4-2
屋敷の中はかなり埃っぽいが、すぐに住めないほど傷んでいるようには見えなかった。玄関ホールは上階まで吹き抜けで、上層の窓から日が差している。右側の奥にオーク製らしき階段があり、壁に沿って折れ曲がりながら上階へと這い上がっていた。白い壁にはところどころシミが浮き、家具や装飾品がないせいで、一見、簡素にも見える。しかし階段の凝った造形は、この屋敷の本来の壮麗さを物語っていた。
大空間を光りながら舞う埃と、吹き抜けの天井を見上げて、ジューンは立ちすくんだ。
「中に入るのは初めて?」
いつの間にか、ジョンがすぐ隣に来ていた。
「ええ、表側は。使用人エリアには、少し入ったことがありますけど」
「そうか。足元に気を付けて、床材を剥いでいる途中みたいだ。先週から内装の職人が入っているんだ。今は誰もいないけど、普段はごった返しているよ。来週からは庭園の工事も始まって、ますます大騒ぎになる。まだインテリアもなくて味気ないけど、完成したら見られないものもあるから面白いよ。それで、改装が終わったらまた来よう。……興味ないかな?」
ジューンは特に建築に興味があるわけではないが、ジョンと二人ならば何をしても楽しかった。
「いいえ、どんなお屋敷になるのか、すごく楽しみです」
隣を見上げると、ジョンは思いがけずこぼれたというような、無防備な笑顔を見せていた。そして、うろたえたように笑みを収めると、背筋を伸ばし、左腕を差し出した。
「よかったら……。ここは足元が悪いので」
ジューンは恐縮しながら腕に手を置いた。顔が紅潮するのが感覚で分かる。ジョンは満足げに微笑んだ。
薄いシャツの下にある、発達した筋肉の感触を手に感じる。ジューンは男性とこんなことをしている自分が信じられなかった。
ジョンは玄関ホールから順に主な部屋を巡って、改装の説明をした。玄関ホールの床は傷んだ板石から寄木細工に張り替える。吹き抜けの天井は化粧漆喰細工パネルをはめる。広間の壁は、木彫を施したオークの鏡板張りにする。……などということだった。ジョンは各部屋の仕様をすべて把握していて、その詳細を、壁紙の模様に至るまで覚えていた。そして、「内装のことを色々言ったけど、実は改装の目玉は、蛇口からお湯が出る浴室を作ることなんだ」と言って笑った。
ジューンは正直なところ、ジョンの解説を聞いても建築に詳しくない上に、まだ完成前で実物がないので、よく分からない部分が多かった。けれど、建築の話をするジョンはとても楽しそうで、始終口角が上がった顔を見ているのが嬉しくて、ジューンも一緒に楽しんでいた。ジョンはなるべく易しい言葉を使って、彼の世界を伝えようとしてくれた。
ジョンは「家」に関わる全てのことが好きだった。設計もデザインも、建築の歴史も、職人の仕事も、家具や建材にいたるまで、すべてに興味があり、すべてに詳しかった。彼はジューンが自分から話すことが苦手だと見抜いていた。ジョンは質問を控えて話し手に回り、そのおかげで、ジューンは自分のことを話さないですんだ。
階段に座って話し込んでいるうちにお腹が空いていることに気づいて、二人は屋敷を後にし、門番用ロッジに戻った。
ネザーポート屋敷の門番用ロッジは石造りで、番小屋というよりは、こじんまりしたコテージという佇まいだった。小さな玄関扉を入ると、そこは通路みたいな玄関ホールだ。
ジョンは奥にある居間にジューンを案内し、出窓のそばにある、緑色のクロスが掛かった丸テーブルに座らせた。見回すと、壁際に背もたれ付きの椅子がもう二脚置いてある他に家具はなく、室内の半分以上の空間が余っている。えんじ色の壁は方々にシミがあり、暗灰色の床は石張りで、敷物がない。仮住まいらしい、殺風景な居間である。
ジョンは隣の部屋に入って行った。そこはキッチンのようだった。ジューンは、はたと気がついて、慌てて後を追った。
「あの、食事の準備ならわたしが……!」
ジョンは食器棚に手をかけたところだった。
「いいよ、いいよ。簡単なものしかないから。きみは座ってて」
ジョンはコッツワース屋敷の従僕たちみたいに、無駄のない優雅な動きで準備を開始した。
「いえいえ、こういうことはメイドの仕事ですから、わたくしにお任せください」
そう言ったものの、ジューンは物の場所が分からないのと、身長差がありすぎるせいで仕事を奪うことができずに右往左往した。
「メイドじゃないよ」
ジョンが言った。
「えっ? 正真正銘のメイドですよ」
「ぼくのメイドではない」
「いや、まあ、そうですけど……」
結局、競うように作業して、二人であっという間に支度を終えた。
窓際の丸テーブルに、コールドビーフとパンにバター、クリームチーズ、ビスケットが並んだ。ジョンはお湯を沸かし、紅茶を淹れてくれた。キッチンには料理用ストーブがあり、食器棚や作業台があり、一通りの調理器具が揃っていた。ジョンはここで、メイドもおらず、下宿屋のおかみさんの賄いがあるわけでもなく、一人で暮らしているという。
