第39話 嫉妬3



 ルーチェは屋敷に戻り、とりあえず買ってきたものを私室の机の上に置く。 呼吸を荒くしたまま帰ってきたので、ほかの使用人から驚かれてしまった。

 だから、まずはいつものエプロンをつけて、大きく深呼吸をして、心を落ち着かせる。そうしないとシルヴィオに帰宅の挨拶をすることもできない。


 なんとか呼吸を落ち着かせてから、おみやげのチョコレートを持って、扉に手をかける。

 ちょうどそのタイミングで、外からシルヴィオの声がした。


「帰っているのか?」


「はい、今開けますね!」


 言いつけどおり、夕暮れまでには帰ってきた。それなのに、扉の先にいたシルヴィオの表情がひどく暗い。


「今日、ヴァンニが屋敷に来た」


「リーザさんが?」


 シルヴィオはあきらかに怒っていた。運悪く、リーザが訪ねてきたということは、ルーチェの小さな嘘がばれてしまったということだ。


「本を返しに来ただけだったから、私が受け取ってすぐに帰っていったが……」


「ご、ごめんなさい。本当は今日――――」


「もういい! モランド殿と会っていたんだろう?」


 本当は、シルヴィオへの贈り物の材料を買いに行っていた。そう告げようとした彼女の言葉を、シルヴィオは大きな声で遮った。


「違うんです」


 ベネディットの名前が出てきたことに、ルーチェは驚いた。約束していたわけではないが、偶然会ってしまったことは事実だった。


「嘘をつかなくていい。すまなかったな。おまえがなにをしても自由だと……強制する気はないと言いながら、あの者がおまえに近づくのは不快だとも言っていた。私におまえの行動を責めることなどできない」


「本当に違うんです! ベネディットさんとは、たまたま会っただけです。そうじゃなくて……」


 彼は、ルーチェがベネディットと約束をしていたのだと完全に誤解している。シルヴィオが彼を嫌っているから、ルーチェが嘘をついてまで出かけたのだと思っているのだ。


「本当におまえを咎めるつもりはないし、私にはそんな権利がない。……悪かった。けれど、今は少し頭を冷やす時間がほしい」


 シルヴィオの怒りは、ルーチェに向けられている。こんなことは今まで一度だってなかった。彼に心配をかけて、叱られたことならある。今、彼は純粋にルーチェの行動に憤りを感じているのだ。

 最初に嘘をついてしまったから、本当の話をしてもシルヴィオに信じてもらえない。


 彼は辛そうな表情を一瞬だけ見せたあと、ルーチェに背を向けた。

 すぐに否定しなければ、立ち去る彼を追いかけなければ、と思うのに、ルーチェは動けない。



(い、痛いっ! なに、なんなの……?)



 手のひらをナイフで貫かれたような激痛がルーチェを襲う。紋章がルーチェの身体を蝕んでいるとしか思えない痛みだった。

 痛みと恐怖で、ルーチェは言葉すら発せられずに、ただシルヴィオの背中が遠ざかるのを見ていた。



(わた、し……シルヴィオ様に失望されちゃった、の……? 嘘だっ! そんなはずない……)



 ルーチェはシルヴィオのことが、誰よりも大切だ。それなのに、なぜ紋章が痛むのか。シルヴィオの気持ちが、ルーチェと同じではないから、としか彼女には考えられなかった。


 目の前が段々と暗くなっていく。手を貫くような痛みは、シルヴィオからの拒絶の証のように思えた。もし、左手が痛むことをルーチェが認めてしまったら、シルヴィオに知られてしまったら、すべてが終わってしまう。


 彼女はそんな絶望に支配されながら、ベッドにもぐり込んだ。

 どんどんと身体から体温が失われ、いっそ気絶できれば楽だと彼女は思った。紋章はそれすら許してくれない。まるで、彼女に罰を与えるように、何時間もルーチェを苦しめ続けた。



 §



 翌朝、ルーチェは怯えながらもシルヴィオの部屋の扉をノックした。

 また信じてもらえないかもしれないと思うと怖かったが、とにかく誤解を解かなければならなかった。


「シルヴィオ様……?」


 いつもと同じ主の起床の時間のはずだった。いつまで経っても返事がないので、ルーチェはゆっくりと部屋の扉を開ける。

 ベッドはきれいに整えられ、昨晩使われた形跡がない。そしてシルヴィオがどこにもいなかった。

 部屋の中に足を踏み入れたルーチェは、テーブルの上に置かれた手紙を見つける。



『ルーチェへ。昨日は申し訳なかった。全面的に私が悪いと反省している。おまえの望みを叶えたいと言ったことは嘘ではない。しばらく頭を冷やしたいので、数日留守にする』



 いつも研究内容を書き記すときに使っている、ただの白い紙。そこにはシルヴィオがもうここにはいないことが記されていた。


「嘘……? シルヴィオ様、どうして……?」


 これでは言い訳すらさせてもらえない。ルーチェの手は震え、しっかりと持っていたはずの彼からの手紙が、床に落ちた。

 どうしていいのかわからないルーチェは、その場にうずくまってぽろぽろと涙をこぼす。

 小さな頃、ルーチェが泣いていたら、シルヴィオが面倒くさそうにしながらチョコレートを差し出してくれた。

 今のルーチェは彼を想って泣いて、彼はもうそばにいてくれない。


「どうして、変わってしまうの?」


 彼女がいくら望んでも、まわりもルーチェ自身も変わっていくことを止められなかった。


 結局、シルヴィオはその後一週間、帰ってくることはなかった。彼がいなければ、助手であるルーチェは王立魔法研究所に行くこともなく、時間だけはたっぷりあった。

 シルヴィオのことを考えると、また紋章が痛み出す。だから彼女は分析装置の完成だけを考えて、作業に没頭した。おかげで完成はしたのだが、肝心の主が帰ってこないまま、彼の誕生日当日を迎えてしまった。

 旅行かばんを改造して、内側に装置が組み込まれた小型の分析装置は、そのままルーチェの部屋に放置された。


 日が傾きはじめ、ルーチェはシルヴィオの寝室に置かれているサシェを新しいものに交換してから、夜会の準備で忙しくしていた。

 シルヴィオはいつの間にか帰宅していて、正装に着替えていた。


「シルヴィオ様、お帰りなさいませ。お誕生日おめでとうございます」


 避けられていることに、泣きたい気持ちになりながら、ルーチェは声を振り絞る。


「ああ、ありがとう。あの香り袋、また作ってくれたのか?」


「はい。それで、私は……」


 ほかにも贈り物を用意していること、ベネディットと会う約束なんてしていないこと。ルーチェは主に話したいことがたくさんあった。

 それなのに、声を出そうとすると涙が出そうになり、言葉につまる。


「終わったら、ゆっくり話そう。夜、私の部屋へ来てくれ、いいな?」


 もう怒っていないということを示すように、シルヴィオはルーチェの頭をなでた。


 結局、二人がまともに話し合うことのないまま、夜会がはじまった。


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