第7話 儚い望み1



 契約を交わしてから、ルーチェは王立魔法研究所に出入りするようになった。契約の紋章をもつ者は、現在ルーチェたち二人以外に誰もいない。しかも、ただの主従関係、という前例のない条件での契約成立だ。当然それ自体が研究の対象にされた。そして、あまりに特殊すぎてひとまず極秘扱いとなっている。


 乱世と呼ばれていた時代、多くの者が紋章の力を欲し、その身に宿した。そしてほとんどの者が数年持たずに命を落としたという。

 今の時代、その力を進んで宿そうとする者はいない。純粋な力よりも、政治的な駆け引きが重視される時代に変わったのだ。

 だから、命をかけてまで強い力を宿す意味がなくなってしまった。さらに、魔法使いの血が広まりながら薄まって、禁呪とされるほどの魔法を扱える人間が減っている。


 だからルーチェとシルヴィオは数十年ぶりの紋章所有者ということになる。


 愛情以外で契約が成り立つというのが事実なら、紋章所有者を簡単に増やせる。愛情よりも主従の信頼のほうが、その関係の維持がたやすいという予測もあった。たった二人で軍の大隊にも匹敵するとされる力の所有者を増やすことは、争いの火種にしかならない。

 王家は、他家が強大な力を持つことを恐れ、二人のことを秘密にした。


 二人の契約の事実を知る者は、スカリオーネ家の当主夫妻、研究所のトップを務める王弟、そして国王などごく一部にとどめられた。

 シルヴィオの右手、ルーチェの左手にある紋章は、魔法で隠され、大規模な魔法を使わない限り、他者からは見えないようになっている。


 それから約一年、ルーチェはシルヴィオの助手としての、研究所での仕事にも慣れ、ほとんどの時間を彼と過ごすようになった。

 二人の信頼関係は不変で、契約の紋章を持つ魔法使いとしての力も安定している――――それが十四歳のルーチェの認識だった。


 まさか、たった四年ですべてが崩壊するとは、今のルーチェには到底信じられないことだ。

 とりあえず記憶を失った彼女が今できることは、これまで以上に一生懸命働いて、誰にも心を動かされないようにすること。

 だからルーチェはさっそくシルヴィオの助手として、一緒に王立魔法研究所へ向かう準備をしていた。


「おまえは連れて行けない。まだ寝ていろ」


 部屋を出て“昨日”と同じように、シルヴィオについていこうとしたルーチェを、彼はベッドに押し戻す。暇つぶし用なのか、魔法についての本やルーチェの好きな物語を机の上に積み上げた。


「ええっ? でも、私は元気ですよ! 一緒に行きたいです」


 彼女にとって、この状況は不満だ。きっとシルヴィオにたくさん心配をかけてしまったに違いないのだ。それを早く取り戻したい。


「……事情を知らない人間には、病の影響で記憶を失ったと説明するしかない。昨日までずっと眠っていた人間が、そんなに元気でどうする? それに、驚くほど魔力が回復しているみたいだが、本調子ではないはずだ」


 シルヴィオの説明によれば、ルーチェは一ヶ月ほど寝込んでいたということだ。そして記憶を奪う魔法を使ったあとも、体力と魔力を回復させるために彼の魔法で一ヶ月間眠らされていたということだった。


「でも!」


「上に報告したら、なるべく早く帰るから。……そうだな、おまえの好きな甘い物でも買ってこようか」


 シルヴィオはルーチェの頭を撫でて、ぎゅっと抱き寄せた。



(あ、れ……?)



 出会ったころから、彼はよく頭を撫でる。そして、紋章を宿してから二人の信頼関係を確認するように、こんなふうに抱きしめられるのもいつものこと。四年経って、見た目は少し変わっているかもしれないが、彼はまったく変わっていない。ルーチェの“昨日”と変わらない。おそらくそういうふうにしてくれているのだ。

 けれど、ルーチェのほうが“昨日”と違ってしまっているような不安に襲われる。あたたかくて、嬉しいだけの行為でなぜか不安になった。



(さっきも、さっきもそうだった……?)



 目が覚めたばかりの時も、シルヴィオにそうされて、同じ感覚に襲われたのだ。もし完璧に消し去った“いらない記憶”が微かに残っていたらどうしよう。そんなふうに不安だった。


「どうかしたか?」


「シルヴィオ様……早く帰ってきてくださいね。帰ったら、たくさんお話がしたいです」


 ルーチェは紋章のあるほうの手を重ねてみる。大切な人と確かにつながっていることを感じて、不安が薄れるからだ。


「わかった。いってくる」


「いってらっしゃいませ」


 もう一度頭を撫でて、シルヴィオが部屋を去る。まだ、体力が回復していないというのは本当だった。シルヴィオが出かけるまで寝たふりをしていようと考えていたルーチェは、レースのカーテン越しに届く優しい光に誘われて、眠りの世界に入っていった。



 §



 午後になり、体を動かしたくてうずうずしてきたルーチェは、部屋を抜け出して、とりあえず当主夫妻に挨拶に行こうと考えた。彼女自身に自覚はないが、夫妻にも心配をかけたはずだ。


