第12話 儚い望み6



 三十分ほどするとシルヴィオが目を覚ました。そのあとは、ゆっくりとした流れの小川に沿って、帰る方向へ歩む。小川の付近の地面は常に湿っていて、湿地を好む薬草がとれるのだ。


「シルヴィオ様、ここ……すごくきれいです!」


 森の奥深くに、切り開かれた空間が広がっている。雷で自然に倒木が起こる可能性はあるが、それではこんなに広い空間はできない。火事なら周辺の木々に名残が刻まれる。

 おそらく何年も前に、人が木を切り倒して作られた空間。昔、このあたりで木こりをしていた者でもいたのだろう。今は無人で、木々がないことから深い森の中では見られない、日の光を好む花が咲き誇る花園になっていた。

 自然に還る途中、といった様子のその場所は、物語に出てくる理想郷ユートピアそのものだった。


 ルーチェは群生している真っ赤な花に心を奪われた。手のひらと同じくらいの大きな花。近づくと漂う甘い香りがする。とても優しい香りだ。


「戻れ」


 彼女が一歩、花園に足を踏み入れようとすると、少し離れた場所にいたシルヴィオがそれを止める。

 次の瞬間、見えないなにかにぶつかり、鼻を強打してしまう。


「い、たっ!」


 シルヴィオが咄嗟に、壁を作ってルーチェの進路を塞いだのだ。彼女は、止めるならもう少し優しいやり方でお願いしたいと、抗議の視線を向ける。けれどシルヴィオは、険しい表情で美しい花園をじっと観察している。


「これは、パヴェロの花だ……毒、というより幻覚作用がある」


「幻覚……って、いけない薬の材料ってことですか?」


 シルヴィオは頷く。さっきまでとても美しいものに見えていた花園が、急に禍々しい場所に思えてくる。ルーチェは後ずさりしてなんとなく鼻をつまんでみる。


「花やその香りにはたいした作用はない。花弁が落ちたあとの……いや、それは説明する必要はないだろう。とにかく、医術に使われる種類もあるが、真紅の花は、だめだ」


「どうするんですか?」


「燃やす」


「へ……?」


 言った瞬間、花畑から炎が上がる。赤い花の咲く場所全体に広がるまで、瞬きを三度するくらいの時間しかかからない。


「か、火事にぃ!」


 森が火事になるから炎の魔法は使ってはいけない。そう言っていたのはシルヴィオ自身だ。慌てるルーチェのほうを見ることなく、シルヴィオは落ち着いた様子で、魔法で起こった火事の様子を見ている。


「空間を遮断してある」


 花畑を焼きつくす炎は、一定の場所で壁にあたるような不自然な燃え方をしている。シルヴィオが結界の魔法で壁を築いているのだ。

 そして最後に、壁の上に同じ結界の魔法でふたをすれば、火は自然に消える。

 完全に鎮火してから、シルヴィオが結界を解いた。透明な壁が消失する瞬間は、熱と焦げ臭いにおいでルーチェにも伝わってくる。


「少しでも火種になるものが残っていると、本当の火事になる。……水の魔法を使ってみるか?」


「やっても、いいんですか?」


「大規模な魔法を使える機会など、ほとんどないから……練習になるだろう」


 目が覚めてから使った魔法といえば、紅茶二杯分のお湯を沸かすという繊細だがほんの小さな魔法だけ。それ以前も、紋章の所有者だということは隠されていたので、本気を出したことなどほとんどない。

 森の奥深くならば、誰かを巻き込む可能性もないし、いざとなったらシルヴィオが助けてくれる。

 わざわざ彼女に大規模な魔法を使わせるのは、目が覚めてからの調整のためなのだろう。


「よーし!」


 ルーチェは魔法使いとしての基本を思い出す。まずは状況を確認してよく観察すること。

 水を使うなら、大気に含まれる水分を取り出すか、周辺にある水を運んでくるかのどちらかだ。

 大気中の水分を取り出す魔法はかなり高度で、たくさんの魔力が必要になる。すぐそばには小川が流れているのだから、水を運ぶのは簡単だ。

 ルーチェの腕輪には合計六個の石が使える状態になっている。それだけでも十分、一流の魔法使いと言えるのだが、本来扱える数の三分の一しかない。


「うーん、小川から水を持ってくるほうがいいですか?」


「思った通りにやってみろ」


 どういう魔法をどういう規模で使うのか、それを考えるのが魔法使いの一番重要な部分だ。ルーチェは師でもあるシルヴィオから習った基本を思い出しながら、腕輪のついている手をかざす。

