16-3
二人の視線が合い、しばらく離れなかった。ジューンは少年の淡褐色の瞳が、言葉とは裏腹に、怯んだように揺らぐのを見た。ウォルトの気がたかぶり、どんどんと呼吸が荒くなるのが分かった。彼は両手のこぶしを握り締め、二度、三度と大きく肩で息をすると、無理に引きはがすように前を向き、再び壁に向かって歩き出した。
「いや、ぼくは初めから卑怯だった。ジューンがこの家に来た時から、ぼくは分かっていたんだ。ジューンは他のナニーやメイドたちとは違う。なんだって言うことをきく。絶対に逆らわない、ぼくの奴隷なんだって」
ウォルトは奇妙に興奮した様子でジューンの目の前を行き来した。返答を差しはさむ間も与えず喋り続け、ときどきジューンを見つめるのだが、ジューンが見返すとふいと眼を逸らせた。
「ぼくは子供だったけど、ちゃんと理解していた。ジューンは実の母親に殺されかけて、この家に来た。帰る実家はないも同然で、他に行くところがないから、横暴な主人にひどい目に遇わされたって、辞めることが出来ない。ぼくはちゃんと知っていた。実家を逃げ出せたと思ったら、今度はブルームフィールド家の奴隷になったようなものなんだって。
だから、他のナニーたちとは違う。ぼくの前ではにこにこしていたくせに、急に辞めたり、……次の勤め先が決まったとたんに、急に態度がでかくなって、面と向かって罵ってきたり……、そんなことは絶対にしない。ジューンはぼくに何を言われても、どんなに酷いことをされても、我慢して受け入れるしかない。だから、ジューンはいつだって安心なんだ。断らないし、辞めないって分かっているから……。
でも……怖がるなよ、この計画はジューンにとっても得な話なんだぜ。はっきり言って、ホワイトストン家の四男と結婚するより、こっちのほうがずっと得だ。ジューンには約束を守ってもらう。ずっとこの家にいて、ぼくがブルームフィールド家を継ぐところを見る。ただし、コッツワース屋敷のメイドとして見るんじゃない。……ブルームフィールド夫人として、一緒に継ぐんだ」
ジューンは何を言われたのか理解できず、きょとんとした。ウォルトは反発される前にとばかり、慌てて言葉を続けた。
「コッツワースの女主人になったら、ジューンのことを見下している連中のこと、見返してやれるんだぜ。えらっそうなメイフェザーとかウィンスレットとか、逆にこっちから命令してやれる。ケイトだって、今のブルームフィールド夫人だって、父上が死んでしまえば、もう誰も逆らえなくなるんだ」
「ちょっと待ってください、坊っちゃん。あ、あなたが何を仰っているのかよく分かりません。わたくしが……、まさかブルームフィールド夫人? そう仰ったのですか?」
ジューンは思い切って声を上げた。改めて口にすると、ウォルトの突拍子もない思いつきに眼を丸くせずにはいられなかった。
「そんなこと出来るわけがないと思ってるだろ? それが、出来るんだぜ。父上に承諾させることなんか、案外簡単なんだ」
ウォルトは答えると、ますますせわしなく、部屋を行ったり来たりした。
「父上は真面目だからな。バカ息子がしでかしたことの責任を取らなければならないと考えるだろう。出来損ないの不良の跡取り息子が、屋敷のメイドを襲った……なんて、こんな田舎で、噂はあっという間に広がる。そうなったらもう、相手がメイドでもなんでも、結婚させるしかない。慈善家としての名声を守るためにも、父上はそうするしかない。ジューンはもう純潔を失って、ホワイトストン家に嫁ぐことも出来なくなるんだから」
ジューンはやはり事態が飲み込めず、眼を瞬かせた。それを見たウォルトがすぐに答えた。
「純潔なんかもうとっくにない、って言ったって、ぼくは構わない。要は、周囲がどう思うかだ」
ウォルトは立ち止まり、追い詰められて殺気立ったような顔つきをして、一歩、二歩とジューンに近づいた。ジューンは、自分の中の本能的な部分が危機を感じ取り、戦慄していくのを感じた。頭の中は呆然として、まるで、考えたら恐ろしい結論が出ることを予感した脳が、考えることを拒否しているようだった。
「最初は周りから色々言われて辛いかもしれない。でも世間の噂なんかいつか消える。それでコッツワースが手に入るんだったら、安いもんだろ?」
目の前にウォルトが立っていた。
ジューンは無意識に両腕を交差させて、自分の身体を抱きしめた。身体が、勝手に震え始めた。頭では、今のところまだ冷静なつもりなのに、身体の方は素直に反応するものらしい。恐怖の自覚もはっきりとしないまま、身体がぶるぶると震えて止まらなかった。
「怖がるなよ……ジューン」
そう言って、ウォルトが動いた瞬間、ジューンはひっと短い悲鳴を上げ、身をよじって逃げようとした。すぐに、ウォルトはその場にひざまずいただけだと分かった。彼は気まずそうな顔をして、しかし上目遣いにジューンを睨みつけていた。ジューンは理性で衝動を押さえつけ、震えながら身体を元の姿勢に戻した。
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