第31話 契約者1



 ――――青いドレス。二人の青年。私が好きなのは、誰だった?



 十六歳のルーチェが、想っていたのはシルヴィオだった。それまでの彼女は、親愛と異性に対する愛情の差がわかっていなかった。それに気がついたのは、シルヴィオの縁談や、ベネディットから向けられている好意があったから。誰かと比べることで、はじめてシルヴィオがどれくらい特別なのかを知ったのだ。


 目覚める直前、ルーチェは自身が現実の世界で泣いているのだとわかった。悲しいからではなく、ただ胸が熱くて泣いている。

 彼女は誰かが頬に触れ、涙を拭っている感触で目を覚ます。そばにいたのは、やはりシルヴィオだった。


「シルヴィオ様……」


 火事があって、リーザたちと別れた直後に倒れた。

 外はもう真っ暗で、ルーチェの部屋には橙色だいだいいろの明かりが一つだけ灯されている。


「大丈夫か?」


 あたたかい色をした明かりに照らされて、浮かび上がるシルヴィオの表情は、不安気だ。

 ルーチェはベッドから身を起こし、近くに座っているシルヴィオと目の高さを合わせる。


「私、また記憶が戻ってしまいました。十六歳の私は……」


 シルヴィオのことだけを想っていた。そう言いかけて、彼女は言うのをためらった。シルヴィオを好きだったのなら、紋章がルーチェを蝕んだ理由が説明できない。人の気持ちは変わるものだ。

 彼女にはまだ二年分の記憶がないままだ。けれど、半分戻ってしまったということは、いずれ残りの半分も、ルーチェの中に戻ってくるということ。

 先ほど思い出した一年分で、ルーチェがシルヴィオに対し抱いている感情は、あきらかに変わっていた。残りの二年、さらに変わらない保証などなかった。


「十六歳の私は、やっぱり変わらずシルヴィオ様にお仕えしていました」


 彼女はおかしな気持ちになった。また、ルーチェの“昨日”が二つあるせいだ。

 つい先ほどまで――――十五歳の心を持った彼女なら、ためらわずに「シルヴィオ様が大好き」と言っていた。それが急にできなくなってしまった。

 簡単に、嘘をつけるようになるのが、大人になっていくということなのだろうか。そう考えると、ルーチェは少し寂しかった。


「なぜ、泣いていた? 嫌なことがあったのか? ずっと一緒にいたはずなのに、十六のおまえの涙など、見たことがない。私の知らないところで、本当は泣いていたのか?」


 シルヴィオがルーチェを見つめる瞳は、何歳でもまったく変わらない。いつも、心配して、気遣って、優しく見守ってくれている。彼が変わらずにいてくれるから、心の年齢がころころ変わっても、彼女は壊れずにいられるのだ。

 変わっていくのはルーチェのほう。彼女は、これからの自身の変化を受け入れるのが怖かった。


「……違います。嫌な気持ちじゃなくて。青いドレスをくださって、観劇に行って、すごく楽しかったんです。短い時間で、いろんな気持ちが流れ込んできたせいで、驚いてしまったみたいです」


「おまえは前回、同じような感情になったせいで記憶が戻った、と言っていたが、今回のきっかけがわかるか?」


「……ごめんなさい。ちょっと目が覚めたばかりで混乱してるみたいです。観劇に行ったり、リーザさんと仲良くなったり……楽しいことがたくさんあった、というのはわかるんですけど、前みたいに一つに絞れなくて」


 これも、また嘘だった。シルヴィオを大好きな気持ちに気がついたから、とはどうしても口にできなかった。


「今日、ヴァンニと出かけたせい、なのか? ……だとしても、やはりなんの感情も抱かないように生活することを強要などできない。不可能だ」


 なにも経験しなければ、保有している魔力と精神の均衡が崩れ、心が壊れてしまう。その説明は最初に記憶が戻ったときに、シルヴィオから聞かされていた。ルーチェは、これ以上追求されないように、わざとリーザと出かけたことがきっかけになったかもしれないと、誤解される言い方をした。


 話しても、話さなくても、残りの時間がたいして残されていないことには変わらない。


「打つ手がない、か……」


 このまま、記憶が戻るのをただ待っていたら、シルヴィオに時間をもらった意味がなくなってしまう。

 だから彼女は“一回目のルーチェ”が取らなかったはずの道を選ぶことにした。シルヴィオの秘密の研究、その内容がなんなのか今のルーチェはもう知っていた。


「私にかけた記憶を奪う魔法は、契約を取り消すための魔法の研究から、生まれたものですか?」


 シルヴィオの瞳が見開かれる。

 すでに知っていることだが、本人に直接聞くことは、勇気がいる。ルーチェの手は震え、それを隠そうと布団の中にしまった。


「……なぜ、そう思う?」


 すぐに否定しないことで、ルーチェの予想が正しいのだとわかる。


「本当はシルヴィオ様がいつも一人で、どんな研究をしているか、なんとなくわかっていました。認めるのが嫌だったから、知らないふりをしていたんです」


「私は、おまえを遠ざけるつもりで研究をしていたわけではない! 紋章は、多くの魔法使いの命を奪った危険なものだ。だから私は……」


 契約の解消方法を探すことは、過去のすべてを否定することとは違う。あのとき契約をしたことと、この先も関係をずっと続けていくことは、まったく別の話だ。

 十六歳の記憶の中で立ち聞きしたとき、ルーチェはシルヴィオとの絆に絶対の自信があった。だから必要のない研究をするあるじの行動が理解できずに、裏切られた気持ちになった。けれど、今は――――。


「シルヴィオ様のしていたことは、正しかったんです。紋章が危険なものだって、私が証明してしまいましたから」


 すでに、十八歳のルーチェが契約を維持できなかったことはわかっている。だとしたら今できることは別の選択をすることだけだ。


「私は、十八歳の私のことを信用できません。だから、その前に……紋章を消す方法を、探しましょう! 一人でやるよりも、二人のほうが、きっといいはずです」


 それが、今のルーチェがシルヴィオを守れる唯一の方法だ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る