夜の七時になろうとしていたが、外はまだ明るかった。ネザーポート屋敷はやや高台にあって、カーテンのない窓からは波打つような牧草地が彼方まで見通せた。どこにも人の姿が見えず、世界中で二人きりになったような錯覚がした。
「ジューンは、夢はある?」
あらかた食べ終わり、お茶を飲んでいると、ジョンが唐突に尋ねた。
「夢……ですか?」
また難問だと思った。夢だなんて、ふわふわした虹色の綿雲みたいな言葉だ。ジューンには、別世界のものに思える。
「ひとつ、あると言えばあります」
ジューンは無理に押し出すようにして答えた。ジョンが眼を輝かせ、早く聞きたいという顔をした。ジューンは申し訳ない気持ちになった。
それは、夢という言葉のイメージとは程遠い。ジューンはそのことを考えると、重苦しい気分になるばかりなのだ。けれど「夢」が「将来やりたいこと」を意味するのならば、それ以外には何も思いつかなかった。
「わたし、妹がいるんです。いつかお金が貯まったら、家を借りて妹と一緒に暮らしたい……そう思っているんです」
「妹さんと、一緒に暮らすことが夢なんだね……?」
ジョンは感心したように頷いた。言葉の陰に、「たったそれだけのことが?」という響きがあるような気がした。
「ええ。でも、これはわたしが勝手にそう思っているだけで、妹の方は望んでいるかどうか分からないのです。だから妹が嫌だと言えば終わりなんですけど……」
「そうなんだね……」
ジョンの表情が陰り、その濃褐色の瞳が気遣わし気にジューンの様子を窺っていた。ジューンは何か訊かれる前に、急いで話題を変えた。
「でも実を言うと、わたしの夢はもう叶ってしまったのです! コッツワース屋敷にお仕えすることが、小さい頃からの夢だったんですよ」
笑顔を取り繕ったが、罪悪感がチクリと胸を刺した。これは半分が本当で、半分は嘘なのだ。
「きみはメイドになりたかったの?」
ジョンは不思議そうな顔をした。
「ええ、まあ。だからもう夢は叶ってしまった後なので、今は何もないのかもしれません。ジョンの夢は、大工の棟梁になることですか?」
追及される前に話を変えようと、ジューンは罪悪感を振り払うように、そう問い返した。ジョンは、よくぞ訊いてくれましたという顔になった。
「ぼくは将来は建築家になりたいんだ。大工もいいけど、建築家の方が好きな家を建てられるからね。本当は両方がいいかな。きっと自分で設計して自分で建てるのが一番楽しいよ。ぼくは職人の仕事が好きだから、扉一枚から全部自分で作りたくなってしまう。木彫とかも自分でやってね。まあ、それはいつか趣味でするとして。今興味があるのは、デザイン性に優れた快適な家を、いかに安価で提供できるかということなんだ。とにかく家造りに関わっていきたいな。教会とか宮殿ではなくて、普通の人が住む家を創りたい」
「素敵な夢だと思います」
ジョンの生き生きとした表情を見て、心からそう思った。
「ありがとう。きみの方こそ凄いと思うよ。人に仕える仕事に就きたいなんて、ぼくだったら考えられないから」
「いえ、あの、別に凄くはないです」
ジューンは胃が沈み込むような感覚がしながら、首を横に振った。どうして嘘なんかついてしまったのか。
「人の世話をする仕事って、すごく立派だと思うよ。ぼくなんかは、いつだって自分のことばかり考えてしまうから。『お前はわがままで、自分勝手だ』って、よく言われるんだ」
ジョンは嫌味なくそう言って笑っている。ジューンは誤解を解かなければと思った。
「わたしは立派ではありません。わたしも同じです。いつだって、頭の中では自分のことばかり考えています。メイドの仕事を頑張るのは、ただクビになりたくないからで……。わたし、絶対にコッツワース屋敷をクビになりたくないんです。それで、なるべく役に立って、自分の居心地を良くしたいだけなんです。わたしも、自分のことばっかりです。あなただけが、わがままで自分勝手だなんてことは、ないと思います」
ジョンが眼を見張って、ジューンを探るように見つめていた。そしてジューンも、濃褐色の瞳に釘付けになってしまう。こんな風に見つめ合いながら、話をした相手が今まで他にいただろうか。
「うん、ありがとう。それでもやっぱり、きみのこと凄いと思うよ。ぼくには絶対に出来ない仕事をしているから」
彼は微笑み、その眼は優しい半月の形になった。
窓の外では夏の日が地平に近づき、雲と草地をオレンジ色に染めていた。
二人は日没に向けて色を変えゆく景色を眺めながら、様々なことを話した。七十年代から続く農業不況を乗り切るために、サー・ウォルターが取り組んできた農地の経営改革のことや、安い輸入作物と人口増加の話。政府の住宅政策と、ロンドン郊外で増え続ける労働者向けの安い家のこと。使用人の雇用環境のこと。サー・ウォルターが手掛ける慈善事業の話。話題は尽きることがなく、何時間でも話していられそうだった。
濃紺の空に星がまたたき、牧草地は影絵のように真っ黒になった。夜十時の門限に間に合うように、ジョンは自転車でジューンをコッツワース屋敷まで送り届けてくれた。
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