「ルーチェさん、もう体調は大丈夫なの? 寝ていていいのよ?」


 廊下を歩いていると、たまたまイメルダに出会う。四年経っているというのをまったく感じさせない、ルーチェの“昨日”とまったく変わらないイメルダの姿を見て、彼女は少しほっとした。


「はい。もう元気になりました! 覚えていないのですが、ここしばらく寝込んでいたのだと聞きました。ごめんなさい、イメルダ様」


「いいのよ。元気になったのなら……」


 イメルダは無理をして笑っている。元気になった代償が、四年分の記憶なのだ。記憶を失った本人がまったく気にしていなくても、四年間の彼女を知っている者にとって、気にせずにはいられないのだろう。


 ルーチェは、イメルダの少し後ろに初老の男性の姿を見つける。つるんときれいな頭、耳の上に残る茶色の毛。少し近寄りがたそうな雰囲気は、スカリオーネ家の当主カルロに似ている。

 ルーチェは家系図を思い浮かべてみる。カルロの血縁で、存命の人物といえば、スカリオーネ家の領地で隠居しているシルヴィオの祖父だろう。


「……えっと、はじめまして。ルーチェ・シーカと申します」


 屋敷にいるということはルーチェの記憶にないだけで、すでに挨拶をしているのかもしれない。けれど、今の彼女にとってははじめて会う人物だ。

 ちなみにシーカという姓は、生家を離れて以降に与えられた、彼女の名だ。


「ぐぬぬ!」


 やはり面識のある人物だったのだ。けれど、記憶にない人に対し、忘れたことをどう謝っていいのかわからず、彼女は困ってしまう。


「あらやだ。この人はカルロよ?」


 夫の手前、声を出して笑えないようで、イメルダは肩を震わせながら、必死で堪えている様子だ。


「カルロ様でしたか! ずいぶんと変わられたのでわかりませんでした。もしかしたら、領地にいらっしゃるご隠居様かなぁって」


「こ・の・小・娘・! どこを見ながら言っている?」


 ルーチェの視線は完全にカルロの輝く頭に向けられていた。彼女の記憶の中にいるカルロは茶色い髪をきっちり整えた紳士だったのだ。よく観察すると顔はそこまで変わっていないのだが、頭がつるつるになっただけで印象は変わる。二十歳くらいは老けて見える。

 たった四年で人はこんなにも変わるのだと、ルーチェは感心した。そして、四年の間に彼にいったいなにが起こったのか、それが非常に気になった。


「まぁまぁ、ルーチェさんは今、十四歳なんですから、そんなに怒らなくても」


「誰のせいでこうなったと思っているんだ!」


 顔を真っ赤にして怒っている様子は、ルーチェの知っているカルロだ。


「もしかして、私のせいですか?」


 気安いイメルダと違って、カルロはルーチェと世間話をしない。

 カルロは息子のシルヴィオに対しても冗談を言って楽しく話掛けたりするタイプではない。これは彼の性格で、ルーチェを嫌っているのとは違う。と言っても、親しいというわけではないので、ルーチェのせいで頭がつるつるになってしまったと文句をつけられても、彼女は実感が湧かない。


「おまえたち、二人のせいだ!」


「えぇ?」


 ルーチェにはカルロにそこまで迷惑をかけた認識がない。


「命に関わる契約なんてしたことがそもそも、私の髪を……、ではなく心労の原因だろう! 反省したまえ」


 大事な跡取り息子が危険すぎる紋章を宿してしまった。ルーチェが病めば、自動的に息子も長生きできないのだから、禿げるほどの心労、といのも当然だ。


「心配してくださったのですね……? ごめんなさいカルロ様。今度は間違いないようにしますね!」


 安心させようと、ルーチェが笑顔を向けると、カルロはくるりと後ろを向く。


「ふん! 元気になったのなら、まぁいいだろう。紋章が恐ろしいものだとわかっているのだから、今後は二人とも気をつけるようにな。いいか二人とも、だぞ」


 捨て台詞のようにそう言って、カルロはどこかに行ってしまう。


「……まったく、素直じゃないのだから。きっと私室に戻って泣いているわよ、あの人」


 カルロが去ったあと、イメルダが口の端をつり上げながら、そう口にする。


「うぅ……。私はみなさんに守られていたんですね。本当にごめんなさい」


「そうね、ルーチェさんはまず自分のことを大切にしなさい。それが、あなたとシルヴィオを守ることになるのだから、ね?」


「はい! 今度は、皆さんに心配なんてかけません」


 イメルダは笑っているが、やはり複雑な心境なのだろう。皆が“今日”のルーチェが混乱しないように、気を遣ってくれている。同時に、皆の“昨日”と彼女の“昨日”は違っている。ルーチェがいらないものだと判断した十八歳までの彼女自身を、ほかの者は今でも大切にしている。

 シルヴィオや皆に迷惑をかけるだけの存在のくせに、十八歳のルーチェが皆に想われているようで、おもしろくない。彼女は、失くした自分自身に嫉妬した。


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