第29話 恋心3



 観劇が終わったあと、軽く食事をしてから屋敷へと戻る。

 シルヴィオがわざわざルーチェの私室まで送ってくれた。


「今日は楽しかったか?」


「はい、とっても楽しかったです」


 楽しかったのは本当だ。でも歌劇の中身を楽しめたかどうかを問われると、ルーチェは困っただろう。内容がまったく頭の中に入らなかったのだ。


「そうか、次の休みは別のところへ行こう。どこがいいか考えておくといい」


「急にどうなさったんですか……?」


 シルヴィオは暇さえあれば研究ばかりしている。きっと本人は屋敷にこもって専門書を読みあさるか、日当たりのよい場所で昼寝をするのが至福の時間なのだろう。

 ルーチェは彼のそばにいられるだけで幸せで、どこかに連れていってほしいなどと、考えたこともなかった。


「最近、周囲が騒がしい」


「ベネディットさん、ですか? でも、私はちゃんと――――」


 周囲が騒がしい、という言葉で、ルーチェがすぐに思い当たったのはベネディットのことだった。彼から好意を向けられていることはさすがの彼女にもわかる。そしてシルヴィオがそれを嫌がっていることも、当然知っている。


「知っている。それもあるが、私のほうでも部外者がいろいろと口を出してくるから」


「いろいろ?」


「スカリオーネ家の跡取りが、婚約者すらいない……とか。分家の者たちがうるさい」


 分家の大人たちが、シルヴィオに結婚の話を持ってくるのだ。できることならば、スカリオーネ家次期当主に娘を嫁がせたいと目論む者は多い。

 ルーチェの頭の中に、オリエッタやエルサの顔がちらついた。


「ご結婚される、ということですか?」


「しない。したいとも思っていない」


「…………」


 スカリオーネ家唯一の跡取りに、そんなことが許されるのだろうか。ルーチェは、今まで考えることを避けていた将来がすぐそこまで迫っていることを知った。

 主従の信頼関係で契約が成り立っているのだから、シルヴィオが結婚しても問題はないはずだ。けれど、ルーチェの心は不安でいっぱいになる。バレスティ国の記録上、前例のない契約にはなんの保証もないのだから。


「そんな顔をするな。たぶん、私は幸せなのだろうな。もしも、三年前に戻ったとしても同じ選択をする。後悔したことなどない」


 ルーチェにむけられる瞳はいつも優しい。いつも隣にいるのに、今日の彼はどこかおかしかった。


「正直、私にとって歌劇などどうでもいい。だが、今日は楽しかった。おまえの着飾った姿は、きれいだと思う。……おやすみ」


 思いがけない言葉に驚いて、ルーチェは返事すらできない。シルヴィオも視線を合わせないまま、立ち去った。


 身体の火照りは急激に、あとからやってくる。「おまえの着飾った姿は、きれいだと思う」という言葉がルーチェの頭の中に何度も響いた。


「シルヴィオ様……、だいす、き……」


 自分だけに聞こえる小さな声で、ルーチェは素直な気持ちを口にしてみる。その言葉は、出会って八年のあいだで何度も直接言ったことがある。本人に、ためらわず言ったことだってある。

 けれど、昨日までとは明らかに違う意味で、はじめて言葉にしたのだ。

 今までは比較する人がいなかった。だから好きの種類に気がつかなかった。ルーチェの周囲が、いつまでも子供のままでいることを認めてくれなくなった。それではじめて、シルヴィオがどういうふうに特別かを考えるようになったのだ。


 口にしたら、余計に実感がわく。ルーチェはベッドに寝転んで、止められなくなった気持ちに身をまかせた。せっかく買ってくれたドレスがしわになってしまうかもしれない。わかっていても、煩わしいことなどすべて忘れて、大好きな青年のことだけを想っていたかった。



 §



 それから、シルヴィオは休みになるとよくルーチェを連れ出すようになった。華やかな場所ではなく、ピクニックだったり、おいしいものを食べに行ったりといった、二人が無理をしない範囲でのちょっとしたお出かけだ。

 噂になってもかまわない、とシルヴィオが言っていたとおり、彼がルーチェを観劇に連れていったことはすぐ、世間に広まっていった。

 スカリオーネ家と縁を持ちたい他家の人間の何人かは、屋敷に乗り込んでくるような勢いだった。

 ルーチェはシルヴィオがどういう考えでいるのかを知らないまま、それを聞けないでいる。十六歳のルーチェには、これまでの関係を壊す勇気がなかったのだ。


 ある日の休日、ルーチェは調べ物をするために図書館へ来ていた。

 シルヴィオから急ぎの仕事を頼まれたのだ。かなりの量の資料をかき集め、必要な項目を書き写す仕事で、下手をすると夕方になりそうだった。

 シルヴィオは屋敷で来客があるのだと話していた。いつも一緒にいることが多いせいで、なんとなく寂しさを感じてしまうルーチェだ。けれど、仕事を任せられたことは嬉しく、かなりはりきっていた。


「あら、ルーチェじゃない」


 ルーチェが一人で黙々と作業をしていると、突然声がかけられた。彼女が視線を上げると、リーザが本を抱えて立っていた。


「リーザさん、偶然ですね」


 いつも頭の高い位置で束ねられている赤毛が、今日はおろされている。それだけで少し、柔らかい印象だ。


「あたしはよく来るのよ。あんたのところみたいに、無制限に本が買えるわけじゃないんだから。めずらしいわね、一人なの?」


「シルヴィオ様は用事があるみたいです。急ぎの調べ物があるので、私が代わりにやっています。これでも助手ですから!」


「あっそう。……で? 具体的になにをしてるのよ?」


 リーザが興味を示したので、ルーチェは主からもらった何枚かの紙を見せた。そこには小さな文字で、びっしりと植物の名が記されている。

 ほとんどが、薬として使われる薬草だ。


「ここにある植物について、成分や効能を調べています。専門書から内容を転記して、出典も記載して……」


「こんなに!? 一人で?」


 ルーチェが作っている資料のうちの一枚をリーザに見せると、彼女はあんぐりと口を開けた。


「はい。終わらなかったら、日暮れ前には帰ってきていいと言われてます。閉館してしまいすしね」


「ふーん。昼食をおごってくれるなら、手伝ってあげようか?」


「いいんですか!?」


「だって、あたしも一応部下だから、知っておいて損はないと思うのよね」


 リーザは、とくに用事があって図書館へやって来たわけではなく、自主的に知識を広めようとしていたのだ。もともと面倒見がいい性格ということもあり、そう申し出てくれた。


「じゃあ、お願いします」


「とりあえず一時間集中して作業して、昼食をとった後で再開しましょう」


「はい!」


 リーザが手伝ってくれたお陰で、昼を食べて少ししたところで、仕事がすべて終わった。二人はお互いに競い合う関係なので、つい相手よりも早く完璧に仕事をしなければ、という気持ちになる。結果的に、とにかく集中して作業に没頭することになったので、効率よく仕事が終わったのだ。


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