第6話 契約4
ルーチェは水の中で溺れる夢を見た。もがいても身体は動かない。ひどく苦しくても、水の中だから声が出ない。このまま水底まで沈んでいくのだ。けれど、よく知っている声が彼女の名を呼ぶので、眠りたいのに眠れない。
もう静かにしてほしい。鬱陶しいと思いながらも、彼女はその声に導かれ、重いまぶたを開く。
「ルーチェ……」
夕日がやけに眩しく、覗き込んでいる人物の姿がよく見えない。けれど声だけで、シルヴィオが助けに来てくれたのだとわかった。
嬉しくて、涙があふれる。
シルヴィオ以外の声で「馬車が横転」、「運が悪かった」、「荷物の下敷きとは」、「内蔵をやられている」という話し声が彼女の耳に入っては、通り過ぎていく。検問をしていた兵の声だ。
ルーチェはシルヴィオの声だけを聞いていたかった。息が苦しく、服が濡れている。息が苦しいのは肺や内臓をやられているから。服が濡れているのは、血が流れているから。だから、水の中で溺れる夢を見たのだろうか。
「よかった。とっても怖かったの……。シルヴィオ様がきてくれたから、もう、怖くないの」
きちんと言葉にできているのか、彼女自身もわからなかった。聞こえてきた兵の話で、助からないほどの重傷を負ったのだということは、理解できていた。
だから、とにかくシルヴィオに思っていることを言いたかった。
「……癒しの魔法が得意な者のところまで連れていく。それまで、我慢しろ」
「イメルダ様が、お菓子を買って来てって……。お使い、ちゃんと、できなくて……」
なにか、伝えたい。そう思うのに、苦しくて上手く考えることができない。
「もういいから、話すな」
シルヴィオが泣いていた。大切な人が泣いている。ルーチェにとってはそれが一番悲しかった。
「……チョコレート」
「今は持っていない。屋敷に帰ればいくらでも食べていい。だからっ!」
誰かを泣き止ませるのはチョコレート。ルーチェは彼に泣き止んでほしくてその言葉を口にしたのに、上手く伝わらない。
馬車の用意ができた、と誰かの声がする。その言葉を聞いたシルヴィオがルーチェを抱き上げようとする。
少し身体を動かすだけで、尋常ではない痛みがルーチェの全身を駆け抜けた。
「……あたたかいけど、動くと、痛いの。下ろして、……横になりたい。……もう、休みたい、です……」
「…………」
きっともう間に合わないのだろう。シルヴィオは無言で、ルーチェを地面に下ろし、ぎゅっと手を握る。
「シルヴィオ様、ごめんなさい」
悲しい思いをさせている。八歳から十三歳までの五年間、ルーチェは彼の涙を一度も見たことがなかった。
「……私と契約してみるか?」
ルーチェにとって、それはおとぎ話や昔話で語られるだけの、伝説のようなものだ。魔法使いの家系に生まれた女の子なら、誰でも一度は夢みたことのある、奇跡の魔法。もちろん周囲の大人たちからは、紋章の有益性よりも危険性のほうを強調して教えられる。それでも、将来好きになった人と同じ印を手に刻むことにあこがれた。
「契約、好きな人と。……だめなこと」
シルヴィオはルーチェの
「私が嫌いか?」
「す、き」
意識がもうろうとしているせいで、素直な言葉しか出てこない。
「それなら問題ない。そうだろう?」
シルヴィオがそう言うならば、そうかもしれないと彼女は思った。
きっと二人が冷静だったら、こんな馬鹿げたことはしなかった。シルヴィオは家族のようにともに暮らしている、守るべき存在が瀕死の重傷を負って、必死だった。
そしてルーチェもシルヴィオの涙を止めることしか、考えられなくなっていた。
だから、シルヴィオが左の手をとり、ナイフで手のひらに傷つけるのを、ただ受け入れる。
「すまない」
シルヴィオの右の手、ルーチェの左の手が重なり、傷つけた部分から血液と魔力が溢れ出る。
「……ど、すれば……?」
ルーチェは「契約の方法は、その血が知っている」という言葉だけ教わっていた。具体的になにをすれば契約が成立するのか、まだ知らない。
「そうありたいと願うだけでいい。私と一緒にずっといたいと思うだけでいい。一緒に生きるのだと、心から誓えばいい」
シルヴィオと一緒に生きる。それだけでいいのならルーチェは迷うことなく、誓える。ずっとずっと一緒にいたいと、心から思っているのだから。
「あったかい……あったかいよ……」
傷ついた手のひらから身体の中に、シルヴィオの魔力が入ってくるのを感じていた。それを拒絶することも受け入れることもできるのだと、魔法使いの血が教えてくれる。そしてルーチェは、受け入れるほうを選んだ。
「これが、魂が混ざるということか」
シルヴィオのつぶやきに、ルーチェは心の中で同意する。とてもぴったりな言葉だと思った。
全身の、とくに腹部の痛みが驚くほど引いていく。シルヴィオの魔力が、彼女の傷を癒していく。彼は癒しの魔法は得意ではないが“伴侶”に対しては別なのだろう。
「見てみろ。同じ紋章が刻まれた」
血の赤で刻まれた紋章は、スカリオーネ家を表す紋と同じ、花のかたちだった。
「アネモネの花」
「たとえ儚い花でも、かまわない。いつわりだとしても、いつかそれを真実にできれば……そうだろう?」
こうして二人は、同じ“契約の紋章”を宿す、いつわりの“伴侶”になった。
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