第二章 准男爵家の後継者

 窓ガラスを拭く手の向こうに庭園が見える。

 黄緑の芝生に、真四角や円錐形に刈り込まれたツゲの樹が、左右対称に配置された庭である。石畳の通路が十字を描き、左右は屋敷の別棟に通じて、手前はジューンがいる本棟へ続く。奥は鋳鉄の門に延び、門の左右は石造りの欄干で、整形庭園とその外側に広がる風景庭園とを区切っていた。

 視界の限り、すべてコッツワース屋敷の敷地である。牧草地と、こんもりとした林と、光る線のように見える人工池がある。その向こうには、青空と雲が広がっていた。

 正餐室の窓拭きを終えたジューンは、つぎに、床磨きに取り掛かった。カーペットを巻き上げ、雑巾に磨き剤を含ませて、四つん這いで端から後ろに下がりつつ拭いて行く。

 見えるのは、寄木細工の床板だけだ。単調な仕事をしていると、意識が別の場所を漂って、ネザーポート屋敷へと飛んでいく。

 ジョンは元気だろうか。髭面の温かい笑顔を、あれから幾度となく思い出した。

 突然、ジューンの頭が上に引っ張られた。誰かが三つ編みを掴んで、吊り上げようとしている。

「いたたたたた、おやめください、ウォルト坊っちゃま!」

 四つん這いになった身体の横に、少年の脚が見えた。ジューンは起き上がり、三つ編みを奪い返そうと頭の後ろをまさぐった。すると、背後から襟を掴まれ、むき出しになったうなじから何か冷たいものが、服の中に投げ入れられた。

「ひっ!」

 ジューンはのけ反り、慌てて立ち上がった。冷たい感触が首から背中へ、背中から腰へと降りてくる。

「ひゃっ、なに? なんですか、これは」

 背中を見ようとして、その場で一回転してしまう。少年の声が嬉しそうに、うははと笑った。ジューンは両手でメイドの午前用制服をつまみ、ばたばたさせて服の中の異物を振り落とそうとした。しかし腰で下着に引っ掛かり、冷たい上に、水分が出て制服にシミができた。ジューンは服の上から下穿きのドロワーズを引っ張って緩め、それを足元へ通過させた。こんと転がり出たのは、一片の氷である。

「あ、氷? ただの氷ですか?」

 ヒルとか、カエルの類でなくてよかった。

「いい反応! やっぱりジューンのリアクションは最高だよ! おもしれぇ~」

 よく確認しようと、屈み込んでいたジューンの頭の上から、笑い混じりの声が降ってきた。

「ウォルト坊っちゃま、いたずらはご容赦ください」

 ジューンは制服の乱れを直しながら立ち上がった。困り果てたという顔をして、ちょこんと膝を曲げ、礼をした。

 そこにいたのは、ジューンよりずっと背が高い、ひょろりとした細身の少年だった。手で口を覆い、身体を震わしながらまだ笑っている。艶々した濃茶の前髪が揺れ、その下から淡褐色の瞳がジューンを見つめていた。

「昨日はどうして迎えに出てこなかったんだよ? 晩餐にもいねえし」

 少年は笑い声を収めて言ったが、眼はまだ微笑んだままだった。

「はい、あの、昨日のお戻りの際は、ケイトお嬢さまの外出に付き添っておりまして。それから晩餐の給仕は男性使用人がいたしますので、わたくしは基本的におりません」

 両手で雑巾を握りしめ、ジューンはかしこまって答えた。十六歳のウォルトはブルームフィールド准男爵家の後継者、かつ唯一の男子であり、ケイトお嬢さまの弟である。昨日、寄宿学校の夏期休暇で帰省したばかりだった。

「それで、今日はなんでこんなところで掃除なんかしてるんだ? ジューンはケイトの侍女だろ?」

「いえいえ、わたしはお嬢さまのお世話をさせていただいていますけど、正式な侍女ではありません。今朝はアミーリアが体調不良でして、わたしが代わりに掃除をさせていただいています」

