16-5
数秒なのか、数分なのか、とにかくしばらく時間が経ち、ウォルトが静かにため息をついた。
「泣くなよ、何もしてないだろ? これじゃあ、本当にぼくが襲ったみたいじゃないか」
彼はいつも通りの、非難がましい調子でそう言った。さっきまでと様子が変わった気配を感じて、ジューンは顔を上げた。それまで全く気付かなかったのだが、ウォルトは片膝を立てた格好で、足元の床に座っていた。疲れ切った顔をして、困惑した眼で見上げている。
「そんなに泣く必要はないんだよ。ウィンスレットの前でちょっと芝居を打てばいい。言っただろ? 事実は問題じゃない。周囲に思い込ませて、噂を流すだけでいいんだ」
ジューンはエプロンで涙をぬぐいながら、皮肉っぽく語るウォルトの様子を見ていた。彼は感情を使い果たしたのか、もうあまり怒っていないように見えた。
冷静になるにしたがって、自分が何をしでかしたのかが分かってきた。
勘違い! それも、なんて恥ずかしくて、なんて失礼な勘違いをしてしまったのだろう。ウォルトはジューンを辱めるつもりなんかなかったのだ。なのに、勝手に思い込んで、勝手に怖がってしまった。
恥ずかしくて顔が燃え上がりそうだった。彼はジューンが赤くなったことに気づいただろう。ジューンが何を間違えたのかにも、気づかないはずはないだろう。これは侮辱したのと同じことだ。裏切ったうえに、また傷つけてしまった。
ジューンが涙を拭き、呼吸を整え、気持ちを落ち着けているあいだ、ウォルトは憮然として、どこか虚ろな眼でその様子を見上げていた。ジューンの中に、申し訳なさが込み上げた。弁解するなら今しかない。
「そうですよね、ちょっと嘘をついて、噂を流す作戦なんですよね。わたしったら、あははははは! あ~、恥ずかしい。とんだ勘違いをしてしまいました。これからここで何かするのかと思ってしまいました。あ~いやだ、本当に恥ずかしい!」
ジューンは自分を笑い者にしてもらおうと、精いっぱい明るくそう言った。ほんとうは罪悪感で胃に鉄球が詰まっているような気分だった。深刻さの余韻はまだ身体中に残っていて、空元気とのギャップは気持ち悪く、さらに胃が沈み込んだ。ウォルトはくすりともせず、無言で、無表情だった。不安が走り、ジューンは侮辱したわけではないのだと分かって欲しくて、弁解を続けた。
「でも信じてください。坊っちゃんを疑ったわけではないんです。わたしは子供のころからお世話をさせてもらって、坊っちゃんのことはよく知っているつもりです。坊っちゃんは横暴な主人ではありません。子供の頃は、池に飛び込めとか、屋根を走れとか、いろいろ無茶なことを言われましたけど、わたしが躊躇していたら、坊っちゃんは『出来ないんだったら、もういいよ!』と言って、いつも命令を撤回してくださいました。いたずらはするし、暴言を吐いたりもするけど、なんだかんだ言って、死ぬより辛いようなことをお命じになったことはありません。だからわたくしは、今までメイドを続けてこられたのです」
ジューンが微笑みかけると、ウォルトははたとその眼を見つめ返した。
「死ぬより辛いようなこと……」
苦い薬を飲み下してでもいるように、ウォルトは顔をしかめながらそう呟いた。
「ええっと……、つ、つまりですね……」
ジューンは漠然と、話が通じていないのだと思った。ウォルトはもの問いたげな瞳でジューンを見上げている。彼が聞く耳を持っているうちに、分かってほしくて、ジューンはまた話し始めた。
「わたくしは、坊っちゃんが何故そういう風に言うのか、お気持ちが分かるつもりなんです。ずっと前から坊っちゃんのことを、わたしと似ていると思って、失礼ながら、勝手に親近感を持っていたんです。……たぶん坊っちゃんは、自分のことを悪者にしてしまえば、安心するんですよね? 好かれているより、嫌われている方が気楽なんですよね?
期待するのは怖いし、信じるなんて絶対に無理で……。何か理由を残しておきたいんですよね。わたしがちゃんとしなかったから、ほら、やっぱりダメだったって、思いたいんですよね。
だけど多分、ほんとうは、そんなことをする必要はないのだと思うのです。脅したり、他の何かで釣ったり、自分からぶち壊したり……。ダメな理由をいっぱい作って、本当にダメだった時のための言い訳を、あらかじめ準備しておく必要はないんです。ただ普通に、欲しいものを欲しいと言って、して欲しいことをして欲しいって言えばいい……。多分そうだと思うのですけど、出来ないのですよね? わたくしも同じです。怖くて出来ないのです……」
ジューンは悲しい気分になりながら、自嘲の苦笑いをして見せた。
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