第24話 青いドレス5
リーザと約束をした休日の朝、ルーチェはいつもの時間に起きて、着替えや私室の清掃を済ませたあと、シルヴィオを起こしに行った。
今日はいつものお仕着せではなく、細いストライプのワンピースを着ている。いつもならきっちりまとめている髪も少し変えて、上の部分だけ編み込んで、リボンをつけてみた。
「シルヴィオ様、どう思うかな?」
かわいい、きれいだ、とほめてもらえるのではないか。ルーチェはそんな期待に胸を躍らせながら、扉をノックする。
「おはようございます。起きていらっしゃいますか?」
いつもなら少し待てば返事があるのに、いつまで経っても反応がない。毎日遅くまで研究をしているせいで、眠りこけているのだとしたら、起こすのはかわいそうだ。
「シルヴィオ様?」
もう一度呼びかけて、しばらく待っても、反応はないままだ。今日は休日なのだから、もう少し寝ていてもいいはず。ルーチェは念のため、音を立てないように注意してドアを開けて、シルヴィオの様子を覗いてみた。
「シルヴィオ様!? 大丈夫ですか?」
彼は眠りながらベッドの上でシーツを掴み、苦しそうにもがいている。ルーチェが駆けよって確認すると、彼は額や胸もとを汗で濡らし、目をつむったまま眉間にしわを寄せていた。
「シルヴィオ様! ご気分が悪いのですか?」
何度目かの呼びかけに、彼はやっと重い瞼を開く。ぼんやりとルーチェを見つめて、手を差し出してくる。ルーチェはその手をぎゅっと握りしめた。手のひらに隠された紋章を重ねれば、なにかを感じられるかもしれないと思ったからだ。
「ルー……」
魔力が
「お医者様を呼びますね?」
強く握られた手を無理やりほどき、いったん部屋を出るために背を向ける。彼女が一歩踏み出す前に、手首が掴まれ後ろに強く引かれた。
「わっ!」
ルーチェはシルヴィオに覆い被さるように倒れ込む。両腕が腰のあたりに回され、どうやっても逃れられない。
「どこへ、行く? ……どこへも行かせない……」
意識が混濁しているシルヴィオがつぶやく。
体調の悪そうな彼の胸を、思いっきり圧迫している状況をどうにかしようと、ルーチェはもがいた。男性としては細身のシルヴィオだが、遠慮なしに力を込められると、どう足掻いても無駄だった。
逃れようとすると、彼は余計に力を込めるのだとわかり、ルーチェは作戦を変える。
「シルヴィオ様? 私はずっとここにいますよ。大丈夫ですよ」
ルーチェは手を伸ばし、シルヴィオの頬に触れる。しっかりと瞳を見据えて、安心してもらおうとほほえんでみせた。
うっすらと開いていたシルヴィオの瞳の焦点がだんだんと定まってくる。彼はまっすぐにルーチェを見つめて、安堵の表情を浮かべる。
「……おはようございます、ご気分が悪いのですか?」
「…………」
彼はルーチェの問いには答えず、荒い呼吸のまま、周囲の状況をきょろきょろと確認している。
「シルヴィオ様?」
「……すまない。寝ぼけた」
耳元でぼそりとつぶやく。寝ぼけた、と自覚しているのに、彼はルーチェを離さないままだ。
「悪い夢を見ていたんだ」
「ご病気ですか? お医者様を呼びますから」
「違う! 悪い夢を見ていただけだ。医者などいらない、ここにいろ」
きっとその悪夢は、ルーチェが裏切る夢なのだろう。ルーチェの裏切りは死に繋がる。
彼に守られて、記憶を失ったせいで自覚を持てないままのルーチェとは違い、シルヴィオはずっと死の恐怖と闘っているのだ。
「シルヴィオ様、手を出してください」
ルーチェにできることは、まだ、紋章が今のルーチェたちを蝕んでいないことを示すだけだった。だから、紋章が刻まれているはずの手のひらを重ね、強く絡める。
彼女はそこから、彼の冷えた手に熱が伝わればいいと祈った。
「私、ここにいますから……」
シルヴィオの呼吸が整うまで、ルーチェはそのまま彼に抱きついていた。段々と呼吸が落ちつき、身体に熱が戻ると、彼のほうからゆっくりと離れていく。
「すまない、本当に」
