第37話 嫉妬1



 十七歳のルーチェは、ときどき感じる痛みに気づかないふりをしたまま、見かけ上はそれまでと変わらない日々を送っていた。


 だんだん、気のせいだと思えないほどの痛みを感じるようになったが、シルヴィオには相談できなかった。なぜ紋章が痛むのか、考えることが怖かったのだ。

 彼女はシルヴィオが大好きで、その想いは強くなる一方だった。気持ちが損なわれていないのに、紋章が痛むのは、シルヴィオとルーチェの気持ちが一緒ではなくなってしまったからではないのか。そう疑っていた。


 実際に、シルヴィオは契約を解消する方法を研究しているのだから、そう考えるのは当然だった。


 彼はルーチェがいるから、誰かと結婚することに躊躇ちゅうちょしているようだった。

 契約を解消できる魔法が完成したら、ルーチェはシルヴィオの特別ではなくなってしまう。それが彼女にとってはひどく恐ろしい。ルーチェの存在意義も、生きる理由も、すべて彼のためにあるようなものだった。そのあかしをもうすぐ失うのだ。


 もし、今以上の関係をシルヴィオに求め、それを拒絶されたら? きっと多くの魔法使いが命を失ったように、二人とも紋章に蝕まれるだろう。

 ルーチェに今できることは、変わらずにあるじを敬愛して、決して、それ以上を望まないことだった。


 今以上を望めば、きっと終わってしまう。そんな予感があった。


 もうすぐシルヴィオは二十四歳の誕生日を迎える。

 今年は誕生日の日に、スカリオーネ家の屋敷で大きな夜会が披かれることになった。

 十六家の血を守るためと、分家から強い圧力がかかれば、当主のカルロとしても無視するわけにはいかないのだ。

 シルヴィオが気難しい性格で、結婚相手を定めようとしない、という理由だけでは、もうごまかしきれなくなっていた。だから、誕生日を祝うという名目で、大きな夜会が披かれることになった。もちろん分家からも、同格の十六家からも、年頃の令嬢が大勢参加する。


 実質、近い将来の結婚相手を選ぶために披かれるようなものだった。


「言っておくが、おまえがほかの者を気にする必要などない」


 夜会が披かれると決まったあと、シルヴィオはルーチェにそう言った。この件に関わるな、と言われているようだった。


「私は、シルヴィオ様の選んだ方と、仲良くできればいいなって思っています」


 心にもないことを、彼女は口にした。それが割り切った、大人の対応だと信じたのだ。彼女はあくまで、シルヴィオに仕える存在なのだから。仲良くなれたらいいな……ではなく、本当はシルヴィオの選ぶ女性をルーチェも受け入れられなければ、未来はないと思っていた。

 だから自分の心を騙すために、あえてそう宣言をした。


「ルーチェ、私はできるだけおまえの望みを叶えたいと考えている。……わかるだろうか?」


「今のまま、ずっとシルヴィオ様にお仕えすることが、私の幸せです」


 これは本当のことだった。以前のように紋章が二人を蝕む可能性を考えずにいたい。変わらずにいたい、と祈るように思っていた。


「このまま……? ずっと使用人の仕事をしていたい、ということだろうか?」


 シルヴィオが首をかしげる。


「使用人でも、シルヴィオ様の助手でも、それはどちらでもいいんです。私の望みは、ずっとお仕えして……それで、できることなら、シルヴィオ様が私のせいでこれ以上失うものがないように……と。それだけです」


「どういう意味だ? 私にはよく理解できない。おまえのせいで失ったものなど、そもそもないはずだ」


 彼の声が少し低くなる。なんで今の話で、シルヴィオが不機嫌になるのか、ルーチェにはわからない。

 戸惑った彼女が黙り込んでいると、シルヴィオが大きく息を吐いてから、話の続きをする。


「今度の夜会、おまえも給仕ではなくちゃんとした格好をして出席してほしいと、私は思っている」


「……え、えっと……それはご命令ですか?」


「違う。以前、観劇に行ったとき、おまえは周囲からどう思われるのか、やたらと気にしていたな? そのあと、私との仲を疑われるのも嫌がっていた。だから、強制するつもりはない」


 以前、シルヴィオと一緒に観劇へ行って以降、二人は目立つ場所には行っていない。仕事以外で出かけることはあるが、騒がしい場所は避けていた。

 ルーチェのせいで、シルヴィオが悪く言われることが、彼女にはとにかく辛いのだ。


「でしたら、やっぱり私は、華やかな場にはふさわしくない人間で、好奇の視線に晒されるのが嫌です。……そういう場所は、好きではありません」


 彼女が将来自立したのなら、あくまで魔法使いたちの世界――――つまり特権階級に混ざって暮らすことになるはずだ。

 もしかしたらシルヴィオは、独立するときのために、特権階級の人間たちに囲まれても上手く立ち回れるようになれ、と言っているのかもしれない。ルーチェはそう思ってうつむいた。


「そうか。……気が変わったらいつでも言ってほしい。今はまだ、おまえに無理強いはしない」


「はい。ありがとうございます。わがままを言って申し訳ありません」


 震えそうになる声を彼女は必死に抑えた。「今はまだ」というのはいつまでなのか。いつか、シルヴィオやスカリオーネ夫妻のもとから離れる日のことを想像したのだ。


「それと、おまえにモランド殿から手紙が届いている」


「ベネディットさんから……?」


「私が内容を読んだり勝手に捨てるのは、いくら“伴侶”でもやってはいけないことだから、渡しておく」


 シルヴィオは本気でいらだっていた。それでも内ポケットから手紙を取り出して、ルーチェに渡す。


「ちゃんとお返事を書きますが、もしお誘いがあったとしても行きませんから」


 シルヴィオは、ルーチェの血に興味を持つ人間が多いことを警戒しているのだ。彼女もそれは十分に知っているから、主を心配せせるようなことはしない。

 ルーチェは今まで、何度かお誘いの手紙をもらっているが、丁寧にきちんと断っている。今回もそうするつもりだった。


「おまえの好きにするべきだ、とわかってはいる。ただ……私は基本的におまえの周囲をうろつく男が本気で大嫌いだ。気持ちの問題だから、どうにもならないし、改めるつもりもない」


「……料理長さんは?」


「料理長は、娘と同年代だからおまえを可愛がっているだけだろう。どうでもいい」


 彼女はわかりきったことを聞いてしまった。ベネディットに関する話題は、あまりシルヴィオとは話したくなくて、つい話題を逸らしたのだ。


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