 いつも教わっていること。紋章がもたらす膨大な魔力で過信せず、効率のいい方法をとること。

 もし戦いであれば、一度の魔法ですべてが終わるわけじゃない。だから、小さな魔法で、できるだけ時間をかけず。これが基本だ。


 小川の水が風によって舞い上がり、焼けた花園に降り注ぐ。天気雨のように水滴がきらきら輝き、大地の熱を冷ましていく。


「上出来だ」


 シルヴィオが、めずらしく誰が見てもわかるほどはっきりと笑った。



 §



 二人は日が傾かないうちに、馬車を降りた場所まで帰ってきた。

 スカリオーネ家の馬車は同じ場所に止まっていて、馭者をしている使用人が扉をあけてくれる。


 しばらく寝込んでいたせいなのか、本人の感覚で体重が増加してしまったせいなのかはわからないが、ルーチェは疲れを感じていた。

 ふくらはぎが張っていて、固いブーツを履いていたせいで足先も痛い。

 馬車のほどよい揺れが眠気を誘い、彼女ははつい船を漕ぎはじめる。


「屋敷に着くまで寝ていろ」


「い、いえ! 大丈夫です」


 ご主人様を差し置いて、ルーチェが眠るわけにはいかない。


「私もさっきそうしただろう? 膝を貸す」


 シルヴィオは強引に、ルーチェの肩を押して、どうあっても膝枕をする気だ。ルーチェはあきらめて目を閉じた。

 するとさらりと流れた彼女の髪にシルヴィオが触れた。邪魔にならないように彼女に耳にかけ、ついでにピアスに触れたり、頭をなでたりしてくる。



(ぜ、全然眠れないです……)



 きっと悪気はないのだろう。ルーチェの記憶では、嵐の音が怖くて眠れないと、そんなことをしてもらっていた気がする。けれど、あるじの布団にもぐりこんだりしていたのは、十歳くらいまでの話。もしかしたら、シルヴィオは“四年前のルーチェ”の接し方を勘違いしているのかもしれない。精神的には八歳下になってしまった彼女を、完全に子供だと思っているのだ。

 嬉しいような、恥ずかしいような気持ちで、ルーチェはぎゅっと目を閉じたまま、寝たふりをする。


 シルヴィオの膝は少し固い。それに今日は森の中を歩いたから草と土の香りがする。けれど心は幸せを感じ、屋敷に戻るまでずっと寝たふりをしていたかった。


「このまま、記憶なんて返さずにずっとこうしていられたら……」


 小さな声で、彼が独白する。


 こんなに幸せな気持ちになれるのに、どうしてそれを望んではいけないのか。ルーチェは寝たふりをやめて、ずっとこうしていてもいいのだと彼に言いたかった。



 ――――心があたたかくて、幸せで、とても不安・・・・・



 不安、という気持ちはいつからそこにあったのだろう。なぜ、そんなことを考えているのだろう。わからないまま答えを探そうと、彼女は心の内に意識を集中させる。


「……うぅっ!」


 その感情は、十四歳のルーチェのものではない。もっと先の、成長した彼女の気持ちだった。


「……どうした!? ルーチェ!」


 微かに残った、十四歳のルーチェが知らない感情の欠片。その存在に気づいたとき、彼女はぽっかり抜け落ちた心の一部を求めた。


 パリンと何かが頭の中ではじける。ひどい頭痛、そして目の前を闇が取り囲む。闇はシルヴィオから、正確にはシルヴィオのペンダントから発生している。


「こんなに早く? やめろっ! 思い出すな。……ルーチェ!」


 シルヴィオが呼びかけても、ルーチェは壊れた石から流れ出た記憶に囚われて、そこに引きずり込まれていった。


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