10-5

 きっとライト夫人を恐れて、本当のことが言えなくなっているのだ。

 いや、違うのだろうか。わたしが「虐待されている」とメイに言わせたいだけなのかもしれない。本当にそんな事実がないのなら、その方が良いに決まっているのに……。

「ねえ、ジューンはどうして、実家に仕送りをしないの?」

「えっ?」

 唐突に尋ねられて、ジューンは思わず眼を丸くした。メイは不意打ちが成功したことを喜ぶように、どこか得意になってこう続けた。

「お屋敷に奉公に出たら、ふつうはお給料を実家に送るものでしょ?」

「それは……止められたのよ、アダムス牧師とサー・ウォルターの両方から。仕送りはしちゃいけないって」

 メイは呆れたというように、ジューンの方を顎でしゃくった。

「ふうん、わかった。お母さんがいつもそのことを怒っているから、伝えておくね」

「あ……」

 反発心が込み上げたが、それ以上言葉が出なかった。

 仕送りですって? 怒っている?

 ジューンは自分でも納得できない罪悪感のために、つい言い訳がましくアダムス牧師とサー・ウォルターの名を出してしまったことを激しく後悔した。ジューンの頭の怪我は、死んでもおかしくないものだった。なぜ自分を殺そうとした人間に仕送りしなければならないのだ? そう、はっきりと言えばよいはずなのに、言えない自分が腹立たしい。

「ねえ、メイ、あなたは多分、ライト夫人から本当のことを教えられていないのだと思う」

 ジューンは少しだけ大胆な気分になって、そう持ち掛けた。メイは興味を惹かれたようだった。

「本当のことって?」

「たとえば、わたしがライト家を出た理由とか……」

 すると突然、中年女性ががなり立てる声が、廊下からけたたましく響いてきた。

「おやまあ、これは立派な病院だねえ! ずいぶん広いね。あれはなんだい? はあ~、なんだかすごい機械があるよ。これは最新式だね。大したもんだよ。さすがは准男爵さまが創った病院だけのことはあるよ! こんな立派な病院は見たことがないよ!」

 その声は異様に大きく、骨の芯までびりびりと痺れるようだ。ジューンは息も出来ない感覚になり、メイもまた、石になったように動かなかった。

 わかるよ、メイ。

 その声は、ジューンをいとも簡単に子供時代に引き戻した。

 左後ろあたりで、乱暴に扉が開く音がした。ジューンは椅子から飛び上がり、考えるより先に壁際まで逃げた。

「はい、失礼しますよ! ちょいとごめんくださいね! こちらに子供がいるはずなんですがね!」

 だらしなく乱れた、ひっつめ髪の女だった。赤茶色の外出用ドレスに、古めかしいレース編みのショールをひっかけている。女は大股に病室の奥まで行くと、そこで首を突き出し、周囲を見回した。痩せた長い首に、前のめりの姿勢がカマキリを思わせる。その皿のように見開いた眼が、一瞬たしかにジューンを捕らえたと思った。

 ライト夫人は、今度は肩をそびやかすと、こちらを睨み付けながら、優位性をたっぷりと知らしめるように、わざと時間をかけて近づいてきた。九年前から、老いたのかどうかはよく分からなかった。ただ、ジューンは初めて気がついた。ライト夫人は大きな眼をした幼顔で、世間一般的には美人と言われる顔立ちだった。この顔を忘れていたわけではない。九年前はたぶん、恐怖のためにそんな発想が起きなかったのだ。

 それに、こんなに小柄な人だっただろうか。

 ライト夫人はベッド脇までくると、やにわにメイの傷ついた右腕を掴み上げた。

「さあ、帰るんだよ! 早くおいで!」

 メイは痛がり、うめき声を上げた。ジューンは駆け寄ったが、黒い大きな何かが割り込んできて行く手を阻まれた。

「おやめなさい、手を放すんだ!」

 見上げると、それはサー・ウォルターの背中だった。彼はライト夫人の腕を掴んでいた。

「痛い、痛い、痛い!」

 ライト夫人が悲鳴のような声を上げてメイの腕を放した。サー・ウォルターはライト夫人を引っ張って、メイから引き離した。

「ああ、腕が折れちまうよ! なんて力なんだい! 弱い者いじめはやめておくれよ!」

 ライト夫人は小動物のように憐れっぽく身を縮ませて、腕をさすりながら、病室の奥に向かって他の患者全員に聞こえるよう大声を上げた。サー・ウォルターが心配そうな顔になり、今にも謝罪しそうに見えたそのとき、別の男の声が病室に響き渡った。

「おいおい、あなたが先に乱暴をしたのでしょうが! 言いがかりはやめていただきたい!」

 大声でそう言うと、アダムス牧師はライト夫人を制するように睨みつけたまま、口だけ笑顔になった。ライト夫人は思い通りに出来ないことを悟ったのか、あっさりと腕をさすることをやめて、ふてくされ顔でその場に佇んだ。

「ミセス・ライト、大事なお嬢さんを一刻も早くご自宅に連れて帰りたいお気持ちはお察しします」

 サー・ウォルターがライト夫人の前に進み出て、身を屈めながら話し掛けた。それを見たライト夫人は、大袈裟に憤然として腕を組み、そっぽを向いた。


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