第26話 青いドレス7



 火事の現場は、ルーチェたちのいた食堂のすぐそばだった。三階建ての建物の最上階から煙が上がっている。まだ発生したばかりのようで、外からでは炎を確認することはできない。

 賑やかな通り沿いは建物が密集しているために、燃え広がるのが非常に早い。すぐに消火が必要だった。

 警備隊や町の消防団はまだ到着しておらず、ルーチェは魔法で火を消そうと建物の近くに進み出る。


「建物の中に人はいるの? 私は王立魔法研究所の魔法使いです」


 集まっていた近所の住人に、リーザが問いかける。自分たちが魔法使いだということを明かして、住人を落ち着かせようとしているのだ。


「いいえ! 調理中で、私しかいなかったから。下の階の住人も、いるわよね?」


「ああ、間違いない。皆ここにいる」


 答えたのは、真っ青な顔で地面にしゃがみ込んでいた初老の女性だった。どうやら火元の住人のようだ。近所の住人も同意して、建物が無人なことは確認できた。


「近くに川もありますし、私が消火します」


 魔法に関して、ルーチェはまだ本調子とは言えない状態だ。けれど、今は緊急事態で、ほかに方法が思いつかない。消火するために水を運ぶ魔法なら、記憶を失ったあとに一度森で使ったことがあり、できるはずだった。


「待ちなさい」


 建物の正面に移動しようとしたルーチェの行動を、リーザが止めた。


「リーザさん?」


「あんたは病み上がりなんだから、ここはあたしに任せて。大丈夫、信じなさい」


「でも……」


 ルーチェの知っている彼女の実力では、到底無理だ。


「あたしの今の実力を知らないでしょ? あんたへの対抗心とかじゃないの。今の私にはできるから」


 リーザは冷静だった。ルーチェへの対抗心で実力を伴わない魔法を使おうとしているわけじゃない、と言う彼女の言葉はきっと本当だ。


「わかりました。じゃあ、私が補助しますね」


「頼りにしてるわ」


 盗賊を討伐したときとは逆の役割だ。ルーチェは後方に下がり、リーザが火災だけに集中できるように、周囲を警戒する。たとえば建物が倒壊しそうになったら、ルーチェが壁を築いて、リーザを守るのだ。


 リーザが瞳の色と同じ、琥珀のような石がついた腕輪をかかげて、魔法を発動させる。

 選んだ魔法は、ルーチェが森で使ったのとほぼ同じ。無駄のない、彼女らしい魔法だ。

 炎はあっという間に消えて、周囲には焦げ臭いにおいだけが残る。


「こんなものかしら?」


 ふう、っと大きく息を吐く。リーザの額は、緊張と熱風のせいで汗をかき濡れているが、表情には余裕がある。


「……リーザさん? すごい、すごいです!」


「大げさね」


「私が知らないあいだに、すごく努力したんですね!」


 ルーチェだけではなく、周囲に集まっていた人々が、リーザに賞賛の言葉を投げかける。リーザは、一見「たいしたことではないわよ」というような顔をして、それでいて少しだけ照れていた。

 そうこうしているうちに、警備隊や消防団が到着する。


 警備隊の兵の中に、ルーチェの知っている人物の姿があった。灰色の髪の青年――――ベネディット・モランドだ。

 彼はルーチェたちの姿を見つけて、笑顔で近づいてくる。


「駆けつけるまでもなかったですね?」


「……ベネディットさん」


 彼が悪いわけではない。それなのに、ルーチェはそわそわして、冷や汗をかいた。封じられている記憶が、彼に会ったことで戻ったら、また大切なあるじを裏切ることになる。彼女にはそれが怖かった。


「ルーチェさんじゃないか!? 病気はもういいのかな? 記憶喪失だって聞いてるけど、俺のことはわかるんだ」


「はい、ご心配をおかけしました。……私の病気のことご存じだったんですね?」


 心底心配していた、というような態度で彼はルーチェに笑いかける。青い瞳と目が合うと、なぜか逸らせない。


「三ヶ月くらい前に、ヴァンニ殿と一緒にお見舞いにいったんだ。だから、ヴァンニ殿から少しだけ話は聞いてるよ」


 ルーチェの記憶では、西の塔へ行った帰りに、シルヴィオと言い争いをしていた彼の姿が一番新しい。三ヶ月前というと、ルーチェが体調を崩し、面会謝絶になる直前だろう。

 リーザがお見舞いに来てくれたことは知っていたが、そこに彼も一緒だったという話をルーチェは知らずにいた。

 シルヴィオには、彼のことを詳しく聞けなかったから。


 屋敷に見舞いに来るような関係だったとすると、本当に自分の心には、目の前の青年を大切に思う気持ちがあるのではないか。そんな疑念に支配され、胸が苦しい。ルーチェの呼吸は段々荒くなり、ぽろぽろと涙がこぼれだす。


「どうしたの!? 大丈夫?」


「ルーチェさん!?」


 リーザとベネディットが駆けよってくる。胸のざわつきが治まらず、息が荒くなる。

 まだ大丈夫。ルーチェは祈るような気持ちで、そう言い聞かせ、涙を拭う。


「ちょっと、びっくりして……、火事なんてはじめてだったから……」


 引きつりながら笑っても、二人はまだ心配そうにしている。


「ルーチェ」


 静かな声で、名前が呼ばれる。彼女が声のするほうに視線をやると、人混みをかき分けるように黒髪の青年が現れた。


「シルヴィオ、さま? どうして……?」


 彼が来てくれたことに、ルーチェは胸をなで下ろす。けれど、胸のざわつきはまだ治まらず、むしろ増していく。


「屋敷からでも煙が見えた。方向的にこのあたりだとわかったから迎えにきた。魔法を使ったのか?」


「いいえ、私じゃなくて……リーザさんが消してくれました」


 彼はルーチェが魔法を使ったせいで、具合が悪くなったと思ったのだろう。


「ヴァンニが? まぁいい。なぜモランド殿がここにいる?」


「これはスカリオーネ殿。任務で偶然ですよ。仮にも王都警備隊に所属していますもので」


 互いに、相手をよく思っていないことを隠そうともしない。ルーチェはこのやり取りを見ているのが怖くて、シルヴィオの服の袖を引っ張る。


「本当に顔色が悪い。帰ろう」


 彼女はその言葉に頷くのが精一杯だった。


「……ヴァンニ、あとは任せる。おまえが消したのなら、警備隊への報告はおまえに任せる」


「ちょ、ちょっと!? もう仕方ないわね!」


 若干不満そうなリーザを残し、シルヴィオはルーチェを抱き上げ、歩き出す。


「……シルヴィオ様、ごめんなさい」


「なぜ謝る?」


「だって、ベネディットさんがそうなのか、って。なのに、また会って……心配させて」


「頼む、考えないでくれ。私を見ろ、お願いだから」


「……私、私はっ。私が好きなのは、ずっとシルヴィオ様だけ。そのはずなのに、なんで紋章は言うことを聞いてくれないの? わからない! わからないの」



 ――――青いドレス。二人の青年。私が好きなのは、誰だった?



 急にルーチェの頭の中で、誰かが問いかけた。青いドレスを見たときに感じたもやもやとした胸の痛みが広がって、どうすることもできない。


「嫌、嫌っ! シルヴィオ様……助けてっ、いらない、いらないのにっ!」


「ルーチェ……」


 また、石が割れる音がした。シルヴィオの魔力に混じって、嵐のような感情の塊がルーチェの中に戻ってくる。

 受け入れたくないと拒否しても、ルーチェは流れ込む記憶に飲み込まれていった。


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