第36話 契約者6



 身体は疲れて動かないのに、ルーチェの心はあたたかくて幸せだった。身をよじると、ラベンダーのふわりとした、優しい香りに包まれる。シルヴィオの寝室の香りだ。

 すぐ隣で穏やかに寝息を立てているのは、もちろん彼で、彼女はそれだけで安心した。


 スカリオーネ家に来る前、父や母が捕らえられ、怖い人たちに無理やり馬車に乗せられたときのことを思い出したとき。雷の音で怖くて眠れないとき。そんな夜はシルヴィオを頼って、彼のベッドにもぐり込んでもいいのだ。

 昨晩も怖い思いをたくさんしたから、ルーチェがあるじのベッドにもぐり込んでも、誰も怒らないはず。


「……ん?」


 精神年齢十六歳、実際には十八歳で、そんなことが許されるはずもなかった。けれど、夢の中の常識では、なぜか許されることになっていた。ルーチェが現実世界の常識を思い出すまで、たっぶり三十秒が必要だった。


「シルヴィオ様?」


 あたたかい感触も、ラベンダーの香りも、現実だった。彼女はなぜかシルヴィオの部屋で主と一緒に眠っていた。


「え? ……あの? どうしよう!?」


 ルーチェがもぞもぞとベッドの端まで移動しようとすると、シルヴィオの腕がそれを阻む。心臓がばくばくと音を立てて、身体が熱い。許されるならあと少しだけ彼がこのまま眠っていてくれたら、とよこしまなことを考えている彼女もいた。


 彼の長いまつげが微かに動き、うっすらと目を開ける。漆黒の双眸が優しいまなざしを向ける。


「……目が覚めたか?」


「はいぃ、わ、わわ、わた、し……なんで?」


 動揺しているのはルーチェだけで、彼はいつもの彼だった。ゆっくりと身を起こして、寝ぐせのついてしまった黒髪をかき上げ、小さくあくびをする。

 ルーチェも急いで身を起こし、シルヴィオから距離を取る。恥ずかしさのあまり、目が合わせられない。


「覚えていないのか? 昨日、怖がって私を離さなかっただろう? 私も疲れていたらしい。おまえが眠ったら離れるつもりだったが、そのまま眠ってしまったみたいだ。……落ちるぞ?」


 じりじりとベットの上で後ずさりをするルーチェに、シルヴィオが冷静な突っ込みをいれる。昨日のことは全然思い出せないルーチェだが、絶対に思い出したくないと思った。いくらなんでも甘えすぎで、できることなら、シルヴィオの記憶からも早く消えてなくなってほしかった。


「子供みたいなことをしてしまって、ごめんなさい!」


「いや、私もおまえと離れていると落ち着かないからかまわない。“伴侶”に危険が迫ったのだから、そうなるのが自然なんだろう」


「着替えてきます! そのあと、朝食をお持ちしますね?」


 どうしても視線を合わせることができずに、ルーチェは主の部屋を早足で立ち去る。そしてすぐ隣の私室に逃げ込み、天蓋付きのベッドに飛び込んだ。



(あぁっ! どうしよう!? どうしようっ!)



 広いベッドの上で回転しながら悶えても、彼女の心は一向に落ち着かない。早く着替えて朝食の用意をしなければならないのに、どんな顔をして、もう一度シルヴィオに会えばいいのかわからなかった。



 §



 なんとか忘れたふりをして、朝食を済ませたあと、スカリオーネ家の緊急会議が開かれた。スカリオーネ夫妻とシルヴィオ、そしてルーチェの四人で、今後の対策を考えるのだ。

 屋敷のサロンで、ルーチェは四人分のお茶を用意したあと、シルヴィオの隣に座った。


「屋敷の修繕はすでに私が行った。まったく……侵入者を許すとは、なんたる無様! スカリオーネ家当主としてふがいないわ!」


 カルロは昨晩の襲撃で、屋敷を破壊されたことを嘆く。彼は朝から、修復魔法で壊れたバルコニーを直し、先ほど王宮への報告から帰ってきたばかりだった。


「父上、アルド・カゼッラは私たちと同じ紋章所有者なんでしょう。人的被害がなかっただけでも十分と考えるべきです」


 平静を装っているが、アルドの名前を口にしたシルヴィオは、周囲に殺気をまき散らしている。シルヴィオが膝をつく、などということははじめてで、彼のプライドをへし折ったのだ。


「紋章所有者……。お兄様が……」


 絶対的な力を持っているはずの“契約の紋章”を宿す二人が、アルド一人に勝てなかった。考えられる理由は一つしかない。アルドも紋章所有者ということだ。


「そもそも、襲撃者はアルド・カゼッラで間違いないのかしら? ルーチェさんはどう思ったの?」


「はい、兄で間違いないと思います。魔法を放ったときの光が、私とよく似ていて、懐かしい感じがしました」


 声を聞いても、半信半疑だったルーチェだが、魔力の結晶のような光の粒を見た瞬間に確信した。そして兄だからこそ、大切なシルヴィオを傷つけたことが許せなかった。


「そう、残念ね。せっかく肉親が生きていたというのに」


 肉親が生きていたというのに喜べない状況を、イメルダは嘆く。


「いいえ、イメルダ様。私はスカリオーネ家のために、とるべき行動をとります! 兄が私を利用するつもりなら、私が兄を捕まえます!」


 アルドの目的は、ルーチェをスカリオーネ家から連れ去ることだった。単純に兄妹きょうだいで対立するのを防ぐためなのか、それともルーチェを戦力として使うつもりだったのか、まだわからない。

