第30話 恋心4
リーザの手伝いと二人の張り合いのおかげで、昼過ぎにはすべての調べ物が終わる。早く終わったお礼にと、紅茶とケーキを二人で食べてから、ルーチェは屋敷に戻った。
使用人用の出入り口から屋敷に入り、ほかの使用人に帰宅の挨拶をする。今日、屋敷を訪れた客は、少し前に帰り、シルヴィオは居間にいると同僚からおしえてもらう。
彼女はいったん図書館で作った資料や荷物を研究室に置きに行き、エプロンを着けてから
居間では、主たちが話をしていた。だからルーチェは、邪魔をしないように帰宅の報告はあとにしたほうがよいのか、様子をうかがう。
「もう少し、時間をくれませんか?」
響いてきたのはシルヴィオの声だった。
「わかっているが、十六家の跡取りとしてずっとそのままというわけにはいかない。おまえはとっくに成人しているのだぞ! 今日は断ったが、縁談の話は腐るほどわいてくる。いつまでも婚約者すら定めないわけにはいかない」
立ち聞きなど、してはいけないこと。けれどルーチェはすぐにその場から立ち去ることができなかった。
今日の来客は縁談相手だったのだ。シルヴィオがめずらしくルーチェに大量の仕事を命じたのは、縁談相手の令嬢と会わせないようにするためだった。
「だったら、私のことは廃嫡して、分家から養子でもとればいいのでは?」
「ばかな! 紋章所有者の廃嫡など、王家が許すはずもない」
シルヴィオもカルロもだんだんと声が大きくなってくる。明らかにルーチェと関係のある話だった。
「ルーチェは、まだそういうことを自覚できる年齢でも、割り切れる歳でもないので。あと一年か、二年か……時間が欲しい」
「それで、なにが変わるというのだ!」
「契約を解消する方法を完成させます」
どくん、どくんと心臓がうるさい。ルーチェは絶対に聞いてはいけないことを、聞いてしまったのだ。
立ち入り禁止の研究室で、
(シルヴィオ様、私との契約を後悔していないって言ったのに……)
あの言葉はいつわりだったのかもしれない。シルヴィオは二人の関係がずっとこのまま続くとは、信じていないのだ。
「前例のないことを、どれだけ積み重ねる気だ! 死ぬぞ?」
死ぬ、という言葉は立ち聞きをしている彼女の心に深く刺さる。主に命を助けてもらったくせに、過去だけではなく、彼の未来まで独占しようと考えるルーチェはとても狡い人間だ。
彼女には、シルヴィオを責める権利がない。
「あなた、シルヴィオ、落ち着いて。心の問題はどうにもならないわ。誰もが合理的に割り切ることができるのなら、過去の偉大な魔法使いたちだって、紋章によって命を落とすことなんてなかったわ」
「だが!」
「わたくしたちにできることは、二人の盾になることしかないのよ。うるさく言ってくる者から、子供たちを守るしか……」
ルーチェは話が終わる前に、その場を立ち去った。
§
いったん私室に戻ったルーチェは、とにかく心を落ち着かせようと必死だった。シルヴィオも、スカリオーネ夫妻も、ルーチェのことを考えてくれている。未熟な彼女が傷つかないように、心を病まないように、気遣ってくれている。
これ以上迷惑をかけないためには、不安を悟られるわけにはいかなかった。
何度も深呼吸をして、鏡の前で笑顔の練習をして、「大丈夫」と自身に言い聞かせる。それからなにごともなかったかのように、部屋を出た。
研究室に戻ると、ちょうど話を終えたばかりのシルヴィオが部屋に入ってくる。
「シルヴィオ様、ただいま戻りました」
ちゃんと笑顔を作れているか不安になりながら、ルーチェは普段通りの彼女を心がける。
「ずいぶんと、早かったな?」
シルヴィオはさっそく机の上に置かれていた資料の中身を確認しはじめた。何枚かめくったところで、別人の筆跡で書かれた文字に気がつき、顔をあげる。
「じつは、図書館でリーザさんに会って、手伝ってもらったんです。リーザさんも勉強になるからって」
「そうか、じゃあ私から礼をしておこう」
「昼食代とお茶とケーキ代は私が出したんです。仕事は早く終わったし、楽しくお話しできて……今日はすてきな一日でした」
仕事を任されたことも、リーザと競い合いながら資料を作ったことも、一緒に食事をしたことも、全部楽しかった。最後に、ルーチェが愚かなことをしなければ、本当にすてきな一日で終わっていたはずだ。
「よかったな」
「どうしたんですか? なんだか元気がないです」
本当は、シルヴィオの表情が曇っている理由なんて知っている。それでも、今のルーチェにはわざとわからないふりをすることしか、彼のためにできることがなかった。
「面倒な客が来て、正直疲れた……」
「シルヴィオ様?」
シルヴィオは研究室の簡素な椅子に座ったまま、そばに立つルーチェを抱きしめた。
「とても疲れたんだ。あと少し……」
大好きな人に今はまだ、必要とされている。だからルーチェはそのままで、シルヴィオの頭をなでてみた。彼にされて、心が満たされるのと同じように、彼も同じ気持ちでいてくれたら。
そう思うのに、この時はじめて、ルーチェの左手にある紋章が、チクリと痛んだ。
ルーチェはそれに、気がつかないふりをした。
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