16-4
「おまえはコッツワースが好きだろ? コッツワースにずっと住みたいって言っただろ? いい話だと思わないのか?」
ウォルトは喘ぐように言った。彼はジューンを懸命に睨みつけていた。その白い肌には汗が光り、長い前髪が濡れて張り付いていた。いつもより赤みを増した唇がやや開いて、荒く息をしている。骨ばった肩が上下し、固く握られた両手が微かに震えていた。
威嚇するようでいて、ジューンには彼の眼がおののき、すがるようにすら見えた。恐れているのはわたしではなく、この人の方なのだ。
「ちょっと……考えさせてください」
ジューンは幾分か平静になって、こわばった声で伝えた。ウォルトは無反応だったが、かなり間があってから我に返ったようになり、こう答えた。
「えっ……考えるのか?」
「は、はい、あの……すぐに終わりますから」
ウォルトは不審そうな顔をして立ち上がり、ジューンから眼を離さずに後ずさった。その様子をジューンが無言で見つめていると、彼はバカにするように一つ鼻で笑って、くるりと背中を向け離れて行った。
ジューンは知らず、安堵のため息を漏らしていた。一瞬、冷静になったような気がしたが、すぐに早く考えなければという焦りで、頭が真っ白になった。
ウォルトは窓枠にもたれ掛かり、闇夜を眺めていた。ガラスに、虚ろな表情が映っている。ジューンがそれを見ていると、彼は振り返った。そして、眼が合うとむっとしたように眉根を寄せ、また窓の外へと視線を逸らせた。
ああ、どうしよう! ……ジューンは頭を抱えて唸りたい気持ちだった。
しっかりしなければ! 冷静に、どうすればよいのかを頭で考えるのだ。坊っちゃんのために、わたしはちゃんとよく考えて返事をしなければならない。
メイドと結婚するなんて馬鹿げた思い付きだということは、坊っちゃんも正気に戻れば分かるだろう。問題は、今のこの場をどう収めるかだ。
母親代わりの心から信頼できるメイドが、一人でもずっと屋敷にいれば、坊っちゃんはそれで心を落ち着かせていられたはずだった。なのに、わたしが裏切ってしまった。そんなつもりはなかったけれど、エドマンドとの結婚が一瞬も頭をかすめなかったと言えば嘘になる。わたしが彼を怒らせ、不安にさせ、悲しませて、こんな行動をとらせてしまったのだ。
拒否したら、また傷つけてしまう。今まで通りに、彼の言うことを聞いてあげれば許してもらえるのだろうか。
不思議な感覚がした。
自分の中の過去と出会った。わたしは虐待されていたあの頃と何も変わっていない。明日まで生き延びるのが精一杯! 意識が朦朧として、とても耐えられない仕打ちに毎日挑んでいた。この屋敷での楽しかったこと、エドマンドの笑顔も、ぜんぶ一夜の夢だったみたいだ。
嫌なことは息を止めて飲み込んでしまうしかない。腐った食べ物を、泣きながら食べたときみたいに。歯を食いしばって、我慢するのだ。殴られているときは、意識が身体から抜け出る心地がして、自分の身に起きていることが他人のことのように思えた。
「承知しました、坊っちゃん。あなたの計画通りにいたしましょう」
一瞬、そう言ったのが自分ではないような気がした。
ジューンは恐怖のために取り乱したり、衝動的に逃げ出したりしてしまわないことだけに意識を集中した。ウォルトが窓を離れて、こちらへ来る気配がした。動かないようにしなければと思い、かえって身体が震え始めた。
自分自身が、自分の制御の手を離れていく。
気が付くと、何か液体が頬を伝い、顎から滴り落ちていた。
「おい……なぜ泣くんだ?」
ウォルトのかすれた声が近くから聞こえた。とたんに悲鳴とも嗚咽ともつかない声が口から漏れ、眼から水が溢れた。息が苦しく、ジューンは喘ぎながら答えた。
「分かりません……、たぶん……子供のころのことを思い出して、悲しくなったんだと思います」
少し間があってから、ウォルトの怒りを押し殺したような声が返ってきた。
「最低な母親と、ぼくが同じだって言いたいのか?」
ジューンはしゃくり上げ、口で必死に息をしながら、首を横に振った。
「いいえ……わたしはただ、自分が情けないだけなんです。ずっと同じなんだなって……それが……情けなくて……なんだか悲しいのです」
泣き止もうとする気力もなく、何をする気も起きなかった。身体が震え、際限なく涙が溢れた。ジューンはむせび泣きながら、うつむき、眼を閉じた。自分を手放し、すべてがどうでもよくなり、何が何だか分からなかった。この間に、早く終わってほしい。考えていることは唯一それだけだった。
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