 ジューンはにこやかに答えた。ウォルトは眉間を寄せた。

「どうせ仮病だろ? ジューンは気が弱いから、押し付けられるんだ。ぼくが文句を言ってやろうか?」

「とんでもない!」

 ジューンは慌てて否定した。

「仮病ではありません。それに、使用人は持ち場にこだわらずに助け合って働くというのが、執事のメイフェザーさんの方針ですから」

「ふうん、まあいいけど」

 ウォルトはつまらなさそうに呟き、長テーブルの一番端の椅子に座った。

「ジューンも食べろよ。氷と一緒にキッチンでもらったんだ」

 テーブルには木製の深皿が置かれていた。どうやら、中にはナッツ類が盛られているらしい。ジューンは言われるまま二、三歩近づいたが、掃除中だったことを思い出して立ち止まった。

「申し訳ございませんが、掃除が終わってからというわけには……」

「じゃあ、ちょっと口を開けろ」

「えっ?」

「ほら、行くぞ」

 戸惑う間もなく、ウォルトは今にも投げるという素振りをしている。

 坊っちゃんに失敗をさせてはならない。ジューンは思い切り口を開けた。そこへ、ひゅんひゅんとピーナッツが投げ入れられる。

「ほいっ、ほいっ、ほいっと」

 ジューンは錦鯉みたいに口を開けて斜め上を向き、無事に全部のピーナッツを口で受け止めた。

「ナイスキャッチ! おもしれぇ動き! ジューンは曲芸師になれるぜ!」

 ウォルトはけらけら笑っている。

「ありがとうございます、坊っちゃま」

 口の中のピーナッツを噛み砕きながら、ピーナッツを投げると見せかけてダンゴ虫を投げるという悪戯がなかったことにほっとした。

「終わったらまた食べろよ。置いておくからさ」

 ウォルトはにやにやしながらピーナッツを口に運んでいる。

 ジューンは床磨きの続きをする許可が下りたものとみて、お礼を言ってお辞儀をし、仕事に戻った。

 ウォルトはとりとめのない話を始めた。寄宿学校で行われた寮対抗クリケット大会のこと。ルームメイトの笑える失敗のこと。気に入らない教師のことなど。ジューンは四つん這いのまま顔だけ向けて相槌を打ったり、微笑んで見せたり、同調する意見を述べたりした。ジューンはずっと見られていることが恥ずかしかった。床磨きの過程で、ウォルトの方にお尻を向けることもある。袖をまくっているので、腕が肘近くまで出ていることも気になった。

 床磨きが終わると、ウォルトは待ってましたとばかりに隣の椅子を引いた。ジューンは仕方なく腰を下ろし、恐縮しながらピーナッツを摘んだ。

 突然、正餐室の扉が開き、従僕の青年が入って来た。彼は坊っちゃんとメイドを眼にするや否や、ぎょっとして立ち止まった。

 従僕の青年は困惑を浮かべたのちに、ちょうど執事から不本意な仕事を命じられた時のように、不満と怒りを押し殺したような表情になった。あまりのことに言葉も出ないとでもいうように、ウォルトとジューンを交互に見つめる。

「なんだよその眼は! 別に何にもしてないだろ!」

 ウォルトが噛みつくような勢いで立ち上がった。従僕はびくりと身を引いたが、口元を引き結ぶと、反抗心もあらわにウォルトを睨んだ。そしてジューンは、従僕とウォルトの両方にびっくり仰天し、慌てふためいて、おたおたと立ち上がったところだった。

「ジューン、もう行くからな。また今度な」

 ウォルトは吐き捨てるように言うと、ジューンがまごまごと挨拶を述べるのも待たず、風のように出て行ってしまった。従僕は後ろ姿を見送ると、次にジューンを非難がましい眼つきで見た。ジューンは、ご家族用の椅子に座り、仕事をさぼったことを咎められたと思った。

「す、すみませんでした。以後気を付けます……」

 委縮してしまって小さな声しか出ない。ジューンは急いで掃除道具入りのバケツを引っ掴むと、ピーナッツの木皿を取り上げて、逃げるようにその場を後にした。


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