物だった。スカリオーネ家でも、上流階級の催し物が披かれるので、そのドレスが夜の装いであることは、ルーチェにもわかる。
彼女は思わず、それを手にとって、よく見える場所に掛けてみた。
普段、特段お洒落に気を遣っていなくとも、こういったものに憧れる気持ちはある。リーザのような、きれいでセンスのよい女性になれたならと、つい思う。
ルーチェは光沢のある布地にそっと触れてみた。すると突然、胸のあたりがもやもやとしだす。
「これ……、きっとだめなものだ……」
ルーチェは急いでそれをクローゼットの中に戻す。もしこのドレスのことを、シルヴィオに詳しく聞いてしまったら、またペンダントの石が割れてしまう。
そんな悪い予感に支配され、ルーチェの額から冷や汗が落ちる。
(やだぁ……。お願いだから忘れたままでいさせてよ! こんな気持ちいらないの。シルヴィオ様を裏切る私なんていらないっ、記憶なんていらない……どっかいってよ!)
彼女はベッドにもぐり込み、目を閉じて、耳をふさぐ。懸命に胸の中にあるもやもやを追い払った。
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