「いいえ! ……そうだ、汗を拭きますのでちょっと待っていてくださいね? ご病気じゃないのなら、朝食は食べられますよね?」
シルヴィオが正気に戻ると、とたんに恥ずかしくなり、ルーチェはぱっと立ち上がる。そして、少しずるい言い方で、朝の弱い
「……いつもの、果物を頼めるか? 汗は自分で拭くからいい」
「はい」
六つ年下の、精神的には九つも年下の女性に甘えてしまったことが、彼には恥ずかしかったようで、伏し目がちに顔を赤らめていた。
ルーチェは急いでタオルや着替えの準備だけしたあとに、朝食を用意するために部屋を出る。
屋敷の調理場を覗くと、恰幅のよい料理長が、早くも昼食の仕込みをしていた。
「お嬢ちゃん、今日はいつもと髪型が違うじゃないか? 若様とお出かけかい? よく似合っているよ!」
シルヴィオより先に、料理長にほめられたことを、ルーチェはなんとなく残念に感じてしまった。
「おはようございます。お出かけなんですけど、相手はリーザさんです。この前、本を借りた……あ! お菓子ありがとうございました」
「いいってことよ。……朝食だろ? 待ってな」
今朝の朝食は、ルーチェの好きなベーコンや卵もついてくるらしい。料理長が手際よくフライパンに卵を落とし入れる様子を見ながら、ルーチェは紅茶の用意をした。
数分待てば、いつもどおりの朝ご飯がトレイに上に並べられていく。彼女は二人分の朝食が乗せられたトレイを器用に運んで、主の待つ部屋へと戻る。
「今日は、ヴァンニと出かけるのだろう?」
「えっと、今日はやっぱりお屋敷に居ようかなと……」
ルーチェは主のことが心配で、出かける気にはなれなかった。シルヴィオがひどくうなされていた原因は、彼女にあるのだから。だから一度リーザに事情を説明に行って、すぐに帰るつもりだった。
「だめだ。友人との約束はやぶるべきではないし、私も自分の研究があるからここにいても無意味だ」
「ですが、本当に大丈夫なのですか?」
「さっきは悪い夢を見ただけだから、おまえの気にすることではない」
「……わかりました」
シルヴィオはいつもルーチェを気にかけて、彼女が傷つかないようにしてくれている。けれど、違う。彼が平気だと口にするたびに、頼られていないのだと思えて辛いのだ。
年齢の差は縮まることはなく、記憶がないせいでむしろ開いた。ルーチェにはそれが辛い。わかったふりをするのは、本当のだだっ子になりたくないから。ただそれだけだ。
「どこで待ち合わせをしているんだ?」
「リーザさんのお家はトルトヴァ橋に行く途中なので、私が彼女のお家に行くことになっています」
リーザは一人暮らしで、トルトヴァ橋近くの利便性の高い場所に部屋を借りている。以前、西の塔へ行ったときに送ったことがあるので、場所は知っていた。
「なら、屋敷の馬車を使えばいい」
仕える立場のルーチェが、遊びに行くために馬車を出してもらうことは、はばかられた。
「帰りは自分で馬車を拾えるな?」
彼女が頷けずにいると、シルヴィオはまるで決定事項のように勝手に話を決めてしまう。
「ありがとうございます、シルヴィオ様。それでは、私は支度をして、行ってきますね!」
リーザの「心配性で過保護なご主人様」という言葉は、間違っていなかった。拒否すると彼が心配するとわかっているルーチェは、素直に礼を言うことにした。
「……今日はあまり見ないかたちの髪型だ」
ルーチェが朝食を片づけて、部屋から去ろうとすると、シルヴィオが小さな声でそう言った。
「変でしょうか?」
「とくに変ではない」
そんな言葉で、ルーチェの心はなぜかあたたかくなる。今朝、彼女が想像した、かわいいなどという言葉が、彼の口から発せられることなどないのだ。
けれど、髪型の違いに気づいている、と一応伝えてくれる。
それがルーチェが大好きな、シルヴィオという青年なのだ。
「……楽しんでくるといい」
「はい、今日は私がおみやげを買ってきますね?」
ルーチェは笑顔でシルヴィオに挨拶をして、屋敷をあとにした。
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