 けれどまた、自分のせいでシルヴィオを危険な目に遭わせている。彼女の怒りの半分は、不甲斐ない自身に向けられていた。だからせめて兄のことは自身で決着を着けたかった。


「ルーチェ、落ち着け。興奮すると判断を誤る」


 膝の上で握りしめた手が震えている。シルヴィオはルーチェの拳を優しく包む。


「あ、ごめんなさい」


「おまえが一人で背負う話ではない。私とおまえの魂は繋がっている……おまえが傷つくことも、危険な目に遭うことも、許されない。わかるな?」


 たとえ命の危険があっても、兄をこの手で捕らえたいとルーチェは思っている。けれどそれが成り立つのは、ルーチェの魂が彼女だけのものだった場合なのだろう。彼女はシルヴィオのために、危険な目に遭うことが許されない。責任を感じているからと言って、冷静さを欠いてはだめだった。


「はい、シルヴィオ様」


 わかったならいい、と優しい眼差しが語る。シルヴィオはすぐに正面に座るカルロをしっかりと見据えて、ある提案をする。


「父上、お願いがあります。アルドを捕らえて、協力の代わりに減刑……ということはできませんか? アルドとその“伴侶”がいれば、私たちの契約の解消が可能です」


「フン、まぁ、私心で権力を使うのは不本意だが、こればかりはできることはなんでもするしかないだろう。……それは、私から陛下に願い出る。だが、出来て減刑だ。それならば、これ以上罪を重ねる前に必ず奴を捕らえるのだぞ」


 カルロとしては、シルヴィオがそう言うだろうことは予想していたようで、すぐに答えが返ってくる。

 ルーチェは目頭が熱くなって下を向いた。アルドはすでに人を殺めているが、もし現カゼッラ家の罪が明らかになれば私怨による犯行であっても、情状酌量の余地がある。

 もちろん、この話が上手くいけば二人の契約が解消できるというのもある。それだけではなく、彼はルーチェが肉親のことで苦しまないように、減刑を提案してくれているのだ。


 アルドが紋章所有者だとすると、彼とその“伴侶”に勝てる可能性のある魔法使いは、たった二人しかいない。遅かれ早かれ、シルヴィオたちに王命が下る。その前に、スカリオーネ家から協力の条件を提示する。そうすれば、皆が助かるただ一つの道が開ける。


「はい、父上。ご迷惑をおかけいたします」


 シルヴィオが深く頭を下げる。


 皆が助かるただ一つの道――――。けれど、ルーチェにとってそれは、シルヴィオとの特別な絆を失うのと同じだった。



(なにを考えているのっ? 十八歳の記憶が戻ってきたら……私はシルヴィオ様を裏切るのに……)



 ルーチェの中には、ずっとシルヴィオの“伴侶”でありたいという気持ちが消えてくれない。こんな状況になってまで、強制的な絆に縋ろうとすることが間違っていると、彼女はちゃんと理解している。


「どうした?」


 ルーチェが目を赤くしているのに気がついたシルヴィオが、心配そうに顔を覗き込む。


「シルヴィオ様、ありがとうございます。私のことを、兄のことを、考えてくださったのが嬉しくて」


 十六歳のルーチェは、心を偽るのが少しだけ上手くなっていた。



 $



 その晩、ルーチェはなかなか寝つけずにいた。

 兄を捕らえればシルヴィオとの契約の解消ができるかもしれない。急に、現実味を帯びてきた未来に戸惑ったのだ。


「紋章がなければ……シルヴィオ様とは、きっともう一緒にはいられない……」


 シルヴィオは二十四歳で、スカリオーネ家の次期当主として、そろそろ結婚しなければならない年齢だ。結婚できないのも、ルーチェのせいだった。


「私、シルヴィオさまの唯一じゃ、なくなっちゃうんだ」


 大好きな人の唯一が、自分以外の女性になる。それを想像したルーチェは胸が締めつけられるような痛みを感じた。


 目を閉じると、シルヴィオの隣にきれいな女性が並ぶ姿が浮かぶ。それは、清楚な印象の栗色の髪の女性だった。

 ドレスの色も、隣に並ぶシルヴィオの表情も、妄想のはずなのに妙に具体的だった。



 ――――消えて、お願いだから消えて! どうして私は変わってしまうの!? こんな気持ち消えてよ!



 誰かの叫びがルーチェの頭の中に響く。それが十七歳の自身の言葉だと、彼女はもうわかっていた。


 石はまた一つ砕けた。


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